2016年10月16日日曜日

「妖(あやかし)」の思考、「人間」の思考

 最近ふと「夏目友人帳」を見ていてなんとなく納得した事があるのでブログを書くことにした。テーマは「妖(あやかし)の思考」で、つまりは人間以外、あるいは普段とは異なる思考方法について考えを述べたいと思う。

 少し補足すると「夏目友人帳」は日本で人気のある妖(妖怪とか物の怪など)をテーマにした漫画で、妖を見る力を持っている主人公の高校生が色んなトラブルや不思議な体験をする話である。
 ちなみに私はグロい話は好きではないけど「百鬼夜行抄/今市子」とか、あるいは神話をテーマにしたような話はわりと好きである。こういった物語はイマジネーションを書きたてるし、異なる文化を持った者との出会いを描いた体験談として読むと楽しいからだ。



 では話を戻すと、夏目友人帳を見ていて私がなるほどと思ったのは「妖って起承転結を求めないんだ」という事である。

 つまり彼ら(妖)は「物事に対して理由を求めない」。何故こんな事がおきたか、どうしてこうなったかと言った経緯や理由を考えるより先に、まず目の前に起きた出来事をそのまま受け入れる。そして理由を細かく詮索したりしようとはしない。おそらくこれは多くの昔話や神話で繰り返されるテーマなのだと思う。

 ここには「なんらかのルール」が存在しており、皆がそれを受け例れて暮らしている。けれどもルールを作ったのか誰か、どんな理由で作られたのかなどは解らない。そして意図がわからぬものであっても「ルール」を破れば何らかの報いを受ける。
 つまり彼ら(妖)は近代人のような論理的な思考をしないのである。私はここまで考えて、むしろ妖の思考は幼児や未開民族に近いのだと思った。



 ここまで書くと、すぐに「妖の思考というのは未熟な知性であって、成熟した現在人より劣るのではないか」というような事を言い出す人が出てくる。だが私はしたいのはそんな話ではなくむしろその逆である。

 私が「夏目友人帳」をみてちょっと感動したのは「彼ら(妖達)の起承転結(理由)が無くても良いのだ」というその自由さと大らかさについてである。そして、同時にいかに現在人は多くの理由(理屈)に縛られているだろうと思った。


 これを説明する為にあえて少しだけ話を飛躍させる。例えば「獣(動物)の思考」という物について考えてみたい。

 妖の思考と言うのはおそらく獣に近い。むしろ逆に獣が言葉を語れたならばきっと妖のような事を言いそうな気がする。

 では動物と人間の思考は何が一番違うのだろうか?

 私はその答えは「時間」だと思っている。地球上では人間だけが明確な時間の概念を持っている。これは一見なんでもないように思えるが、じつはこのちょっとした違いがとてつもなく大きな差異に繋がる。

 なぜならば時間を持つがゆえに、人は過去・現在・未来に自我を分断されている。そして過ぎた事に対する後悔や、まだ見ぬ未来に対して恐怖する。動物は人間ほど明確に過去と未来というような概念を持たない。彼らは常に目の前の現実に対して全力で取り組むのであって、手を抜いて余力を残そうなどとは考えない。そしてそうであるがゆえに後悔という概念も必然的に無いのだと思う。

 ちなみに今回のテーマである「妖」、あるいは神話に登場する神や悪魔というものは、基本的に永遠であって明確に寿命を持っていない。それはおそらく偶然ではなく、時間を持たない(あるいは縛られない)ゆえに、彼らは起承転結に縛られない存在となっているのだと思う。永遠という長い尺度で世界を見る者にとっては、世界は常に移ろいゆくものだからだ。

 私の考えでは人は時間を持つがゆえに論理を組み立てて文明を創り出した。だがその代償として後悔や恐怖に常に捕らわれる存在になった。過去・現在・未来に自我が分断されたがゆえに、より心は窮屈になり喜びも小さくなった。

 なので考えてみて欲しい、誰もが一度は「人間を辞めて動物になりたい」考えた事があるだろう。タカになって思う存分飛びたい、ライオンのごとく自由に平原を力の限り走りたい、クジラのように海の果てまでも泳ぎたい・・と。

 私も度々考えた事がある。もしも人間であるという制約(呪い)を捨てられたらどうなるかとか、獣のように生きられるヒーローにあこがれたりした。なので私は「人間の思考 > 妖(けもの)の思考」というような優劣関係があると考えるのは誤りだと思う。



 人間であるという制約(呪い)は多くの哲学者や宗教家などが取り組んできた永遠のテーマである。下記はあくまでも私見であるが・・・

・かつてキリストは唯一神(天国や地獄)という永遠をベースに人々に隣人愛を説いた。

・クリシュナムルティはその著書の中で分断された自我ではなく完全なる自我(例えば愛そのものに同化する)という境地があると説き、それが恐怖を克服する鍵であると述べた。

・いにしえの武人(伊藤一刀斎とか)が語った無の境地や無拍子という概念は時間という制約を超えて自由になる事を示唆している。


 おそらく多くの人がこの人間という制約(呪い)を超えようと、言葉や分野は違えど色々と語ってきたのだろう。例えばリチャードバックが書くのは、常に主人公(カモメのジョナサンなど)が自分の壁を乗り越える事を目指して足掻くストーリーである。私たちは人間的な思考を続けながらも、いつかは別のステージに上がる事ができるのではないかと夢想を続けている。これこそが人類の普遍的なテーマなのだろう・・・。



 おっと、どんどん話がデカくなって私の手に余るようになってきた。

 最後にだからどうだという話だけど、

 「私もいっそ妖になりたいな・・・」という話である。(だって楽しそうだもの)


<余談:密教戦線サンガース>
 私がよく思いだすヒーロー(獣のような生き方)は、漫画「密教戦線サンガース/笠原倫(1989年)」の主人公(W浅野)である。主人公は普段周囲にどうしようもない不良として腫物のように扱われているが、その行動にはまったく迷いや後悔がなくて本当に素晴らしい。自分自身に対してまったく嘘をつかないし葛藤など基本的にしない。
 そしてレイモンド・チャンドラーみたいなセリフを言うハードボイルドなキャラなのもいい。思ったままに怒るし行動するしだが、シンプルであるがゆえに肝心な時には間違えない。
 もう本当にこの作品は大好きで、マイナーなんだけど何かの拍子に復刻してヒットしたりしないかなと願っている。ちょっと古いけど次のような作品を連想するような渋い漫画なので、興味あれば是非一度読んでみてください。
・往年の日本ハードボイルドドラマ「探偵物語(松田優作)」「俺たちは天使だ(沖雅也)」
・映画「ブルースブラザース」

<参考>
密教戦線サンガース



2016年9月19日月曜日

「チェルノブイリの祈り/スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ」を読んで

<はじめに>

 この本はいつか読もうと数か月放置していたが、手に取って読み始めた途端に引き込まれて結局は一気に読み切ってしまった。これはドキュメンタリーである。だが多くの示唆に富んでいる。おそらく読み手によっては様々な解釈が成り立つだろう。
それは優れた読み物の条件だが、同時に安易なレッテルや噂などによってこの本を手に取るのを躊躇ったり素直に受け入れられない人もいるかもしれない。そんな事があってはとても残念である。なので、あまり前例はないのだけれども、今回は少しだけ私がこの本の読み方について話したいと思う。

 もちろん私はしたり顔でこの本の解説をしたい訳ではない、それに色眼鏡を押し付けたい訳でもない。むしろその逆に自由な形で読んで各人なりに感じて欲しいと願っている。だからお願いしたいのは、この本を読んで何を感じたとしても、その想いを大事にして、じっくりと考えて欲しいという事だ。


<本書の読み方>

 私の場合は最初の数ページ読み進めた時に「ああ、これは物語だ」と直感した。そして以後は物語としてこの本を読み進めた。まるで小説でも読むかのように、違った世界の違った昔話、あるいは神話のように、ただただ読み進めた。

 それはおそらくアレクシエーヴィッチの狙いでもあったのだろう。これはドキュメンタリーでありながら一般的な手法である客観的な時間軸や政治家などのキーマン等々の優先を付けるのではなく、ただひたすらにインタビューに出会った人たちの視点での出来事やドラマを語っている。

 ゆえにそこで語られる物語は不思議な生々しさを持つ。まるで知り合いに話を聞くかのような、身近に同じような人がいるかのような印象を受ける。そしてその痛みに圧倒される。

 本書の最初に語られるのは消防士のエピソードで、チェルノブイリ原発事故に対応した消防士が病院で手の打ちようもなく亡くなる過程の理不尽ともいえる不幸や悲しみである。その痛みは歴史学者が語るような、あるいは科学者や政治家が語るような事故とはまったく別ものである。そこに描かれるのは愛する人を目の前で失ってゆく、人間としては当たり前の痛みそのものである。アレクシエーヴィッチが書いたのは歴史ではなく、物語としての個々の声そのものなのだ。

 私は本書を読んで「我々にとってまず第一に重要なのは、悲しむ人に寄り添う事」では無いかと思った。痛みを想像する、あるいは聴く、寄り添う、それ自体は何かを動かす物ではないのかもしれない。だがそういった想像力が無ければ、永久に同じ問題を繰り返してしまうのではないだろうか。

 だがそれは簡単な事では無いのかもしれない。日本には3.11の記憶がある。だがメディアや政府の対応、あるいはネットの声を見て「どうして、傷ついた人に寄り添ってあげようという簡単な事が言えないのか?」と何度も感じた事がある。その他大勢ではなく、各自にはそれぞれの人生や事情がある、それぞれの悲しみや痛みがあるとどうして語れないのだろうと。

 日本は特に弱者に厳しいと感じる。少し前にあった「貧困JK」が良い例だが、困っている人を支えようとするよりむしろ叩こうとする。あたかも困っている人が存在する事が「恥」そのものであるかのように。

 だからこそかもしれない、日本ではいまだに3.11の記憶うまく受け止められていないと感じる。本書ではこれが初めてと思われるような、生々しい悩みや心情が語られている。そのような言葉はまだ日本では語られていないと思われる。

 今でも悩み苦しむ人がいるはずなのに多くの人が問題を受けれられズに混乱しているように感じる。あたかも問題が無かった事にしようと耳をふさぐ人、傷つき裏切られたと感じて怒る人、あるいは悲しみをどこにぶつけて良いか解らず虚無に捕らわれる人など様々だ。なので本書を読んだ際に描かれる被爆者の描写は大げさで誇張だとか、3.11はチェルノブイリとは違うなどと頭から拒否反応を示す人もいるだろう。

 だが私はこれらの全ての人にこの本を手に取って貰いたいと思っている。ゆえに一つの方法として「物語」としてまず読んで欲しいと思っている。これは異なる世界の出来事を扱った物語である。あるいは我々が住む世界とは枝分かれした可能性の未来(パラレルワールド)であるとして観て欲しい。
 そして最後まで読み終えてから、ここで感じた想いをどう扱うかをゆっくりと考えれば良いと思っている。すぐに答えが出なくてもよい、数年でも数十年かかっても良い。おそらくそれがアレクシエーヴィッチが指示したものなのだろう。



<感想>

 読んでみて思いだしたのは、3.11があった時に感じたあの違和感だった。本書でも度々同じような想いを語る人が登場する。
「事故の起こる前と後では世界(あるいは自分)が変わってしまった」と。

 私も時折同じような事を感じる。日本は3.11の前と後では大きく変わってしまった。それは単に福島原発事故の影響ではなく、「福島原発事故」を受け入れる事ができないでいる事で生じる。そして受け入れられていないゆえに日本ではずっと迷走したチグハグな対応が進められている。

 例えば地震が起こる度に原発は大丈夫かと恐れる癖に原発を止められない事、不安すらもメディアでは語る事が出来ない事。
大丈夫だと言いつつ再稼働を進めながらも責任は曖昧で避難計画などの備えが不足などと切りがない。

 これは多くの人がいまだに現実を受け入れられていない事を示しているのだと思う。むしろ多くの人はいまだに何事もなかった世界を演出しようと躍起になっているように見える。そうして現実に存在する人々の痛みを口を塞いでいる。声を挙げる者を恥だと虐げる。

 だがそうすればするほどに、私たちは現実感を失っていき、幻の中で暮らすようになる。まるで生きたまま死んでいるかのように・・・。(あたかもFF10に登場する死者が支配する世界、ザナルカンドのように)

 そうした幻の中の世界、事故から数十年過ぎた世界が、この「チェルノブイリの祈り」という物語だと私は思う。

 そしてこれらはいつか同様の事が訪れるかもしれない未来の一つでもある。

2016年8月21日日曜日

貧困について今考えるべき事柄 ~貧困JKパッシングについて~

 貧困JKパッシングという不可思議な最近のニュースより色々と言いたいことが出てきたので少し書いてみる。

 この問題の経緯を簡単にまとめると、NHKで子供の貧困をテーマにした番組を報道したところ体験談を語った女子高生の記事を見たネット民の一部が、番組中に報道された女子高生の部屋や生活より「貧困とは言いがたい」「やらせではないか?」というパッシングが起きているという問題である。

 まず初めに言うが私はこのNHK番組を見てないし見る気もしないが、それでもこのパッシングが理性的ではなく、ネット民の一部が炎上ネタを作りたくて騒いでいるだけだという事だけは関連するネット記事から十分に推測できる。そして何故かここに片山さつき(国会議員)が便乗しているもいつもの炎上案件と同様である。
 ねつ造という言いがかりは根拠薄いという指摘は「不倒城」と同意見なのでそこはコメントを省略するとして、私は少し違う視点でこの問題について補足したいと思う。


 まず始めに、どうもパッシングしている人は全体的に貧困を体験したことがない、あるいは想像力が不足しているように思われる。彼らは貧困を単なる金銭的(物理的)な問題だけで論じているが、それがそもそもの誤解を生む原因である。本来は貧困という問題は金が無いというだけでは語れないものなのだ。


 貧困がもっともやっかいなのは、貧困者は長くその環境に追い込まれて心理的に余裕がないところである。心に余裕がないとそもそも人は落ち着いて考えて合理的に判断したり計画したりできない。そして将来に希望がないと、そもそもそんな事を考える気力が起きない。またそこまで落ち込んでいる時点で相当に負のメンタル状態なので、相談する人を見つける事も難しく、また周りに良い人もいない。

 例えば金持ちが破産してやり直そうとしているのと、生まれつき貧乏人が這い上がろうとするのは決して同じ条件とは言えない。金持ちは破産するまでの人脈・知識・経験よりやり直せるとポジティブに考える事は容易かもしれない。だが生まれついての貧乏人はどうか?
 良い人脈もなく知識や経験を得る機会も無く、長く社会に裏切られて踏みつけられた記憶をかかえてどうポジティブになれるというのか? ポジティブで前向けに行けと言うのは理想だが、まず普通の人間には無理だろう。

 これは鬱の問題やブラック企業の問題に似ている。弱っている人間は徐々に真綿で首を絞められるように追い詰められていき、気が付いた時には反抗する気力も力も奪われている。

 そもそも、心にまず余裕がないと、あるいは誰か信頼できる人の支えが無いと、独りで立ち上がれるほどに普通の人間は強くない。


 この記事に関連してTwitterで上手いコメントがあった。

貧困層とは、定期券を買うお金がなく、毎日普通の切符を買って通勤しているような人のことだ

 これは実に的を得た指摘である。例えば他にも似たような貧困の例がいくつかある。
・アパートを借りれずにネカフェで生活する
・自炊ができなくてコンビニ弁当にたよっている

 時々貧困層に対して自炊するぐらいの能の無い愚か者だ・・・的な揶揄をする者がいが、本当に貧しかったら自炊すらできなくても不思議ではない。例えば自炊を始めるにあたっての暗黙の前提が満たせないからだ。
・自炊する鍋や食器を買う金(初期投資)がない
・調味料を買う金(初期投資)がない
・貧乏暇なしで料理をする時間がない(例えば安いバイトを掛け持ちせざるを得ないとか)
・過酷な労働で生活が不規則で定型的に食事をする暇もない(ブラック業務に追われているとか)

 ちなみに自炊とか掃除とかそういうのは、あるい程度の心の余裕がないと現実にはなかなかできないだろう。追い詰められてボロボロになった人間からすれば自炊する気力なんて到底でなくて、むしろ安酒に浸るようになっても不思議ではない。



 ここでちょっと発想を逆にして考えてみたい。

 さきほど長々と私は貧困の問題は金だけではないと述べたが、逆に言うと単純に金をつぎ込むよりも、もう少し心理的なケアも含めた支援をする事が出来れば、もっと効果的な改善ができるのではないかと思う。例えばネカフェで暮らす人を定住できるように資金や知恵を援助したり、自炊する道具を貸したり、同じ悩みを抱える同士を探して結び付けたり・・・私は素人なのでこれはあくまでも単なる思い付きだが、もっと柔軟に支援できれば幾らかでも道は開けるのではないだろうか?

 そして、今回の問題をパッシングしているような人も、今回述べたような事を踏まえて貧困層の人達を見てあげるならば、おのずと問題の理解も解決も進むのではないだろうか?

 これはあくまでも可能性の話に過ぎない。だが貧困から脱出する人が増えれば、それは放っておいても知恵となって広まるだろうから、社会的にも良い効果を生むと思う。ひいては経済発展にもつながるだろう。

イソップ童話的に言えば、今この国に必要なのは「北風」ではなく「太陽」の方である。

 そう言った事も踏まえてこの問題をみて欲しい。そうすれば本当は何を問うべきかが解ってくるだろう。


<参考リンク>
子どもの貧困 学生たちみずからが現状訴える

NHKが貧困報道でねつ造をした、という件がちょっとよくわからない

NHK貧困報道の女子高生への批判に違和感

NHKの貧困女子高生特集(貧困JK)についてのネットの反応に思う。

片山さつき「NHKの貧困女子高生報道はおかしい。


<貧しき人達 ~1998年の備忘録~>
※これは1998年ごろに書いた自身のメモで今回のテーマで思いだした。読むとたいして世の中進歩してないのを感じる。

 怠け者の私はよくこんな空想をしたものだった。

『別に食うに困らなければいい。のんびりとピアノでも弾いて毎日を過ごせれば・・・と』

 だが冷静に考えるとこれはなかなか難しいことだ。まずピアノ自体がそう安いものでもない。それにピアノ置けるだけのスペースも必要となるし、仮にあったとしてものびのびと弾くためには一戸建てか防音設備の整った部屋が必要になる。
 しかしそうなると家賃も結構かかりそうだ、どうも現在の安月給では難しい。では転職してもっと稼ぎのいい仕事をみつけようか? だか稼ぎのいい仕事とい うのはだいたい殺人的に忙しいものだ。ヘタしたら月に何日も休めなくなるかも知れない・・・となるとピアノは購入できても、当初の“のんびり”という条件が 満たせなくなってしまう・・・これは簡単そうに見えて実は難しいテーマだ。

 クールな人ならば、ここまで読んで思わず“贅沢な事を言わずにエレキピアノでも購入してヘッドフォンでもすればいいじゃないか”と言うだろう。確かにそれはもっともらしく聞こえる。だけど私にすれば「それじゃぁ今とまったく変わらないじゃないか!?」となる。

 これが本題で『これこそが貧しである』。一見すると簡単に何でも手に入るように思えるが、実は何も持っていないのと同じなのだ。ようするに誤魔化しでしかないわけだ。
 いくら繕おうがイミテーションはイミテーションのままだし、一度すり替えてしまった物を取り戻すのはとても難しい。どうしても私には『のんびりピアノを 弾いて暮らす』よりも『高級外車を乗り回して暮らす』事の方が実現可能性が高いように思う。似たような事は他にも幾つもあるだろう。

 例えば私もいちおう都会生活者なのだが、たまに『腐ったような空気の悪さと、ノイズだらけのやかましさ』にウンザリする事がある。逆に考えれば都市というものは、ゴミみたいな空気や水や音の代償として、数々の娯楽を用意しなければならなかったという事だ。

 思えば物心ついた時から私はずっと貧しかった。物理的は豊かでもなかったがとりたてて不足しているというほどでもなかった。だが本当に必要だと思う物で 手には入ったと言い切れるものがひとつも無いのではないかと考えてしまう。

 それはゆっくりと考える時間であったり、食いたい時に食って寝たいときに寝ることだったり、イライラする事のない一日だったり、腹を抱えて笑う事だったりなどだ。

 だから「日本は豊かになった」だの「何でも簡単に手に入る時代」といったセリフをTVなんかで見ると“いったいどこが豊かなんだ?”とよく考えていた。 どっちかというとシラフで宴会に付き合わされているようで疲れる。本当はこの国はまだまだ貧しいのだろう。少なくともウィットを理解できるほどの心の豊かさはまだないようだ。


2016年8月13日土曜日

不信という日本に蔓延る病について

 たまたまTwitterで見かけた幾つかの記事で似通ったテーマに遭遇し色々と考えさせらる機会があった。なので今回は久しぶりに記事を書こうと思う。

 テーマは「対話者(聞き手)に対する信頼と敬意の欠如」である。ちなみに今回述べたい信頼というのは、聞き手である相手の「知性に対する信頼」という部分である。



 まずこの話題のきっかけは「ANAが乗客全員分の荷物を置いて北海道へ」というニュースだった。空港でベルトコンベアが故障し荷物が飛行機の離陸までに積み込めなかった。そこまでならば、まだ普通にある話だと思う。だが今回の出来事が特別なのはANAが搭乗客にはなんの連絡もなく、飛行機を飛ばして到着した先で初めて搭乗客に事後報告をしたという部分である。
 いちおうANAでは到着崎で搭乗客に個別対応として遅れて到着する予定の荷物を届けるよう対応を続けているらしい。

 このニュースで重要なのは、どうしてANAは事前に問題を説明せずに事後報告したのかという部分である。なぜあえて黙っていたのか(隠していたのか)。
 もしも事前に知っていたら搭乗をキャンセルした客がいたかもしれない。あるいは搭乗してもフライト中にどう行動するか検討ぐらいは出来ただろう。隠した事によるメリットは乗客側には全く無い。

 私はここにANA側の傲慢さがあると思う。それは相手の知性に対する信頼の欠如だ。私はANAは暗黙のうちに次のような発想でトラブル対応したのだと思う。

「お客は愚かで自分勝手な存在である。事前に説明すればパニックと怒りで騒ぐだけで収集が困難になる。ならばいっそ到着してから結果を説明しトラブルを別の対応チームに引き継ぐ方が合理的である・・・」

 いうまでもないが、これは著しく顧客を馬鹿にした考えであり、自分勝手な都合である。



 2つめのニュースは「嫌がられたり的はずれな質問をあえてするのも取材テクニック?」というもので、これは朝日記者の「記者は時に、嫌がられたり的外れに思えたりする質問をわざとぶつけて選手の本音を引きだそうとします。それもテクニックの一つ・・・」という言葉に対するネット上の反応だ。

 言った人物が朝日だったからかネトウヨ的な連中が感情的に反発しているのが多い気がするが、そもそも少しずれたオカシナ方向で議論になっているような感じで、ゆえに私にはこの記事も引っかかった。どっちもどっちな部分も多いが、あえて問題点を指摘するならば、記者のセリフには「相手に対する敬意」や「読者の知性に対する信頼」といった暗黙の了解が無かった事だと思う。ゆえに本題とはずれたコメントをして炎上に繋がった。

 本来ここで彼は「嫌がられるかどうかが問題ではなく質問すべき事はする。ただし相手への敬意を失わないやり方で行うべきである」というように述べるべきだった。重要なのは質問した記者の「フェアな姿勢」なのだが、彼はそれを安易な「テクニック論」にしてしまったので批判を浴びたのである。

 ちなみに別の記事で「海外メディアが内村選手に「失礼な質問」をしたって?いや、それは完全に逆です。」というのがあるが、私はこちらの記事に賛同する。質問した外人記者は内村氏の結果は素晴らしいゆえに、むしろその正当性を示す為にあえて質問したと考えるべきだし、質問の仕方も別に礼を失しているとは思わない。むしろ誰が相手でも聞くべきことは聞くというフェアな態度を評価するべきだったのだと思う。



 3つめのニュースは「東浩紀さんの鳥越俊太郎問題についてのつぶやき(20160812)」で、これは鳥越氏のインタビューに対する批判である。私はこのつぶやきを見ていて、ちょっと東氏の話からはずれるが、真に問題なのは野党側も鳥越氏も共に国民の知性を信頼しなかった事だと思った。

 彼らは国民の知性を信頼しなかった。だからこそ明確なプロセスも経ずに、安易にメディアの露出が多いだけの鳥越氏を選んでしまった。そして鳥越氏の発言も単に客寄せの軽口のような物ばかりになり人を引き付ける迫力が無かった。

 むしろ同じジャーナリストでも一貫して鋭い問題提起を行い続けている上杉氏や、あるいは市民目線での立場から政治をしようとしている宇都宮氏の方を選ぶべきだったと思う。そうであれば例え破れようが次があったと思う。少なくとも掲げようとしている旗は残っただろう。だが今回の東京都知事選挙では野党共闘は悲惨な大失敗に終わった。
 
 その上であえて述べるならば「鳥越氏のインタビュー」は最低の一言に尽きる。鳥越氏はむしろ今のダメな社会を作った側の人間だと思うのだが、まるでどこか他所の国の話を聞くようにその言葉は重さを持たないからだ。



 そろそろまとめに入るが、この一見すると関係ない記事が私には同じテーマとして見えてしまう。それは「相手の知性に対する信頼への欠如」である。平たく言うと「相手の事をアホだと思っている」「相手の尊厳を軽んじている」といった態度が陰に隠れているという事だ。

 私にはこれがいま日本に蔓延している病のように思える。その症状は至る所に見え隠れしている。

・メディアは読者の知性を信頼しない
・政治家は国民の選択を信頼しない
・企業は顧客の評価を信頼しない
・採用担当は大学教育を信頼しない
・教師は生徒の感性を信頼しない
・生徒は教師の能力を信頼しない

・・・等、あらゆる所に不信がはびこっている。

 だがおかしな事にこれだけ誰も信頼していない社会なのに、政府だの東大だの大手企業だ全国紙だのといった物からの情報を無批判に受け入れる人が大半なのだ。

 いたるところに権威という安物のラベルが蔓延している。彼らだって本音は決して信頼していないのかもしれない。だが考えるのも面倒なのでその他大勢に合わせているのだろう。

 ではそういった者たちが作り出した社会とは、まさにシェイクスピア的な悲劇(あるいは喜劇)の世界ではないだろうか?

「今は末世だ、気違いが目くらの手を引く」(リア王より)

 私はこの病が、特に日本には強く蔓延っていて文化的にも経済的にも色んな面でこの国を衰退させているような気がする。おそらくこの病は「新自由主義」とは相性がよく、また「恥の文化」はこの病に対する免疫が無いからだろう。


 最後にこの病に対する処方箋を書いて終わる。この病は生活習慣病であり特効薬はない。だが次のような態度や習慣は予防や治療に役立つのではないかと思う。

・つねに自分の頭で考えること

・他者の尊厳を自分と同様に重んじること

・無知を知り、己の知らぬ理由が世界に溢れているのを理解すること


<参考>
ANAが乗客全員分の荷物を置いて北海道へ

嫌がられたり的はずれな質問をあえてするのも取材テクニック?朝日記者のツイート炎上

海外メディアが内村選手に「失礼な質問」をしたって?いや、それは完全に逆です。

東浩紀さんの鳥越俊太郎問題についてのつぶやき(20160812)

「ペンの力って今、ダメじゃん。だから選挙で訴えた」鳥越俊太郎氏

2016年7月17日日曜日

2016年(参院選)で日本国民は何を選んだのか?

 2016年7月10日行われた参院選は結果的には与党側の大勝に終わった。そして与党は憲法改正決議を超える議席数2/3を手に入れた・・・。

 この選挙結果は恐らくは日本の歴史におけるターニングポイントとなる、そしてきっと後世の人は「何故あのときに日本人はあえて極右的な政権を支持したのか?」と疑問に思うだろう。
 なにせ実際のところ選挙結果の世論の回答がそもそも矛盾している。安倍総理は選挙での勝利に満足し改憲に意欲をみせているが、当の選んだ国民の意識調査では改憲には慎重、むしろ反対の人の方が多い。それにアベノミクスを積極的に支持する声もあまりなく、むしろ政権に期待するのは社会福祉だという声すら見かける。(社会福祉など歯牙にもかけないのが安倍政権なのだが) どうしてこうまでも自分と意見が異なる政党を支持しのだろう?

 おそら後世の研究者はこの問題で頭を悩まし続けるだろう。なので私は選挙が終わって間もない今だからこそ少し書こうと思う。それは現在の人にではなく後世(十数年後)の誰かへ向けてへのメッセージである。瓶に手紙を詰めるように私はネット上にメッセージを託す事にする。


 この結果について色々と理由はあるのだろうが、私が達した1つの結論は次のものである。

「多くの国民は昨日と同じように明日も続けば良いと願い。昨日までと同じようにただ与党に投票した」

ただ、それだけの事なのだと思う。


 こう言われてもまだピンとこない人の為に解説すると、ようするに多くの国民はまだまだ現状に対する危機感もなく。色々と大変そうな事が起きているのは解るが、自分の身の回りで起きなければいい。騒がなければやり過ごせる・・・程度にしか考えていないという事だ。広がる格差や貧困、TPPなどによる経済変動、紛争やテロによる脅威などもあんまり頭には無かったのだろう。

 これは「ポピュリズム」という物ともも少し異なる気がする。「昨日までと同じように行動すれば、きっと今日とおなじような明日がくるだろう」というのはむしろ宗教に近い感情のように思える。

 そして、なぜそうなったのかと言えば、それはこの国がひたすら誰かに依存して生きる事に慣れすぎて、自分の頭で考える事が出来なくなったからである。例を挙げるならば・・・
・政治家(官僚も)ばアメリカに依存
・メディアばスポンサー(政権、企業)に依存
・司法や警察は政権に依存
・国民の多くは会社に依存

 こういった点で私は日本人をおそらく世界的にも愚かしい国民だと考えている。だがこのような弱さや愚かさはおそらく人類普遍のものであり、他国でも分析すれば少なからずはこのような例があるだろう。ゆえにこの問題を真に問おうとするならば、それは政治的な研究というよりは、むしろ人間とは何かという哲学的、文学的な研究が必要だと思う。

 実際に私が直接話をした身近な人は、この選挙の意味を説明するまではほとんど理解してなかった。安倍政権の危険先も解ってない人が大部分であった。そもそも政治と自分の生活がどうつながっているかを理解してない人が大半だった。

 「寄らば大樹のかげ」「長い物にはまかれろ」・・・

 今回の選挙の結果、それは「思考停止した社会(日本)が出した答えになってない結論」である。


<補足>
 いくら国民性の問題とはいえ、メディアがきちんと役割を果たすとかあればこんな結果にはならなかったはずである。参考にポイントをいくつか挙げておく。
・与党側がそもそも公約をまともに説明していない。(改憲の話とかは避け続けた)
・メディアは角が立つのを嫌って、政府が嫌がる質問やテーマを報道しなかった。
・多くの知識人やテレビ人もメディアに従った。
・野党(民進党)は選挙で負けたら潰されるという危機感が無かった。
(危機感あったのは共産党、山本太郎、小沢一郎ぐらいなかな)
・国民はこの選択が自分達にどのような影響を与えるのかを理解していなかった。


<参考>
「改憲勢力3分の2」に評価割れる 緊急世論調査「安倍政権で改憲」に反対48%

改憲勢力3分の2「よかった」19% 参院選道内世論調査


2016年5月3日火曜日

日本人のDNAという妄想 ~この世にタダのリソースなんて無いという話~

 昔読んだ「学力だけじゃない、体力もカネで買う時代/シロクマの屑籠」という記事の事を最近よく思いだして考える事がある。この記事のポイントを私的にピックアップして要約すると、

 「昔(昭和50年代ぐらい)」には子供は外で体を使って遊ぶのが一般的でありで貧しい子供でも体力だけはあった。つまりは体力は貧乏でも手に入るリソースであり、ゆえに「勉強しない子どもは身体を使う仕事に就け」といった話ができた。
 だが現在では無料で子供が体力を使って遊ぶ場がないので貧しい子供は結果的には体力すら与えらず、結果として体力というリソースはタダではないのではないかという指摘である。

 私は初めて読んだ時にとてもユニークな指摘で的を得ていると思った。だからこそ今でも覚えているわけだが、最近は別の話でもこれと似たような現象が起きているように思う。それは「日本人は勤勉である」という命題である。


 政府や企業家、あるいは会社の上司にもたまに感じるのだが、時折「日本人は勤勉である」あるいは「日本人は几帳面なので精密な作業ができる」というような話になる事がある。もっと顕著なのはテレビでたまに聞くような「日本人のDNAは○○だ」的な言説を聞くこともある。
(補足:これは明確にそう言ったというよりは、そう思っているような口ぶりでよく聞くという意味で)

 こういった話は普段何気なくしているので意識が無いとおもうが本当はちょっと変な話である。なぜならば、あたかもDNAに勤勉であるとか几帳面であるとかいう遺伝子が存在するような口ぶりだからだ。
 だが普通に考えればそんなDNAは存在しないと考えるべきだろう。仮にあるとするならば、それはむしろDNAではなく文化の中にあるという言い方になるだろう。
 これは一見するとちょっとした違いにしか見えるかもしれない。どうもこれをごっちゃにして考えている人も多い気がする。
 しかしこの解釈の違いが現在では大きな認識の誤りを産み出し、むしろ社会を誤った方向へ誘導しているのではないかと思うようになった。


 最初にこの事を意識し始めたのは労働環境における非正規の待遇の悪さや、教育に対するリソースの軽視といった記事をよく見かけるようになってからだった。
 本来ならば生活に窮するような低賃金だったり、休みもろくにない過酷な勤務状況がつづけば、人が疲弊して仕事の品質や維持が難しくなるので改善を考えるような問題なのだが・・・
 あかかも為政者や大企業さらには中小会社の経営者においても、日本人は勤勉なDNAがあるので特に教育や保護をしなくても勝手に優秀な労働者が産れてくると勘違いしているように見える時がある。

 また現在の社会の複雑さを十分に理解できていないように思う時もある。例えば年配の人が最近の新人はあんまり仕事ができなくて苦労もしてなくて云々と言う話を聞くことがあるが、その度に内心次のように思う事もあった。

 『そんな事いっても、おまえじゃコンビニの店員すら勤まらないだろう』

 私の若いころはコンビニのバイトは定番で簡単な仕事だったが、現在では販売する品種やサービスが多様化してかなり複雑な仕事になっている。それにコンビニだけではなく、現在はITが進化したおかげで下手すると分単位での報告や作業ノルマを強いられる世の中なのだが、年配の人の中にはそれらをよく理解できていない人も多くいるように感じる。

 だからこそ最初に述べたようなDNA云々といった勘違いに繋がるのだろう。当たり前の話だが、生活に追われてろくな休養もなく教育も受けられない人間が『高度なモチベーションやモラルを持った高い労働者』になるわけがない。
 特にここ最近では非正規雇用が増えたせいで労働者はますます扱いが雑になっている。そして疲弊した結果、仕事の質もモチベーションも下がり続けている。


 私はこの問題が日本が徐々に衰退を続けている一つの大きな理由ではないかと考えている。人間や教育を軽視する結果、この国はどんどんと疲弊して劣化し続けてきたのではないだろうか?

 ゆえに私はTPPの問題を一番に懸念している。TPPが成立してグローバル企業にフリーハンドを与えるような事になれば、彼らは他の国でしてきたように労働力をひたすら安く使って使いつぶしてゆくだろう、あたかも焼畑農業のように。
 だが焼け跡から人材が復活するのにはどれぐらいの期間がかかるだろう、いやそれ以前に復活する事ができるのかどうかすら疑問である。


 そもそも「日本人は勤勉である」といった話は、本来は身内同士で励ましあうようなローカルネタのようなものだったのではないだろうか。野球チームで俺たちは勝つぞと言って励ましあうような合言葉のような罪のないものであったのではなかろうか?

 だが現在ではそれはおかしな信仰のようになって、ありもしない民族的な神話、さらには人種差別(ヘイト問題)にもつながっている気がする。これは現実的な問題をきちんと理解しようとせずに、安易な精神論的でお茶を濁すような風潮によるものではないか。経済が低迷して自信喪失したこの国で安易にまき散らした誤った解釈の影響ではないのか?


 ちなみに少し脱線するが、もう一つ浮かぶのが「日本人はなぜ学力が高いのに生産性は低いのか/永井俊哉ドットコム」という記事である。この記事では「擦り合わせ型アーキテクチャ」「組み合わせ型アーキテクチャ」という言葉で日本の衰退について分析を行っている。
 「組み合わせ型」とはつまりブラックボックス(仕様は解っているが中身は解らない物)を組み合わせて仕事を行う事を指し、「擦り合わせ型」はその逆(ホワイトボックス)に仕様も中身も共に理解している部品を組み合わせて仕事を行う事を示している。
 そして日本はお互いにホワイトボックスである事を前提にビジネスを行う典型的な擦り合わせ型の文化である。記事では世界的な潮流は「組み合わせ型」に移行しつつあり、それが苦手なゆえに日本はそれまで得意であったはずの製造業ビジネスですら苦戦していると分析している。

 この指摘は的を得ていると思う。特に私はソフトウェアエンジニアなのでこの指摘が痛いほどよくわかる。なぜならば「組み合わせ型」の代表的な仕事がソフトウェアだからだ。しかもこの分野は本当に情けないぐらいに日本は弱い。ソフトウェア設計や開発をしてきた経験からすると、理由はわからないがブラックボックス的な思考を苦手とする人間が多く、それによる障壁も小さくはないからだ。


 しかし、とにかく問題なのは「おかしな精神論もどき」のような話や雰囲気に溺れて、本来やるべき現実を冷静に分析するという事ができていない事だ。

 特に最近の与党政治(安倍政権)からは神がかり的なんだかよく解らないような言説も時折飛び出し始めて末期的な気がする。はじめは政治家も戦略として国民の目を不満からそらす為に「日本ヨイショ」的な行為(例えばクールジャパン系)をやり始めたのだろうが、最近ではむしろ自分達の方が酔って言う事が怪しくなっている気がする。

 そして世間ではヘイトスピーチやクレイジークレイマーといったおかしな問題も増えた。これらは経済や立場的に追い詰められてプライドを奪われた人間が陥る闇の部分によるものではないのか? それらが嫉妬や上手くやっている奴はきっとイカサマをしている的な妄想、弱い立場の人への高圧的な態度になっているのではないか?
 油断しているとそういった雰囲気が国内を覆い尽くすのではないかと懸念する。もういい加減に精神論な物言いをやめて、まともな社会の立て直しを考えるべき時期だと思う。
(補足:ちなみにTPPに固執するのは経済成長にすがる願望で冷静さを無くしている行為と言えるのではなかろうか)

<参考リンク>
・学力だけじゃない、体力もカネで買う時代 - シロクマの屑籠
・日本人はなぜ学力が高いのに生産性は低いのか | 永井俊哉ドットコム

2016年3月21日月曜日

God save the Japan(神よ日本を救ってやってくれ)

 こんなタイトルを付けているが、ブログのテーマは日本の政治である。このブログでも度々安倍政権について述べてきたが、そろそろ頭の整理もかねて書くことにした。

 ちなみになぜ「God save the Japan」なのかと言うと、安倍政権について考えると最近はいつも頭の中では、あのセックスピストルズの名曲「God save the queen」がバックで流れ、しかもジョン・ライドンの「No future for you」(未来なんかねぇお前には)のがなり立てる部分がリフレインされるからだ。

 なおこの記事を書くにあたって久しぶりにピストルズ「God save the queen」の歌詞を探したらこの訳を見つけた。なかなか過激な訳だが臨場感があってグッとくる。
 そんでもって歌詞をみながら、いまの日本ならば「queen」じゃなく「shinzo」かなと置き換えて試していたら、実はこれが意外にメロディ的な語呂もあっていて、何気に口ずさんでいると癖になる。お陰で安倍総理を思い浮かべると連想でセックスピストルズの「God save the queen」がBGMで鳴るようになってしまった。
 もうかなり脱線しているが、それはいつもの事なので、今回はちょっと切り口を変えてピストルズの話から日本を考えたいと思う。


 思えば私が初めてセックスピストルズを聞いたのは1980年代だった。ピストルズに影響されて当時はパンクロックをよく聞いていたが、なかでもピストルズの歌詞を読んでみて「なんと文学的なのだろう」と独りため息をついたのを覚えている。

 なぜため息かと言うと、当時の日本の音楽シーン、歌謡曲からパンクロックにしろ、歌詞を読むとどうしても薄っぺらく思えてしょうがないと思っていたからだ。まるで焼き直しのようなお決まりのラブソング、あるいは俺様はやってやるぜみたいなガテン系ロック、それらはまるでお手本があって様式にはまったようなつまらない作品に思えて仕方なかったからだ。

 だからピストルズの歌詞を最初に見た時は衝撃をうけた。特に衝撃を受けたのが「Bodeies」である。パンクスというのは元々はイギリスでは「このクソガキ」ぐらいの言葉だったらしい。たしかにめちゃくちゃな暴言だらけの歌詞だが、でも何故か文学的な響きを、消しきれなくて滲んでいる教養のようなものを感じた。
 これは当時の日本の歌詞には無い物だった。あるいは今の日本の歌詞でもこれができているのかと言われると正直言って自身がない。あの頃、私はもしも日本のインテリが詩を書いたらこれより高い質の物が作れるのだろうかと考えていた。

 そのころの私はどうしようもない文明の差というものを当時思い知らされたような気になったのを覚えている。当時はバブルに差し掛かる時代だった。日本は工業化に成功して金持ちになって世界を出歩きはじめ、ちょうど今の中国のようなポジションだった。金だけは持っていて自信にはあふれていた。だが同時に田舎者として見られるような自分の薄っぺらさやダサい身なりにいつもどこかでドキドキしているような時代だった。
 そんな時に私はこの歌詞のような些細な部分より、まだまだ簡単には埋められない文明の差(教養と言うべきか)に圧倒されたのを覚えている。


 いまはそれから約30年ほどたった。80年代の田舎者も時間をかけて成長していった。最初はちょっと前の中国人パッシングみたいに、成金で下品な奴らと思われていたが、いつしか上品な先進国の仲間入りをし、マナーの悪い民族ランキングからは脱出できたようだ。

 だがここ数年は右傾化をすすめ、そららの積み重ねを無にするような退行を続けている。なかでも顕著なのは安倍総理や津川雅彦で、彼らはまるで戦前(昭和初期)を理想としてその時代に戻ろうとしているらしい。
 まったく馬鹿げた話だ。仮にバブル時代の日本人が成金の田舎者であるならば、戦前の日本人はイカレタ野蛮人だ。彼らはそんな事を考える事がいかに馬鹿で無教養なのかを理解していないらしい。彼らは日本が辿ってきた歴史も文化もまったく理解していないし、あるいは戦後に苦労して身に着けてきた知識や経験をも理解していない。最悪の野蛮人達である。

 戦前の日本が美しい国だっただと? 

 それこそ最もバカげた嘘である。むしろ私には最も日本人が醜かった時代に思える。参考リンクの「ふたつの太平洋戦争」の記事はちょうどその事をうまく表している。私もこれを読んだ時に、ああなるほどと思った。

 冷静に考えて欲しい、いま日本ではISを残虐で野蛮だとさんざん指摘してきた。特に安倍政権はマッチョに見せたいのかしらないがむしろ煽ってきたぐらいだ。だがISの残虐行為など、第二次大戦中の日本軍の戦い方に比べれば遥かに人道的だ。
 自爆テロだと、女を攫うだと、兵士を薬物付けにしているだと、それは全部日本軍がやってきた事だ。しかも何倍もの規模で容赦なく行ってきた。

 ちなみにどうしても言わずにいられないのは、私は毎回あの戦いの話を聞くたびに腹が立ってしょうがない事がある。それは勝った負けたの話ではなく「これだけ無駄死にさせた戦は世界でも例が無い」のではないかと何度も思う事だ。
 インパール作成など戦死者より病死者が多い戦などありえない。似たような話はいくらでも残っている。もしも興味があるならば「人間魚雷」「ガダルカナル島攻略」「ひめゆりの塔」などのキーワードで調べてみると良い。きっとウンザリするだろう。

 私は慰安婦については詳しく資料を調べた事がない。だが上記の話から推測するに、間違いなく非人道的な事をやってきたはずなのは理解できる。それは調べなくてもわかる事だ。あたりまえの話だが、自国の兵士すら虫けらのように死なせてきた連中が、他国の民族や文明をきちんと扱うわけがない。

 だが私は別にネトウヨとは違って、それらの事実があったとしても別に日本人だという事を恥じた事はない。なぜなら「あのころの連中といまの俺たちは違う」と言えたからだ。きっと多くの日本人もそう思ってきたのだと思う。

 だがここ数年でそれも変わった。安倍政権とその取り巻き達は、まさに戦前の悪夢のような腐りきった体制を取り戻したいらしい。こんどは天皇の代わりにアメリカを神輿に担いだうえで、虎の威を借る狐よろしく専制政治を行いたいらしい。まるで民主化される前のフィリピンのようにするつもりらしい。

 本来ならばこんな馬鹿げたことを国民が許すはずはない。だが現実ではあと一歩で成功する直前にまで来ている。もしも次の選挙で与党が圧勝し、憲法改正ができるような議席をとれば彼らは意気揚々として戦前のあのクソッたれた時代を現在に蘇らせるだろう。

 それはなぜか?

 ここでようやく伏線にもどるが、私はそこに未だ埋まらぬ圧倒的な文明の差を感じる。いい加減に埋まったと思っていた文明の差が、まだ大きく開いており、文明人からたやすく野蛮人に逆戻り仕掛けている事に絶望すら覚える。
 ただし唯一希望なのは、SEALDsのような若者が現れた事である。戦後の教育もまったくの無駄ではなかったのだろう。


 もう今この国は崖っぷちに追い込まれており後はない。仮に次回で安倍政権が力を持てば、おそらくこの国は自力で再建できなくなるだろう。彼らは容赦なく、せっかく戦後に育った新たな芽をすべて積んでしまうだろう。

 彼らの性質の悪いところは、この国のあらゆるモラルを破壊していることだ。安倍政権のおかげで、彼らは次のような悪い前例をいくつも作った。
・公約を守らなくて良い
・憲法を守らなくて良い
・民意を聞かなくて良い
・国民に嘘を言ってもよい(批判は報道させなければ良い)
・総理のお友達は検察に起訴されない特権を持つ
・裁判所へ介入して良い
・報道機関へ介入して良い
・景気悪くても良好だと言えば良い

 ・・・など切りがない。このモラル破壊は、仮に政権が代わっても容易には是正されないだろう。よくぞこの短い期間でこれだけ国家の屋台骨を腐らせる事が出来たと感心する。


 だが残念ながら政治家もメディアもまだこの緊迫感をよく解っていないようだ。日本で起きている事は本来はトランプ大統領どころではない大問題だ。政党の中では共産党が一番よく理解しているようだが、逆に民進党なんかは次に負ければもう後が無いという事をまだよく解っていない気がする。

 メディアもだ。このまま空気に流されてせっかく明るくなった民主的な時代を殺してもいいのか? それでも良いというならば言う言葉は「No future for you」しかない。


<参考>
セックスピストルズ god save the queen 和訳

セックスピストルズ Bodies 和訳

ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日


2016年3月19日土曜日

「かもめのジョナサン(完成版)/リチャード・バック」を読んで

 実のところ、私はこの本に対して特に思い入れもなく、バックの読者としては一応目を通すかぐらいのつもりだった。なので少しビールが飲みたいなと思って居酒屋に入った際にも、暇つぶしに本を開いただけだった。だが少し読み始めると想定外に引き込まれて、ついには本編だけではなく後書きまで一気に読破してしまった。ちなみにこの間に生中×2杯を消費する。

 それぐらい素晴らしかったし久々に小説で感銘を受けた。本来ならば酔った勢いで是非とも他の読者と飲みながら語り合いたいと思った・・・のだが、独りで飲んでいただけなのでそうもいかず、ゆえにこのブログを書く事にしたわけである。


 ちなみにまず、かもめのジョナサンの「完成版」とはどういう意味かと言うと、もともとカモメのジョナサンは全3章(Part One,Two,Three)しかなかったが、今回はPart Fourという4章が追加されたのが違いである。

 バックによると元々ジョナサンの物語は4章構成だったが、過去に書いたときは自分で書いた4章目がどうしても納得できなくて封印してしまったらしい。だが近年過去の原稿を見つけて読み返した結果、改めて4章を加えて完成としたという事である。なので完成版というのは再アレンジ版といったものではなく、むしろ秘密の物語の続編のような部分がある。

 この内容についてはネタバレになるので詳しくは語らないが、私は4章ができて良かったと思っている。そしてこの新たな章はまさに現在の私たちの社会を風刺しているように感じる。
 ゆえに読み返したバックはこの部分を付け足したのだろう。そして本当の意味で小説は完成した。だが物語そのものは終わりなく続いているような気がする。少なくとも私の想像の世界では主人公(ジョナサン)が飛び続ける姿が瞼に浮かぶ。


 だがそう言いつつも一つ告白したい点がある。私はリチャード・バック小説のファンだが「かもめのジョナサン」はあまり好きではなかった。好きなのは「イリュージョン」という小説の方で、こちらは数えられないくらいに何度も読み返した。

 しかし「かもめのジョナサン」は読んではいるものの、全かい読んだ際(まだ若かった時)は特に面白いと思わなかった。何かもう一つピンとこないというか、妙に説教臭いというか、どうも共感できなかった。

 だが改めて読み直すと、昔はあれほどしっくりこなかった話がすんなりと受け入れられる。これは自分自身に対しての驚きである。

 孤立する事を恐れず飛ぶ練習をするジョナサンの姿、自分の限界とは何かという問いかけ、そして過去に自分を追放した仲間への許しと、飛ぶ楽しさを教える仲間達への愛など・・・今ならば理解できる気がする。

 思えばジョナサンと同様に私自身多くの経験を積んで成長してきたという事かもしれない。小説と同様に理想と挫折を繰り返してきたし、自分の限界について悩みもし、終わりのない問いかけを続けている。この本は実は若者向きというより、ある程度年を経てから読むほうが向いているのかもしれない。

 そして新たに加わった4章には意味がある。私はこの章があってこその完成だと思う。4章はジョナサン達が立ち去った後の話だが、そこで残された者たちの堕落といった部分がテーマになる、これはおそらくリチャード・バックがもっとも現在社会に対して懸念していた部分だろうし、その続きが他の小説「イリュージョン」に繋がるテーマとなる。

 もしもこのブログの読者が「かもめのジョナサン(完成版)」を読んだならば、続けて「イリュージョン」も読むことを勧める。そこにはリチャード・バックが何度も取り上げる「真の自由(解放)」という問いかけが描かれている。

<参考>
かもめのジョナサン(完成版)


2016年2月1日月曜日

残酷さからの卒業 ~幼児虐待問題より~

 最近いくつかの親による幼児虐待についてのニュースを目にした。私はこれらの記事の詳細については見ていないが、それでも世間の反応はおおよそ予想がつく。おそらく多くの人は「どうしてそのような残酷な事ができるのか?」といった事に疑問を感じる事だろう。

 だがこの記事を見て私の頭に浮かんだのはまったく逆の事だった。それは「人は成長する過程で、どうして残酷な事ができなくなるのだろうか?」という問だった。これはおそらく私の頭の中で何度か繰り返されては忘れる疑問の一つなのだが、今なら少しその理由を説明できそうな気がしてこの記事を書くことにした。


「人は成長する過程で、どうして残酷な事ができなくなるのだろうか?」


 なぜこう考えたのかというと、子供を虐待して楽しんでいるかのような両親というのは、あたかも幼児が無邪気に生き物を傷つけて遊んでいる姿に似ているように思えたからだ。それらは明確な悪意の有無というよりは、子供が小動物をいじめて遊んでいる姿に似ている。
 そしてもう一つの理由は、私も小さな子供のときに虫や小さな生き物を殺していた時代があった事を思いだしたからだ。どうしてあの頃にそんな事をしていたのだろう。だが今の私は到底あのころのように生き物を殺す事はできない。
 ならばその理由を考えれば、この幼児虐待といった残虐さをどうやって人は克服してゆくのかという一つの答えに繋がるのではないかと思えたからだ。


 まず私の事を思い返してみる。私は小学生低学年くらいの時に、よく昆虫や小動物を殺していた。当時の気持ちはわからないが、あまり楽しんでいたというような記憶はない。むしろ何かの実験のように、みんなが禁じるタブーを破る事に熱中するように、そんな感覚だったような気がする。
 もちろん事件のように子供を傷つけるとかは考えた事はなかった。だが仮に野良犬のようなものであれば、当時の子供の私には深い理由が無くても殺せたかもしれないという気がする。その事から想像すると、もしも日常的に子供を虐待するような環境に住んでいて「幼児を虐待するのがタブーではない」暮らしをしていれば、程度の差はあれ幼児虐待という行為をした可能性はあるかもしれないと思う。そうであるならば幼い頃の私はまだ残酷さを十分に理解しておらず、ニュースになった幼児虐待の犯人と近い成長レベルだったと仮定できそうだ。

 ではここからが本題なのだが、今の私はほとんど小動物などが殺せなくなった。あるいは殺したくないと思うようになった。到底子供のころのような真似はできそうにない。ならば、何故に私はあの残酷な真似が出来なくなったのだろうか、それをひとつひとつ考えてみたい。

1)宗教によるもの
 「宗教で殺生はタブーと教えられたからか?」
 どうも少し違う気がする。私は無宗教だし、そもそも人がねつ造したかのような宗教という概念にはずっと長いあいだ不審をいだいている。(この理由を説明すると長くなるので、また別の機会に・・・) これはちょっとピント外れな気がする。

2)学校教育とかによるもの
 これも違う。どちらかというと私はあまりちゃんとした教育は受けてなくて、良くも悪くもかなり放任されて育ったような人間である。

3)グロテスクな嫌悪
 これはもっとシンプルに「血が嫌い」とかグロテスクさに対する嫌悪のようなもので、これは幾らかある気がする。いつからかグロいのは苦手になって、昔は「エルトポ」みたいな映画を見ていたぐらいなのに、今ではわざわざそういうのは見ようと思わない。
 過去には芸術的な観点から残酷な映画や物語もあえて見た時代があった。だが結論としてはそんな残酷さという物の中に別に価値や真実などないと思うようになった。
 これをうまく説明するのは難しいが、ちょっと前に書いた記事「汚れた豹と臆病者の恥」というテーマはそこでもある。

4)命の尊さを知った
 これも無い。私はいまだにこの様な哲学的な境地にはまだ達していないし、条件反射的に反応するようなヒューマニストでもない。


 いくつか一般的なものを挙げてみたがどうもしっくりこない。その時にふと気が付いたのはシンプルな理由である。それは「私の認識する世界が広がった」ということだ。


 少し古い記事で「顔の見える世界/見えない世界」というのを書いてそこには詳しく書いてあるが、要するに「人は相手の顔が解る世界(つまりは自分の世界と認識する範囲)にしか真の同情を感じない」というものである。人間と生き物という点では違うのだが、私の場合はこの説明が一番しっくりくる。

 成長して色んな知識を得るうちに、意味がないと思えた昆虫の存在にも、複雑な生命や歴史があって、そして自然界で重要な役割やバランスを保つのに関わっていて・・・といった事を無意識的におもうようになった。そういった物の後ろに隠れている多くの意味を知る事によって小動物の命を粗末に出来なくなった気がする。
 例えるならば、説明書きの無い封筒ならば踏みつけても気にも留めないが、いかにも重要そうに包装や説明がある封筒ならば思わず踏むのを躊躇するだろう。そんな理由でこれは善悪云々というのとも少し違う。
 知る事でただの道に転がった石ころのようなものではなくなり、その生き物の命の意義(尊さ)というべきものを暗黙のうちに認める事に繋がるのだろう。

 そう言えばどの作品かは忘れたが村上龍の小説で「情報がないと人は残酷になる」というセリフがあった。人は自分の手が届く範囲には優しくできるが、閉ざされている人は外の世界に対してとても残酷になれるのだろう。
 少し考えればこのような例はたくさんある。海外の紛争しかり、難民の流出しかり、貧困を理解しない政治家しかりなど、ほとんどの問題はそこに起点がある・・・。


 どうも自分で書いていてオチが解らなくなった。それに無理にオチをつけるのも面倒になった。なので最後に少しだけ言い残した事を書く。結局のところはまた次のようなテーマに繋がる気がする。そして私はまた考え続ける事になるのだろう。

「もしも複雑な世界を複雑なままに受け入れる事ができたらならば・・・」

<参考リンク>
『なめらかな社会とその敵/鈴木健』の紹介について


2016年1月3日日曜日

未来予測2016 ~世界3つのシナリオ~

 今年で4年目となる毎年恒例の未来予測を書く。所感を述べれば2015年はかなりアグレッシブな年だった。ヨーロッパはイスラム国をめぐる争いが飛び火し、中東ではロシア・アメリカ・EUの三つ巴でゴールの解らない戦争状態となり、そんな中で日本は安保法案でアメリカのお供をする事に決めた中で、アベノミクスによる致命的な経済失敗が各所で言われるようになった。

 ちなみに今回の予測を書く前に過去の予測を読み返してみた。細かい話は元々書いていないので大筋で変わりはないが、一点違っていたと思うのは中国についての解釈だ。3年前に私は中国は国内が安定せずに徐々に分裂化してゆく方向に進むのではないかと考えていた。だが3年経過してみて今ではそれは無いと思うようになった。もちろん盤石ではないかもしれないが少なくとも10年以内に激変するような事は無い気がする。世界が不安定化するなかではむしろ中国はまだ安定していると言えるのかもしれない。

 では本題に入ろう。細々した話をやっても面白くないので、今回はあえてラディカルに未来を3つのシナリオに分けて考えてみた。


<シナリオ【1】中東の再構築>
 おそらくこれは多くの人には荒唐無稽に思えるだろう。だが考えてみて欲しい。もしもISの戦争が継続して火の手がサウジやエジプトに飛び火してトルコとEUに亀裂が生じ、テロが世界で吹き荒れて収拾がつかなくなり大国は疲労して中東にもう関わりたくないと考えるようになったならば、西洋が撤退した後の中東にイスラム文化圏としての新世界が現れるかもしれない。

 もちろんそれは安易な道程ではない。どれだけ世界で血が流れたか想像もつかない悲劇を経ないと、西洋社会は中東に首を突っ込むのを止めたりはしないだろう。まさに世界でテロが吹き荒れた後の話だ。
 
 恐らく識者はこんな予測を馬鹿げたものとして鼻で笑うだろう。だが仮に世界を数十年から数百年単位でシュミレーションしたならば、このシナリオのような解があってもおかしくないと私は考える。なぜならば、それぐらいに現在のアラブの火種は深く根源的な物であり5年や10年では収束しえないと思えるからだ。ゆえに20, 30, 40年という時間を経たあとには違う世界が生まれるのではないかという気がする。

 またこれは私の個人的な希望のシナリオでもある。私はISの蛮行をきっかけではあるが中田考氏らの講演や書籍を経て、本来のイスラム文化についての魅力や可能性に期待する者である。イスラム的な相互扶助の文化は、現在の過剰な資本主義や超管理社会化する流れに対抗できそうな数少ない可能性の一つだと私は考えている。

 ゆえに私はアングロサクソン達がいい加減に中東にちょっかい出すのを止めて欲しいと願っている。過去のメンツにこだわった馬鹿げたチキンレースはいい加減に終わりにして新たな道を模索して欲しい。


<シナリオ【2】超管理社会の出現>
 日本でもマイナンバーが導入されたが、最新テクノロジーと資本主義が結合した結果により、超管理社会が徐々に実現するというのがこの予測である。ちなみに私が言おうとしている超管理社会とは「人の行動すべてがIDに紐づけられていて把握可能な世界」であり、もう少し砕いて言えば、勤務先情報、病院への通院歴、購買記録、市役所の引越記録、ネット上の発言記録等の各電子化された情報がID全て繋がり、かつ施政者からいつでも参照可能な状態になった世界のことだ。
 当然の事だが、そうなった世界では真の発言の自由や思想信条の自由は大幅に制限されるだろう。例えば就職差別だったり、ネット上で都合が悪い発言を消したり改ざんしたり、誤情報を流して転落させたりと、やる気になればほとんどなんでもできる。

 ちなみにテクノロジー的にはこれらの技術は全て確率されており、歯止めとなっているのは各国の人権(順法精神、つまりは良心)のみである。そして現在進んでいるTPP(超グローバル化)もある意味では超管理社会出現のトリガー的な要素になりそうだ。
 なので危ないのはテクノロジーは進んでいるが民度の低い国であり、まさに現在の日本はもっとも危険である。あと私的な主観で言えば韓国、アメリカ辺りも早い段階で超管理社会に突入しそうな気がする。

 じつはこのシナリオが最も私の危惧するものである。まさにオーウェルの1984みたいなデストピアが油断をすればすぐそこに来ている。これは誇張ではない。なぜならばシナリオ1のテロが終わりなく繰り返される世界では、人々は安易に人権や自由よりも鎖を選ぶ可能性が高まる。今ほど危うい時代はない。

 特に日本は危うい。安倍政権は中国や韓国などの緊張を散々煽って、人権や自由よりも巨大な権力に管理された世界がいいと思い込まそうとしている。
 ちなみに最悪なのが、彼らは大日本帝國のノスタルジー的な幻想に酔ってありもしない幻想や妄想で人を縛ろうとしていることだ。落ちぶれた人間がまるで重箱の隅をつつくように執拗に近隣諸国のヘイトを誘う姿は醜悪である。そしてそれもこの危機を招く一つの要因となっている。

 超管理社会は本当に最悪である、もしもそれが想像しにくいというのならば、下世話な例えだが社会そのものが「ブラック企業化」した世界と考えれば良い。例えば貴方が2013年にブラック企業大賞にノミネートされた企業の社員になったと想像してみてはどうあろう。

 無理なノルマを押し付けられて、残業無しでこき使われたあげくに、失敗は全て自己責任扱い、体を壊そうが心を病もうがおかまいなしである。軍国主義の日本も似たようなもので、精神論が横行して、上手くいかないのは全て個人のやる気不足(自己責任)であり、弱者を救済する必要なししてきた。
 そもそもブラック企業化すれば競争に勝てるという安易な考えそのものが馬鹿げているが、世間ではそう考えている人間は一定数いるようである。このテーマはどこか別の機会に論じたいと思う。


<シナリオ【3】世界が平和に丸く収まる方向へ進む>
 もしもヨーロッパがナチによる悲劇や経験を忘れず、そして過去の大戦や紛争の歴史から学んで民衆そのものが哲学的に進化したとしたならば、上記2つのシナリオを止める方向に動いてくれるかもしれない。
 あるいはムスリムやアラブ社会が本来の相互扶助の精神を取り戻し、安定した社会へと徐々にすすもうと和平を探る方向へ進むならば僅かながら私はこの第3のシナリオにも希望があると思う。

 だがアジアはまだまだ民度が低くて世界を平和へ向けようとする動きにはならないだろう。アメリカもダメな気がする。日本の安倍政権に至っては最悪でナチの再来みたいな動きで紛争を産み出しかねない気すらする。

 人類は教育を経て知識を得て進化してきたのだとすれば、現時点から平和な方向へ世界を進める事も理論上は可能である。だが正直言ってこのシナリオは上記の中で最も可能性が低い。だがゼロでは無い選択肢の一つとして記載しておく。


<シナリオ【4】今と同じ世界が続く>
 あえて最後にオマケとしたが、当然の事ならが現在と同様に揺れながら同じような世界が続くという未来も当然ある。これはもっとも普通そうな話だが、正直言って可能性は高いのか低いのか解らない。それだけ世界の抱える歪は大きいのではないかという思いがあるし、綱渡りのような危うい困難な道のりにも思える。
 
 あと5年は今と同じような世界が続くかもしれない。だがあと10年、15年・・・と考えた時に、同じような世界がそのまま続くとは考えにくい。例えば過去にソロスがいったように、スーパーバブルが弾けるかもしれない。現在の世界経済は実態を超えた金融経済(仮想経済)の上に成り立った危ういものともいえるからだ。

 あるいは環境問題と人口問題が合わさって深刻な食糧危機事態がおきるかもしれないし、アラブで始まったテロが世界中に広がって、シナリオ2のような世界に進むか、また別の終わりの見えない争いが始まるかもしれない。日本では昨年の安保法案により、すでに自衛隊がアメリカの2軍扱いになっている状況なので、今までになかった問題や争いが起きる可能性が高い。いつもと同じような世界というのが、実は一番困難な道のりになるかもしれない。


<おわりに>
 あくまでも上記に書いたシナリオは現時点での私の想像である。だが混沌とする状況と、テクノロジーで加速された世界では、今後どのような事が起こるのか予測はしにくい。そろそろ本気で誰かがスーパーコンピューターで世界の未来を予測するべき時がきたのかもしれない。私は正直言って人の知恵だけでうまく未来が選べるとは思えない。この状況を打開するには大きな目線での第三者が必要なのかもしれない。


<参考リンク>
未来予測2013 ~私的予言録~

未来予測2014 ~安倍政権という方向性~

未来予測2015 ~不安定化する世界~

新しいパートナー(人口知能の政治参加)