2015年1月30日金曜日

自己責任論とは何か 〜イスラム国人質事件より〜

 最近はネットで自己責任についての意見を良く見かける。直近で代表的なのはイスラム国の人質となった湯川・後藤氏について「自己責任なので国家が身代金を払う必要なし」という意見だ。結構目に付くのだが、私自身はどうしてもこの自己責任論というのがシックリこない。そこで今回はちょっと全体を整理して、自己責任論とはどういったものなのか、それは妥当なものなのかといった事について考えてみる。
 
<事例)イスラム国の人質殺害予告>
 ここでは話題になったイスラム国の事例を元に、ネットで見かけた主な意見を私なりに整理してみる。この問題はそもそも人質二人の身代金が236億円と大きく、通常払えない額だった事もあり明確に意見が分かれていた。

A)自己責任派の意見(人質を助ける必要なし)
 あらかじめ危険だと解っているイラクに自身の意思で出かけたわけなので、今回の問題はあくまで本人の判断が原因である。よって身代金を日本政府が払う必要はなく、無理な対応を行う必要もないという意見。
<多かったコメント>
 ・自分の意志(自由意思)の結果は個人で取るべき
 ・他人の過失に対して我々が払った税金が無駄に使われるのは問題
 ・捕まったのは若干問題のある人物なので、このような人物を助ける為に払う労力は無用
 (つまり人質の個人批判による意見。批判内容が妥当かどうかは疑問だが・・・幾つか見かけた)
 ・身代金の支払いは後々で類似した犯罪に繋がるので問題。(将来的な経済合理性に見合わない)
<まとめ>
 ・自由意志選択の結果は個人が負うべきで、他人が負担を負うのは間違いである
 ・救済対象者が投資額(今回は236億円)に見合わない、経済的に不合理

B)擁護派の意見(人質を助けるように努力すべき)
 そもそも国民の人名を守るのは国家の義務である。困難はあるかもしれないが、可能な限り助けるように交渉や努力をするべきである。例えば236億円は難しいが、値切り交渉するとか積極的に対応を行うべきという意見。
<多かったコメント>
 ・先進国では人権概念に従って助ける為に行動するのが当然である
 ・問題なのはテロリストで、本人に責任を負わせるのは妥当ではない
 ・救済者によって助ける/助けないの判断をするのは妥当ではない
<まとめ>
 ・人権を尊重し救出行動をするのは政府の役目であり、困難を理由に安易に放棄するべきではない
 ・人命を優先すべき問題なので、経済的な利益有無で判断すべき問題ではない

 こうして並べて見ると、A)自己責任派というのは経済合理性に重きを置いており、B)擁護派というのは人権概念に重きを置いた意見と言えそうだ。ここから推測すると、それぞれが現実に対して抱いているモデルイメージは次のようなものではないかという気がする。

<責任論派の現実モデル>
 イメージとしてはタイタニック号みたいな感じで、巨大な船に参加者全員が乗り合わせており、ピンチがきたら重荷を減らさないといけないので誰かの荷物を捨てたり、さらに大ピンチだと何人かを海へ放り込んだりするような世界。
 つまりは我々が過ごしている世界は有限なので限られたパイの取り合いを各自が全力で行っているし、誰もが努力して必至に生きている。それゆえに傷ついた者や弱い者、あるいは自分に貢献するリソースが無い者は消えてもらうしかないし当然だと考えている。

<擁護派の現実モデル>
 こちらのイメージは船に乗っていると言うより、山奥の村でずっと共同体をいとなんでいるような物だと思う。船に乗っているメンバーというのは偶然に居合わせただけで他人同士だが、山奥の村は何十年〜何百年とつづいていた共同体なので全員がなんらかの身内という世界。
 身内の世界であれば原則としては困った時は相互扶助をする考えの方が強くなるだろう。歴史が長ければ長いほど、誰もが弱い時代/強い時代を経験しているので、結果として誰もが貸し借りして相互扶助で成り立っている。よってピンチには経済合理性を超えてフォローすべきと考えている。

 モデルという視点から考えると、責任論派というのは近代都市型(個人主義)の思考で、擁護派は農耕型の共同体思考となる。
・責任論派>近代都市型個人主義イメージ + 経済合理性を重視
・擁護派 >農耕型の共同体イメージ   + 相互扶助や人権を重視

 まとめてみて自分でも発見があったのだが、こうやって考えると責任論派的な思考というのは近代化して個人主義(個人で生きられる)ようになってからの代物だということだ。
 現在は日常的な電化製品も便利になったし、24時間で買い物できる店やネット通販もあるので、一人暮らしや一人で生きることがわりと普通である。しかし昭和の半ばぐらいまでは、例えば食事するにも、子育てするにも近所でフォローしないと難しいので、そもそも現在のような個人主義的な発想はなかなか生まれなかったのだと思う。
 そして現在ではさらに、グローバル化や国家の株式会社化(直近の経済合理性のみに左右される国家運営)といった風潮にかなり影響されているのだろう。なので企業戦士はわりと普通に責任論を選びそうな気がする。彼らが弱者を切り捨てようと提案する姿は、あたかもリストラを提案しようとするイメージにダブル。

 ここからは私の個人的な意見だが、もしもどちらを選ぶかとなったら「自己責任論」を選ばない。この理由はすぐに話が広がっていって説明が難しいので、ここでは少しだけシンプルに記載する。
(真面目に書こうとすると、今までにブログで書いてきた何本もの記事を振り返る必要があるので・・・)

 それは私は現状の社会(日常的な物も含めて)モデルが限界に来ていると考えているからだ。例えばテクノロジーは確かに進化したが、個人の幸福度は上昇したのか? 未来に希望を持っている人は増えたのか? など、何かを考えるにつけ「あんまり上手くいってない」という気がするからだ。
 そもそも個人で生きられるというのは幻想である。その本質は個人でも国家でも企業でも同じである。自分たちが存在するフィールド(社会的共通資本)に対する敬意を無くしては成り立たない。だが現在はヘタに便利になった為に、あたかも空気のように最初から社会的共通資本が存在したかのように誤解し、それを支えている者達がいる事を忘れがちだ。

 そういった社会的共通資本は単なる経済合理性(市場原理等)だけではうまく維持できない。例えば食料にしたところで、市場原理で買いたたいて合理化した結果、最終的にはちょっとした気象変動があったりすると、もろく崩れて大インパクトを起こすかもしれない。儲からないから農業なんか止めろといってやめさせて、急に必要だからやれと言われたところで、いったん無くなったものを再生するには長い時間がかかり、その間のインパクトに社会は耐えられないかもしれない。そもそも市場原理は常にそういったリスクを含んでいるものだからだ・・・。

 まとめると「自己責任論という発想は、相互扶助や社会的共通資本の重要さなといった概念が抜け落ちた危うい発想である」と私は考え、ゆえにこういった立場をとる事に反対する。付け加えるならば「自己責任」というのは便利な言葉で、たんなる責任逃れや言い訳に多様されて大幅なモラルハザードを引き起こす懸念があることも言えるだろう。
補足:
・「成果主義」という言葉も「自己責任」に似て麻薬のように危険な言葉だ。そもそも正しく個人単位で成果を量る事などできないし、だいたいは労働コストを削る為の難癖をつくるのに利用される。
・自由がないのに自己責任だと言われるのが「ブラック企業」や「名ばかり管理職」である。

<追記:人質が誰であるかという問は意味がない>
 最後に言うのもなんなのだけど、そもそもを考えると今回の人質事件で「人質本人の責任」の有無を問う事自体がナンセンスだと思う。
 自己責任論を言う人は「彼らが人質になった事で今回のような問題が起きた〜」という文脈で話すが、むしろ問題は「日本がイスラム国を挑発した、あるいは戦争に加担した〜」により起きた出来事であり、問題の順番を逆にしているように思う。
 なので仮に今回のように予め捕えられた人質が居なかったとしたら、イスラム国は代わりにべつの人間を人質にとっただろう。ジャーナリストかもしれないしビジネスマンや誰でも良いし、いずれは誰かを捕まえただろう。問題の本質は「人質が誰であったか?」には全くなくて、「日本はイスラム国との戦争に加担するのかどうか?」だけが重要である。

<追記:戦前日本の自己犠牲と自己責任論は同じなのか?> 
 自己責任派の中には「自己責任の発想は日本の美徳である」的な言い方をする人をたまに見かけるが、はたしてこれは日本文化の伝統的な思考方法なのだろうか?
 私的にはこれはちょっと違う気がする。例えば特攻隊だって「戦争に負けそうなのはお前の責任だから・・・」などと言われてやっていた訳ではない。そもそも当時は個々の人間に対して明確に責任分けをするという発想が無いような気がする。それよりはむしろ自分の責任範囲を超えた「奉仕」という概念で行われていたのではないだろうか。
(「奉仕」といいつつ実際はかなり上から押し付けられてきた時代だったとは思うが)

<参考リンク>
ISISもびっくり! 
『七人の侍』の組織論

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