2017年4月30日日曜日

遺言 2017「人生を持て余すということ」

 タイトルの「遺言」というのはたいして深い意味があるわけではなく、まとまった文章を書く気力がないので、愚痴とも雑談ともつかないものを、ただダラダラと書いてみようと思いました。そんな記事です。


「人生を持て余すということ」

 これは前回のブログ「芸術と救済」に自分自身の人生と時間を持て余していると書いたことの続きです。

 ちなみになぜ人生を持て余しているかの理由はわかってます。それはアドラー的に言えば重要な3つのタスクからずっと逃げ回ってきた事の必然的な結果であり、その事を少し語りたいと思います。

 かつて心理学者のアドラーは誰もが避けられない重要なタスクとして「愛」「交友」「仕事」の3つがあると言いましたが、それを私の言葉で言うと・・・次のようになります。
 「愛」 は人生を共にするパートナーを見つけること。
 「仕事」は社会での役割をみつけて生活をすること。
 「交友」は友人や自分が生活するコミュニティを得ること。

 そしてアドラーは誰もがこの重要な人生のテーマからは避けることができず、何らかの形で取り組まなければならないとしました。このシンプルな指摘は重要でおそらく正しいと思っています。私もアドラーに関する本を読んだことがあってアドラーの実際的でリアルな考え方は共感する者の一人ですが、
 いざ自分の人生を振り返ってみれば、私自身はずっとこの3つのタスクからひたすら逃げ回るような人生ばかりをおくってきたように思います。

 どんな感じかというと、「愛」人間関係を構築するのを面倒がって結局は一人。「仕事」も食うには困らない程度にはやってこれたが定期的に転職(何度もリセット)してきた。「交友」でも新たな関係を積極的に自分から構築しようとした事がほぼないので、ものすごく付き合いが狭い。
 
 これは別に深い意図や明確なポリシーあったからではなくて、なんとなく人間会計が苦手で面倒だという理由で、深い付き合いをする前にいろんな物をリセットしてきた結果です。なのであたかも社会には存在しているが、結果的には半分「隠者」のような暮らしを続けてきました。
 例えば付き合いが面倒なので「ゴルフ」はやらないとか決めて避けたし、性格的に興味ないことに付き合ったり調子合わせたりできないので、悪意や敵意もないのだけど結果的に色々と避けてばかりいたような気がします。

 そして、そうやって過ごしてきた人生がどこにたどり着いたかと言えば、

 「ホーム(自分の居場所)がいまだ見つからない」

 それが現在の私自身です。

 ホームが無いというのは精神的なもので、もちろん物理的に居場所がないわけではないです。なお今の所は食うに困っているわけではありません。でも私には帰りたい故郷とよべるものも無ければ、また思い出して浸りたいような過去もありません。どこにも属していないので帰る場所も思い出に浸るような時代もない。ただ今の時間しか存在せず、歴史や社会とは切り離されているものです。

 なので言い換えれば私はおそらくもっとも過去をもたず、影の薄い人間だという事になるのでしょう。
(他人が私をどれだけ記憶にとどめているかは解らないのだけれども)

 だから私には「愛」というものが基本的には無いのだと思う。親族や友人もいるが亡くなったとして涙を流すかどうか解らない。それにこの社会(日本)が滅んでも悲しいとは思わないかもしれない。だからといって反社会的でもない。べつに憎しみや恨みもないのだから。
 愛がないというのはこういうものなのだろう。例えば日本の状況は最悪だが、デモに参加して正すために運動するよりは、むしろ黙って海外へ移住したいと気持ち的には思う。だからデモや政治的な活動をする人は私は概ね尊敬に近い気持ちをもっている、だって彼らには少なくとも「愛」があるのだから。(例え歪んだ形であったとしてもね)私には到底無理だ。

 最後に、こんな人生が良いか悪いかは解らない。

 ただきっと「つまらない人生」だったのだろうと思う。

 なので私のような生き方は誰にもオススメはしません。


<余談>
 「つまらない人生」だったとは思うが、もしもやり直したいかと問われたら、きっと私は「もう人間は二度とごめんでやり直したくない」と答えると思う。
 私自身は来世はいらない。輪廻転成や天国もいらないと思っている。なので時折、なぜに人は来世を望むのだろうかと考えることがある。私の考え方は変なのかな・・・よく解らないがまあいいか。

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