2015年11月16日月曜日

汚れた豹と臆病者の恥

 「私は何でも手に入れてきた、だが同時に私は何も手に入れられなかった」

 この言葉は時折私の頭に浮かんでは消える。いつから考えだしたのか、あるいは何処かの書物に書かれていたセリフなのか? まあどちらでも良い。私は時々そのようなジレンマを想像する事がある。
 とある金持ちは言う。此の世に金で手に入れられないものなどないと。だが本当にそうだろうか? 少なくとも私の考えは少し異なる。金だけで全てが手に入れられると誤解する者は、本来の姿が持つ価値を知らぬ者である。この事を忘れないように記しておこうと思う。


 時折私は次のような想像をする。

 ただ一人で深いジャングルを散策する。辺りに充満するのはむせるような土と緑の匂い。皮膚は熱気で濡らされる。薄暗い茂みの中で不意に覆われた枝をぬって差し込む強い光が射す。
 そこは荒々しい野生の世界。よそ者である人間を圧倒する。打ちのめされるような熱気まみれ、思考はやがて意味をなさなくなる。圧倒的に無力である事を知らされ、やがて己を知る。

 だがその足が不意に止まる。森の奥から一匹の豹が現れ、爛々と輝く金色の瞳が暗闇の中からこちらを認めているのに気が付いたからだ。しなやかで艶やかな毛並み、まるで何千年もそうしていたかのような自然に立つ姿は、まるで賢者のような聡明さに満ちている。

 しかしこの身体はその神々しい姿に感銘を受けると同時に震える。説明しなくても理解しているからだ。もしも彼の機嫌を損ねたならばこの身はたやすく引き裂かれるだろう。遥か昔から定められているかのごとく、反論すら許さずに、あの鋭い牙は喉を噛み切りもできる。それらの権限と判断が全てあの美しい姿に委ねられている。息を殺してただひたすらに裁きを待つしかない・・・。


 このように野生のジャングルで出会う豹の姿はどれほど神々しいだろう。また美しく、力ずよい事だろう。人の手では再現しがたい荒々しく繊細なものがそこにはある。これらには本来値段をつける事ができない。
 だが仮に金持ちが大金をはたいてジャングルで豹を捕獲し、自宅の庭にある檻に入れたとする。
彼はそうやってあの美しさを自分の物にできたのだろうか? 
 おそらくは違うだろう。そうやって檻の中に閉じ込めたのはただの汚れた大きな猫でしかない。どれだけ大金をはたこうが、どれだけの数を捕らえようが、あのジャングルで見た神々しい美しさを手に入れる事はできない。

 しかし愚かな者達は、豹の本来の美しさが損なわれた事にすら気づかずに次のように言うかもしれない。「ほら、豹と言ったところでただの大きな猫じゃないか」と。
 彼らは愚かさゆえに世界をくだらないと嘲笑し、そして汚れた靴で聖なる場所を台無しにする。だがいったい今までにどれだけそのような愚か者を見てきた事だろう。

 空想から覚めて私は考える。

 いったいどうすればあの神々しい豹の姿に会えるのだろう。

 どうすれば本来の世界の美しさを理解できるのだろう。

 その方法はすでに解っている。「世界をありのままに向き合って理解する」事だ。

 だが私にはジャングルで豹と対峙する勇気が無い。そのことが自分でもよく解っている。ゆえに私は常に恥じているのである。あの森で出会うはずの幻の豹に。

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