2015年4月4日土曜日

顔の見える世界/見えない世界


「我々は所詮、顔の見える範囲でしかまともに考える事ができない」

 ふとそんな事を思ったのは、ちょっと前に「とあるデスマーチ」の記事を読んだからだった。その記事はどこにでもあるような話で、とある銀行のシステム開発が炎上しており、大量に人が投入されてはまた大量に去ってゆくという話だった。こういった話は一般人からするとピンとこないかもしれないがシステム屋(プログラマーとか設計とか)やっていると別に珍しい話ではない。
(デスマーチとは:終わりが見えないプログラム開発に奴隷のように従事させられている状態のことである)

 かく言う私も過去になんどかデスマーチに巻き込まれたり遭遇したりした事はある。だがこの記事を読んでふと思ったのは、私が今までに遭遇したデスマーチというのは基本的には顔が見える世界のもので、こういった本物の「顔の見えないデスマーチ」はまだ体験した事が無く、もっとキツイのだろうなということだった。

 これらの違いを解りやすく述べると「顔の見えるデスマーチ」とは、みんなが必至に徹夜で働いている状況があった場合に「ああAさん大変だな、放っといたら倒れるかな」とか「Bさん、そろそろ交替するべきじゃないかな」といった感じであって、そこには相手の顔や人格が見えるので、気遣いやフォローなり、申し訳ないと思いながら無理なお願いしたりするといった世界である。
 
 じゃあ逆に「顔の見えないデスマーチ」は何が違うかというと、こちらは次のようなノリである。「納期までに作業が終わらない」→とりあえず50人ほぼプログラマーを投入、「徹夜続きで20人ほど倒れた」→じゃあ10人ほど別の下請けプログラマーを投入だ・・・といった感じで、もう名前ですら管理されず、気遣いの余地もない世界である。きつい言い方をすると、人間扱いすらされてない本当の奴隷作業である。
(最近耳にする中ではアニメーターとかがこれに近い気がするが・・・)

 そして「顔の見える世界/見えない世界」という事を考えていて、不意に浮かんできたのが、次のイメージである。

「そもそも人間というのは、顔の見える世界しかうまく認識できず、適切な行動がとれない者なのではないか?」
 
 例えば「寄付」の問題がある。現在はメディアが発達したおかげて、世界の至る所で災害だの戦争だのが起きている事を私達は知っており、助けを求める人がつきない事もしっている。そして募金や支援活動をしている人が多く居る事もしっている。なのに、大部分の人は寄付などはしない。かく言う私もその一人で、あまりした事がない。

 だがそれは悪気がある訳ではなく「世界のどこかに苦しんでいる人がいて助けなくてはいけない」というような巨大な物語を聞かされても、ただ圧倒されるだけで何もできなくなるからだ。

 世界の苦しみに比べたら普通の一人の人間ができる事などたかが知れているのではないか? 焼け石に目薬を差すようなものではないか? さらには世界至る所にある問題のなかで助ける場所をどうやって選べというのか? そんな事が頭をよぎってしまい、私達は何もできなくなる。

 だが、もしも友達の家が火事になって苦労していたらきっと迷わず手を貸すだろうし、さらに友達が困っている知人を助けていると聞いたら、それが私の知り合いでなくても協力しようと思うかもしれない。

 ようするに、そもそも我々は「顔の見える人」しか助けようとしないし、助ける事はできないという事なのだ。

 そして、私はそれで良いと思う。むしろ、それが人間本来の自然な姿なのではないかという気がする。

 そもそも私達は、もっと「顔の見える人たち」から色んな事を考えたり始めたりするべきではないかということだ。

 例えば「GDPを上げます、株価を上げます・・・」という方策ばかりではなく、同じ町内にいる顔なじみの人たちが、どうすれば暮らしやすくなるか、何に困っているかなどといった顔の見える世界から物事を考えればどうだろうか? そうやって考えれば新たな視点と新たなアイディアが思いつくのではなかろうか。

 あるいは、そういったごく小さな試みを、各自が顔の見える人たちについてフォローしたり考えたりする事がおこれば、それは小さい出来事が次々と連鎖反応を起こすように、結果として大きな出来事につながって世の中を動かすような気がする。

 それならば、遠い世界の話だって異なって見えるかもしれない・・・

 「アラブの難民を支援しますか? YES/NO」と聞かれても答えられないが、もしも友達が知人の難民を助ける為に活動していて、それをちょっと手伝ってくれないかと言われたら、多くの人は快くそれを手伝うだろう。それは最終的に助ける人が知らない人でも、実際に助けるのが友達という顔が見える人だからできる行為なのだ。顔の見える世界をちゃんとしようとすれば、それは結果的にはどんどん広がって多くなるだろう。

 逆に考えると、現在社会というのがいかに顔を見ない世界、むしろ積極的に見ない方へ移行しているかのような気がする。例えば行政や新聞記事を見ると、あたかも他人事のような言葉「保護者」「有権者」「納税者」「学生」などが溢れている。これらの言葉からだけでは、相当に強力な想像力がある人でない限りは誰の顔も思い浮かべる事はできないだろう。そうやって、他人事のような無関心さで世の中は流れ・・・でも、いまは破綻しかかっているような気がする。

 誤解がないように述べておくが、私は別にこの世の全ての事を「ボトムアップ」下から進める方が良いと言いたいわけではない。だがあまりにも現状は「トップダウン」一辺倒であり、しかも現場を知らない愚かな指示ばかり乱れ飛んでいるケースが多すぎるように思う。

 その一因が、安易なキーワード(顔の見えない言葉)で物事を単純かしすぎている事にあるような気がする。そうやって無理やりに単純化して歪められたのが、ネトウヨだったりカルトだったり戦前回帰願望などではないだろうか?

 「複雑な世界を複雑なまま受け入れること」

 これは鈴木健が「なめらかな社会とその敵」という本で繰り返し述べた言葉だが、私は度々この言葉を思い出す事がある。簡略化して、そうしている事すら忘れる事で、私達はお互いの顔を見ないで済ませ、そして結果としてはもう一つな世界に四苦八苦している。
 私は多くの人がそんなに無理をしなくてもいいんじゃないかと思っており、それでどううまくやってゆくかという答えの一つとして「顔の見える世界を少し広げる」「顔の見える人をちょっとフォローする」というを提案したい。

<参考リンク>
『なめらかな社会とその敵/鈴木健』の紹介について

 

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