2015年1月10日土曜日

レゴブロック・エイジ ~オリジナルはどこから来たのか~

 「ふだん意識せずに使っている道具や知識、さらにはもろもろの前提事項はどこかレゴブロックみたいな物だ」最近そんな事を考えるようになった。きっかけは最近クラシックの演奏会に時折出かけるようになってからである。


 そもそもの話をすると、どうしてクラシック演奏会に行くようになったかと言えば、たまたま知人が無料の演奏会チケットをくれたのが元である。私は普段からDTMで作曲をしているのもあって、たまには生の音を聞くのも良いかなと思っていた。そして実際に聞いてみると、もともとクラシックについての素養のない私でも以外に楽しめるという事が解った。それからは無料でやっている演奏会(~管弦楽団の演奏会)があれば良く出かけるようになった。
 とは言え、所詮は素人である。なんとか交響曲とかを聞くよりもアナ雪をやってくれた方が盛り上がる程度のレベルなので、正直言ってクラシック演奏のどこに着目して聞いて良いのかがなかなか解らなかった。例えば普通のポップミュージックならば、私はベースが好きなので、無意識的にベースラインとメロディラインに着目して音楽を聴いている。しかし管弦楽団などといえば数十人が演奏しているものなので、音が細かくてとても繊細であり、曲によっても傾向や趣向がまったく違うのでそう単純には決められない。
 そこで何度か演奏会に足を運ぶ度に「はたしてクラシックとは何ぞや?」というような事を考えるようになった。例えばポップスとクラシックとの明確な境界はあるのか、これを満たせばクラシックと言えるのかというようなポイントが果たしてあるのだろうか・・・などと漠然を考えていた。そんなある日ふと「ポップミュージックというのはクラシックに対してレゴブロックのような関係」にあるのだという事が頭に浮かんできた。長ったらしいが、これが今回のテーマである。

 どういう事かと言うと、クラシックというのは言ってみれば何でもありの世界である。そして恐らくは「音楽だけではクラシックの世界観は完成しない」という事に思い当ったからだ。例えば何とか交響曲といった物は「暗黙のうちに聞く人がその交響曲についての物語を知っている事」を前提としていて、その物語の詩やイメージが頭に浮かんでいないと決して十分に理解できないような物だという事だ。

 話は少し変わるが、ちょうど似たような事を私は「短歌」や「詩」について考えた事がある。私は過去、どうしても短歌や詩というのが理解できないでいた。この世界には過去から現在まで有名な詩や詩人というものがあって、たまにはそれを読んでみるのだけど、どうしてもつまらない物としか思えなくて、どこに人々を感動させる力があるのかが理解できなかった。ただ、不思議な事に音楽についた歌詞であれば、これは魅力的な詩だと感じ事ができる。その違いがなかなか理解できずにいた。。
 しかし、ある時にそれは音があるかどうかの違いだという事が理解できた。つまり「短歌」や「詩」というのは、本来は黙読するものではなく、実際に声を出して読む事を前提に作られた芸術だという事に思い当ったからである。歴史を振り返ってみれば、本来短歌というものは歌会(いわばライブ)で演じるものであったし、詩だって朗読会のような場でライブを演じるものであった。だから本の上で字を見るだけではこれらは理解できなくても当然なのだ。例えるならばコンピュータ上のデータ転送みたいなもので、文章は記号(エンコード)であり、それを実際に肉体で声(デコード)にだす事で初めて価値が生じるといったところだ。
(補足:推測だが書籍を読んで詩に感動できる人は、たぶん暗譜するように脳内で音を鳴らしているではないかと思う)

 じゃあ本題に戻って「ポップミュージック=レゴブロック」という意味は、これはポップミュージックがクラシックと比べるとはるかに曲単独で成立する要素が高く、暗黙知や物語を必要としないという意味である。それは強固な前提条件(制約)の上に積まれているからだ。例えばセックスピストルズを聞く前に、わざわざPUNKの歴史やジョンライドン(Vo)の思想や生い立ちを気にする人がいないようなもので普段はそんな事を考えたりはしない。
 なぜならば「ポップ」「ロック」「テクノ」といったようなこれらのジャンルは土台その物が暗黙知(つまりはレゴブロック)であり、明確な境界線がひかれているからだ。もちろん過去の先人たちは、別にこういったレゴブロック的なものを作ろうという意図でジャンルを生み出してきたわけではないのだろう。しかしその成立過程でもろもろの暗黙知を含んだ型となり、後世で聞くものはその土台に乗っかる事で特別な知識を必要としないのである。


 そこまで考えてみると、このレゴブロック化した物というのは別に音楽だけの話題ではなく、現在のありとあらゆる物がレゴブロックで覆われているのだという事に気が付く。例えば日本人であるという文化(空気読む)とか、社会人だとか、さらには科学知識や技術についてもそうだ。我々は普段はどうやって作られたのか、どういう経緯で作られたのかもしれないブラックボックスに囲まれ、あるいは利用して生きている。大抵の現在作られるオリジナルは過去の積み重ねの上に新たなレゴブロックを積み上げる事で作られる。そして玉ねぎの皮を剥くように繰り返される構造は、本当のオリジナルがどこにあるのかを解らなくする。
 これは普遍的な事柄であるが少し懸念する事もある。過去に著名なソフトウェアプログラマーが、現在のプログラマーというのはポップアートだと発言した事があった。つまり現在のプログラマーは過去の蓄積された技術の中身(クラシック)を知らないし、知ろうともしていないという意味である。

 つまり、現在のあたかもレゴブロックに囲まれて育った人間は、パイオニアをリスペクトしないどころか軽視したり、あるいはパイオニアが存在した事も理解していない可能性があるおいう事だ。これは時によっては大きなリスクともなりうる。なぜならば現在のブラックボックスは規模も複雑さも旧世代とは比べ物にならず、どんどん進化し続けているからだ。そして過去を知るものは徐々に去ってゆき、いつしか我々は中身の解らない箱に囲まれて暮すことになる。

 これは大げさに聞こえるかもしれないが、以前に「失敗学/畑村洋太郎著」の中にも、大事故を調査すると、たいていはパイオニアの不在(約20~30年経過して引退した事)を機にするものが多いという研究がある。失敗学ではこの事より「文化としての知恵の継承の必要性」を強く説いているが、まあ大抵の組織はできてない。
(実際に私が仕事上で見てきた組織やシステムでもできてない)

 例えば現在日本の欠陥や問題なども、多くはパイオニアや創始者の引退によるところが大きい気がする。というわけで、切りがなくなるので、ポップミュージックからレゴブロック化した文明についての話をこれで終わります。

0 件のコメント:

コメントを投稿