2014年9月27日土曜日

上限モデルと下限モデルの考え方

 最近読んだ「街場の共同体論/内田樹」の5章「学校教育の限界」を読んで、ふと思った事をここにまとめておく。この章は短いので、もしも書店で目についたらぱっと読んで貰えば良いのだが、今から書くことの為に私がポイントと思った事を抜粋すると、次のような話が書かれている。

<超抜粋「街場の共同体論/内田樹」>
 ※これは私が読み取った乱暴な意訳なので、解釈ブレてたらすみません・・・。
 現在の社会的な問題の幾つかは学校教育による影響からきていて、その学校教育の問題の根幹にあるのは、育てる人間のモデルがいつからか変わってしまった事の影響が大きいとしていて、本書ではその違いを次のように指摘している。
 ・旧モデル)国家須要の人材の育成
 ・新モデル)自己利益の追求に専念する人間

 ここで言う旧モデルというのは「共同体(国や村とか)の公益の為に学校は存在するべき」という考え方で、つまりは私たちがより良く生活するには、良い教育を受けた人が多い方が良くて、それならば教育はみんなで協力してやりましょうというものである。

 だが現在は旧モデルの理念が忘れられて、新モデルのような結果になっているのだと本では指摘している。つまりは教育する側も受ける側も「良い学校を出て良い職について高収入になって・・・」というような自己利益の追求がメインになってしまったという事だ。
 そしてその理由は「飴とムチ」がもっとも有益だという人間観をベースに教育が行われているからだという。そして本ではその問題点として、そういった教育を行われた人間は「自己利益を最小努力で得る」という事に囚われる為に、結果として他人の不幸を願う、または足を引っ張るといった事をしたり、反知性主義といったマイナス行動を生むのだと指摘している。
 ようするに「まわりが馬鹿ばっかりだったら、自分も勉強できなくても進級できていいよね」とか「みんなが仕事できなかったら、私もできなくても問題にならないよね」とかという思考であったり、よくある「大学をどれだけ勉強せずに卒業したか自慢」などになるということだ。


 本では問題だと指摘されている「飴とムチ」(賞罰主義)というかようするにニンジンぶら下げて人を釣るというやり方はだが、でもこれは現在は至る処にあるやり方である。家庭でもそうだし、学校でもそう、会社でもそう、逆に言えば現在人はニンジンぶら下げる以外に「やる気を啓発する方法」というのを知らないかのようだ。だから、それしかないし、何が悪いという人もいるだろう。
 だがこれを問題だと指摘する人もやはりいるのである。ちょっと前に挙げたが「嫌われる勇気/岸見 一郎」の中でもアドラー心理学は賞罰主義を否定している。私もアドラーに同感であり否定する。

 「ニンジン貰えないと何もしないという人間」は到底モデルとして優れているわけではない。生き方としてもつまらないし、だからアドラーも否定するわけだが、社会モデルとして考えた場合にも問題がある。「新モデル)自己利益の追求に専念する人間」というのは、単独であれば良いかもしれないが、それが全員となればすぐに社会的に破たんをきたして問題となる。
 まえに「信頼の価値と、不審のコスト」で書いた事があるが、我々の社会的なコストの大半は相互不信によるものである。相互に信頼できないので、面倒なルールだの法律だの、警察だの、さらには兵器などが必要になる。もう少し高いレベルでの相互信頼があれば、我々はもっと効率的にいろいろな事をやって豊かに暮らす事も可能なはずである。
 これは言い換えると「ずるく立ち回る」というのは局所最適化した戦略(個人戦略)であるのだが、全体戦略として考えると全員がそうなった世界は鬱陶しくて耐えられないことになる。(まあ、細かくずるする人間は、信頼されないので最終的にあまり大きな益をあげられないで、局所最適の戦略としてもあまり出来は良くないとおもう・・・)


 この件について記事を書こうと思ったのは、私自身もソフトウェアエンジニアとしてどのようにモチベーションを保とうか、また部下であったりプロジェクトメンバーに対してどのようにモチベーションを保とうかと悩んだ経験があるからである。そして私が悩んだのは「ニンジン戦略」に納得がいかず、ノル事ができなかった為だ。

 ちなみに「ソフトウェアエンジニア」というのは、普通の仕事と比べてちょっと特殊であり、モチベーションの持ち方も少し異なるものだと思う。もしも私に「ソフトウェアエンジニアになりたいのだけど」という相談を受けたとしたら、私はまず次のように説明する事にしている。
「ソフトウェアエンジニアというの好きでないと割に合わない仕事だ。技術変化が速いので勤続年数で評価されず、常に勉強する事を要求される。同じぐらい勉強して金を稼ぐのならば、もっと楽な仕事があるとおもうよ」

 ソフト屋というのは割に合わないし、また部分的にはとても孤独な仕事となる場合もある。どうしても局所的な部分を担当するあまりに、担当箇所を他者と共有したりフォローできる体制がとるのが難しいケースが出来てしまって、自分以外は誰も解らない物を作っているという状況が、避けようとしてもある程度発生してしまう事があるからだ。
 この為に、結果として過度のプレッシャーと戦わないといけない場合もある。

 でも良いところもある。私が好きなのは、ソフトの世界は恐らくは他の世界に比べてとても実力主義で分かり易いからだ。下世話な言い方をすると「義理や人情ではコンピュータは動かないのですわ」的な事、肩書や地位などではソフトは動かせない、動かせるのは正しいロジックそのものだけである。これはある意味では厳しくもあるが、ある意味は変な精神論的なものが入り込む余地がなくて、明快でもある。
 また、ソフトを作成するという行為は「芸術作品を作っている」と同じような楽しみがある。もちろん作るものは予め決まっているし制約もあるが、制約のなかでいかにシンプルに優れた作品を作るかは腕の見せ所であり、納期に追いまくられることさえなければ、基本的には楽しい仕事である。(特にプログラミングだと、あっもう2,3時間たっちゃったな的な感じだ)

 上記のような諸々の思いがあって、結果的に私は次のように考える事でなんとか仕事のモチベーションを保とうとやってきていた。

<ソフトウェアエンジニアという仕事について>
・ソフトウェアの作成というのは一種の芸術である。
・あるいは、私は職人であり、作ればいいわけではなく内容や出来上がりにこだわる。
・こだわりがあるが故に楽しめるし、目標もあるし、誇りも得られる。

<開発プロジェクトについて>
・仕様や工期やお金でもめたりうまくいかず迷った場合は「プロジェクトの為に何が最適な行動か」を第一に考える。
 迷った時に自分や所属組織の利益だけを考えた行動や提案は誰の同意も得られず、結果としてはさらに問題を深める。故にそのような事態があった場合は「神の視点」(ユーザーの視点ではない)を想定し、提案を行う事。

 そう考えないと、やっぱり難しい局面があったりした場合になかなか乗り越えられなかった。また上司とかの安易なニンジンを信用できなかったので、心の中では「どうせ金だのポストだの的なものは、たいしたもの出せないでしょ」と思っていたので、それよりは面白い仕事を楽しくやらせてくれよと、いう事をメインにする事にしていた。そっちはあんまりお金がかからないので、ケチな人でもなんとか交渉しだいでは結構うまくやる事もできたからだ。
 でも結果論からすると、上記のような考え方をしていたせいで比較的に色んな仕事をする機会を得られて、わりと経験値をあげる機会を多く得られた方だと思う。だからこそ、なんだかんだと長く仕事も続けられている。


 ここでこの記事の表題のテーマである「上限モデル」「下限モデル」という話をまとめたいと思う。

1)下限モデルとは
 「街場の共同体論/内田樹」に述べられた新モデル、最低労力での最大の利益を目指したモデルである。分かり易い言い方をすると、赤点すれすれを狙う行動パターンである。

2)上限モデルとは
 私自身がイメージしていたモデルで、仕事上なのでコストの関係で上限を作らないといけないが、芸術家/職人気質を満足させる為に、なるだけ上限いっぱいを目指したいという事である。いわば実施可能な範囲の労力で最大品質を得る事を目指したモデルである。分かり易い言い方をすると、時間とかの制約はあるができるだけ満点を狙う行動パターンだ。

 私自身の行動は基本的に「上限モデル」であろうとしている。ぶっちゃけて言うと、どこかの時点で「下限モデル」的な思考にウンザリして止めてしまった。だからこそ言いたいのは「損か得かという事をうるさく言うが、損得だって多くある価値観の一つに過ぎない」という事である。損得を細々考えていると、どうもうまく楽しめない気がして「食うに困らない限りは楽しくやれる方がベストでいいんじゃない」という考えをするようになった。これは特におかしな考え方でもないし、またある意味ではとても合理的ですらある。

 逆に現在の病巣的なものがあるとすれば「多くの人が損得に縛られすぎ」というのがある。縛られたゆえのコントみたいな行動だって多い。例えば、次のような人がだいたいどこにでも一人はいるだろう。
・安売りにつられて、高い交通費払って買い物に行く人
・目先の損得につられて、所属するプロジェクト全体の成否を危うくしちゃう人
・コスト削減に収支して品質不良でビジネス全般の成果を悪化させた人・・・

 ようは損得(局所最適化)に縛られるあまり、全体最適化に失敗して結果として得してないじゃないという人達である。

 だが、このような事態は笑い話ですませたばかりもいられないもので、現在は同じ事が国家や文明単位で行われている時代である。これがグローバル化VS国民国家の文明対決的な問題へとつながるわけだが、きりがないので今日はここまでとします。

<参考>
・【TED日本語字幕まとめ】「インセンティブ制度は生産性を下げる」- ダニエル・ピンク:やる気に関する驚きの科学
http://u-note.me/note/47484826

・信頼の価値と、不審のコスト
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html

2014年9月25日木曜日

メディアリテラシーの鍛え方と「誤報埋め込み法」

 前にちょっと書いたのだが朝日新聞の誤報問題(慰安婦・吉田白書)だが、その後を見ていると読売新聞の朝日パッシング(という露骨な販売戦略)かがあって、それに対して「そもそも読売だって誤報だのねつ造だの多いじゃない」という突っ込みが各所から出る状況になり、現在は「そもそも日本の新聞って何なの?」的な話になりつつある。

 そんな時に久々に虚構新聞を見ていて、次のようなアイディアを思いついたので書いてみる。

<提案:誤報埋め込み法>
 「誤報埋め込み法」というのは造語だが、これはあえて新聞記事に一定の割合で誤報を埋め込む事により、読者のメディアリテラシーをチェックできるようにしたら面白いのではないかということだ。
 具体的には、新聞記事の大カテゴリ「政治、国際、社会等」ぐらいにくくりで、必ず1つは新聞側があえて誤報(間違い記事)を載せるようにし、そして末ページとかに解答確認用としてどの記事が誤報かを乗せるというものだ。
 こうすれば、読者は記事をよんで「これは誤報かも」と考えながら読むことで、楽しむと同時にメディアリテラシーも鍛えられるというものである。

 この提案を見て「そんなアホな」と一笑に付した人もいるかもしれないが、じつはこれはソフトウェアのテスト手法に古くからある「バグ埋め込み法」というものである。ソフトウェアの世界では品質をどう保つかが永遠のテーマであって、このバグ埋め込み法というのは、ソフトのテスト担当者が正しくテストできているかどうかを図るための手順である。

 事例)新規開発した通販サイトのテストの場合
  ・事前準備 >テスト対象の通販サイトにあらかじめバグ(問題)を10件仕込んでおく。
  ・テスト作業>普通に通販サイトのテストを行う、なお結果としては30件バグを発見した。
  ・テスト評価>発見したバグの内、事前に仕込んだバグ10件のうち、5件だけが見つかっていた。
    つまり、バグ30件とは、25件の新規バグ+5件の仕込みバグであり、
    仕込みバグは5件(半分)しか見つかっていない。
    ここから推測すると、全体のバグを発見できたと想定される確率は約50%であり、
    まだ30件ほど未知のバグがあるのではないかと考える。

 まあ、実際にバグ埋め込み法を利用したプロジェクトというのは聞いた事がない。そもそも、そんな適切なバグを埋め込むの結構高度な技術いるし、作業コストもかるから、普通はそのエネルギーをそのままテストに使えばいいんじゃないとなるからだ。(でも情報処理試験とかではいまだに出題されているようなのだが・・・)

 でも新聞であったら、読むほうも考えるし楽しみになるから、面白いという意味でやっても良いと思う。私は新聞を購読してないが、もしもこんな試みがあったら読んでもいいかな。そうなれば各自の新聞やメディアに対する考えも変わるだろう。メディアのいう事を鵜呑みにしないこと、そして誤報を見分ける嗅覚が少しでもつくかもしれない。
 ちなみに、過去に何かの記事で虚構新聞を本当の記事と間違えた人がクレームをつけた時に、たしか虚構新聞側が「虚構新聞の存在理由として間違いを見分けるリテラシーを鍛えるという意味があるのです・・・」(文面忘れたので意訳すると)といったコメントを見たことがあり、なかなか「グッと」きたことがある。


 なお、そもそものメディアとリテラシーに関する現在の大きな課題を挙げると、基本的には次のようなものだと思う。

<メディア側>
 ・そもそも真実報道する気がない。勝手に解釈している記事も多い。
 ・記者クラブなど、聞いた事を無批判に垂れ流しているような感じでレベルが低い。
  基本的に中身がない。
 ・報道しない自由だけが目につく、スポンサーとかに弱すぎ、全国紙はポリシーなさすぎ
 ・誤報は仕方ない場合もあるとして、基本的に訂正報道がない
 ・自分に都合悪い事は報道しない、もう少しは公益を考えて欲しいのだが・・・
 (消費税の軽減税率を新聞だけに要求するとか、少しは恥を知って欲しい)

<読者側>
 ・新聞ってわりといい加減なのに、妙に信じている人が多い
 ・情報ソースが新聞・テレビだけの人はまずい
 ・新聞取る人がもっと減っ手欲しい、ならば内容も少しはましになると思うが・・・

 もっと読む人の目が厳しくならないと、メディアは良くならないと思う。だから、ビジネスマンはなんとなく日経読むべきといったリテラシー無い人は、止めてほしい。日経って経団連の学級新聞ぐらいという認識でちょうど良いと思う。それぐらいシビアに読むか、止めて欲しいな。


<参考>
・虚構新聞を批判する人々は2パターンに分類できることがわかった【ユニセフ記事の魚拓あり】
 http://www.daisuiseishocker.com/entry/2013/11/22/184648

・「バグ埋め込み法」バグの数は予測できるのか? 発想は斬新だけど評判の悪い「池の中の魚」モデル
 http://monoist.atmarkit.co.jp/mn/articles/1211/22/news009.html

・日本報道検証機構 GoHoo
 http://gohoo.org/

2014年9月21日日曜日

葬儀の意義、さらにはパッと見に意味がなさそうなものについて

 少し前に祖母の法事に行った時に、あらためて「葬儀」というものは死んだ者のためではなく、残されたものの為にあるものだなと思った。私はあまり葬儀に立ち会うことが多くないので、こういった事を考える事もあまりないのだが、せっかくなので、そこで色々と考えた事を書いておこうとおもう。


 ちなみに、まず前提として私の宗教観やスタンスを述べると、私はクリスチャン(キリスト教カトリック)の家で育った元クリスチャンである。元というのは、現在はまったく教会に通うとか祈るとかはなく宗教的な活動を一切していないからだ。かといって無神論者というわけでもなく、宗教観を持ち合わせていないわけではない。

 じゃあ、どういった考えを持っているのかというと、私の考えは「神」とは本来は人々が「未知」に対して敬意を払う為につけた呼び名のようなものだと思っている。だからもう少し突っ込んで言えば、この世界の法則(物理といっていいのか分からないが)そういった諸々がいわば「神」だと考えていて、ひいては「擬人化された神」は存在しないと思っている。
 だから神はいないというよりも、神(法則)は存在し、宗教というのはその一面を見た人々があたかもそれをユダヤの神だのキリストだのイスラムだのとそれぞれに異なる名を付けたものと考えている。つまりは「群盲象を評す」(あたかも盲人が象のそれぞれの場所にふれて、それぞれ異なった説明を行う)ようなものだと考えている。

 なので、身もふたもない言い方をすると、宗教というものは人々が勝手に「神(未知/法則)」に対して名前を付けてつくりだしたものであり、所詮は人々がかってに言っているだけのものだと思っている。だから私は宗教そのものは信じてないが、しかし未知の物事に対する敬意を払うという意味では、神を否定はしていないという立場である。


 それで、結局は祖母の法事でどんな事をおもったかというと、私はずっと前から葬儀(仏式は特に)戒名だの初7日だの49日だのと、かってに坊主が作り出した良く解らないルールに従わされるのが面倒だし、ばかばかしいと思っていた。
 なぜかと言えば、葬儀の細々ルールというものがもろもろあるが、おおもとの開祖にあたるブッダとはまったく関係のないのがあきらかな事ばかりで、いかにも後世の人間が勝手に作ったのが見え見えだったからだ。まあ、これは仏教が悪いわけではなく、歴史ある宗教は全て似たようなものだと思う。仮にキリストが現在に登場したら、なんで勝手に面倒なルールだのなんだのを拵えて世界をややこしくしている事にあきれ返るだろう。
 なので、私はずっと長い間葬儀とかのもろもろシキタリというのが腹立たしかった。意味ないのもあるし、まったく本質的ではないので、まじめに宗教的に考えたらなおのことやる気がしなくなる代物だと思っていた。

 だが最近、実際に祖母の葬儀だの法事をやっているうちに、諸々の手続き(仏式)が、「亡くなった人のためではなく」「残された人々の為にある」と考えれば、優れて意義のあるものだと思うようになった。

 そもそも本質的に考えれば、死んだ人間に葬儀は必要ない。だが残された者には「儀式」は必要だ。親しかった人が亡くなった事を受け入れ、さらには亡くなったあとの生活を考えなければいけない。だが、それは時には難しい事なので、なかには亡くしたショックから中々立ち直れずに、一人孤立してしまう人もいるかもしれない。
 だが仏式の葬儀の場合、死後の処々のシキタリで縁者が亡くなってから7日、49日、一周忌、3周忌等の定期的に人があつまる。それは孤立しそうな人を勇気づけたり、支援したりするとても良い機会を提供している。それは、最初から狙って作ったのかどうか解らないが、ある意味でとても良い仕組みではないかと思う。

<補足>
・出典は忘れたが確かブッダのエピソードにて、次のようなものがあった。
 弟子がブッダに、バラモン教徒が葬儀で色々な祈りを唱える事の意義を質問した。するとブッダが「バラモンがいくら祈ったところで池に沈んだ石が水面に浮かぶことはない。死後の運命を決めるのは、あくまでも当人のカルマによる・・・」と答えたという。つまりは、ブッダはもともと葬儀で祈るような事をまったく念頭に置いてないし、それに対して宗教的な意義も認めてはいないのである。まあ、当たり前と言えば当たり前であり、これはオリジナルのキリスト自身の語録でも同様である。

・ただし、現存仏教の戒名を金で差をつけるようなやり方は、あまりにも金に汚い世俗的なルールで、さすがにこれは要らないだろうと思う。また7日、49日、一周忌、3周忌等のルールは、昔の親族が身近な場所に住んでいる事を暗黙の前提として想定しているルールのように思う。近代のように核家族で、あっちこっちに散らばって暮らしている世界では、おそらくはこの点を現状に合わせてカスタマイズする必要もあるのだと思う。


 こんな事を考えながら思ったのは、この世には一見すると無駄で意味が無いように見えるが、実は大きく意味があるようなものがけっこうあるという事だ。

 子供の時に聞いた話でとても印象に残っていて今でも思い出すのは、アメリカのプレーリードッグの事である。プレーリードッグはもともとアメリカ大陸にたくさん住んでいたネズミの仲間で、地面にモグラのような穴を作って住んでいた。だがある時からは害獣として多く殺された為に現在は限られた場所にしかいない。害獣とされた理由は、放牧しているときに牛や馬が時折、プレーリードッグが掘った穴に足を取られて骨折する事があったからだ。だが実際にプレーリードッグを駆除すると、それまでは牧草地として利用できていた草原が徐々に干からびる現象が起きて、かえって放牧のダメージになった。
 実はプレーリードッグが掘る穴や、彼らのふんなどは、地面を耕す役割を担っていて草原を支える役割をしていたのである。この為に、プレーリードッグを駆除した場所の中には砂漠化したところもあると聞く。

 また、こんな話もある。現在はクリーンな生活が進んで寄生虫に人が侵される事はほとんどなくなった。だが同時にクリーンな社会になってから新たに増えた病気もある、それがアトピー皮膚炎やアレルギー疾患である。一説にはこれらの原因は、寄生虫を駆除した事によるものであり、理由は寄生虫が持っていた固有のバクテリアなどが消失した事による影響だとも聞く。

 何も科学だけの世界ではなく、システム開発をしているうえではこういった話は日常茶飯事である。古いシステムを切り替えた際に、不要と思っていた仕組みが実は隠れた大きな意味を持っていた等々だ。似たような話はいくらでもあげられる。
 そして、こういった思考が「複雑な世界を、複雑なまま理解しようとする」試みなのだが、残念な事に世間にはほとんど浸透していないような気がする。


<参考>
・9―群盲、象をなでる
 http://ayur-indo.com/indo/eichi/eichi9.htm

・オグロプレー リードッグ Black-tailed Prairie Dog
 http://animals.main.jp/mammals/black_tailed_prairie_dog001.html

2014年9月13日土曜日

朝日新聞パッシングから思うこと

 最近あった朝日新聞たたきをみて、なんか「嫌な物みたな」的な後味悪さがあったので、ちょっと日本の右傾化的な事についてコメントを書こうと思う。

 なにが嫌かというと、読売や産経など(極右新聞と言ってよいのかな?)だったかの朝日叩きみながら、思わず心の中で突っ込んだのは・・・

「そもそも新聞やテレビで訂正や釈明報道なんて見た事ないよ」ということだ。

 そういうイメージがあるので、この一連の報道は、報道の進歩というよりは、報道そのものがゴシップ化しているうえに、結局は政権の御用聞き、さらには調子に乗って執拗な弱者叩き的な、なんというか・・・、まあ、嫌な姿をみたなという気になった。
 ネット上だと私と同様の意見の人間もいるのだが、新聞・テレビ(あんまりみてないけど)が似たような世界に染まっているのだと想像すると、なんかとてつもなく暗い気分になる。(やっぱりこの国は終わってんのかな・・・的な・・・)


 いちおう誤解が無いように、この事件に対する私の意見を述べると。正直いって朝日新聞側の問題がどの程度、悪意的であり犯罪的だといえるのかは詳しく調べてないのでわからないし、調べる気もない。それよりは、こういった事件で本来行うべき議論ができてないことについて苦々しく思っている。だからこの事件は事件で淡々と、報道側の問題や責任をどう扱うかについて進めればいいのだが、この馬鹿騒ぎで隠れている本来の問題を議論すべきだと思う。つまりは次の問題だ。

1)従軍慰安婦の問題(これって本来は強制連行の話がメインじゃないのだけど)
2)吉田調書の問題 (これも本来は撤退指示云々が別に重要なぽいんとじゃないのだけど)

 例えば1)従軍慰安婦についてだが、ぶっちゃけ「強制連行」に執拗にこだわっているのは日本国内だけで、世界的には従軍慰安婦という制度及び運用について問題提起や議論をすべきという話になっている。だから現在のあおり報道で、あたかも「強制連行はなかったのだ→慰安婦問題解決→日本は正しい」的な空気作っているのだけど、そういう話ではないのだよね。

 2)吉田調書についても、重要なのは危機においてどのような対処がされたのかと問題や課題を明らかにする事。さらにはそもそも吉田所長は原発津波被害を軽視して対策を見送った中心人物でもあるわけだから、そういった部分の責任なども含めて、ダメな点や今後の対応を考える事をすべき話なのだ。

 だから現状行われている、多くの問題すりかえである。なおやや過剰と思える朝日新聞のパッシングだが、どうしても私の目にはアベ政権からの見せしめ戦略に見える。お上のいう事にチャチャ入れたら、こんな感じに痛い目みるのだぞと、メディアを恫喝しているようにすら感じる。
 ちなみに、こんな余計な事がメディアで大騒ぎになっていることで、代わりに本来重要だった下記のような問題が、けっこうウヤムヤになっているし、まあ、やっぱり狙ってやっているとみるべきなのかな・・・。

<わりと近々にあった問題>
・原発再稼働の問題
・消費税増税の影響で大規模ダメージが発生している事


 しかし、秘密保護法に集団的自衛権(意図的な憲法無視)、メディアの恫喝といい・・・、1年前ぐらいは、まだ冗談まじりに戦前の体制に似てきたなと言ってたら、最近はまんま戦前の体制になってきたという気がする。だが、私はまだ正直いってこの状況がいまだに良く理解できていない。

「そもそも、なんでこんな頼んでもない事をばっかりやる、馬鹿政権の支持率が2桁もあるのか?」

 支持率のはかり方も問題あるとは思うけど、真面目にこの世界を破壊して欲しいというようなネガティブな願望を持っている人が、潜在的に多いということなのかな。いまだに、まだ納得はできないな。


<参考>
・朝日謝罪会見でハシャぐ読売、産経の“トンデモ誤報”集
 http://lite-ra.com/2014/09/post-454.html

・マスコミの矜持
 http://www.taro.org/2014/09/post-1524.php

・安倍内閣と一体の右派組織「日本会議」究極の狙いは徴兵制だった!
 http://lite-ra.com/2014/09/post-453.html

2014年9月9日火曜日

あなたは「縦派」、あるいは「横派」ですか?

 最近「嫌われる勇気/岸見 一郎」を読んだ。これはアドラー心理学(心理学というよりは哲学と呼ぶ方が適切と思う)の内容を、青年と哲学者の対話という形でかいた本である。内容のアドラー心理学について学ぶ事も有益だが、説明する書籍としてもとても解りやすくて面白い良い本だと思う。ぜひとも多くの人に読んで欲しい、無条件にでも読ませたいぐらいだ。
 でも今日はこの本の良さについて語るのではなく、ちょっとこの本で紹介されている「縦のつながり」「横のつながり」という話が面白くて色々と考えさせられたので、それについて書こうと思う。


 では、まず前段の話からすると、アドラー心理学の立場では「人間の悩みは全てが対人関係」であるとし、その根っこにあるのは縦の関係が問題で横の関係がベストだとしている。ここでいう縦の関係とは「上司と部下」「先輩と後輩」みたいな片方が偉いというような関係である。なお対する横の関係は「対等な友人」「自立した人々のつながり」といったものを指している。

 つまりは上下とか縛られた関係はストレスであり、またお互いの自立を妨げる可能性もあり、こういったもろもろが対人関係の悩みの基本となるという考えだ。なお、この話でちょっと面白いと思ったのは、アドラーいわく「人は縦関係か横関係かいずれかひとつしか使えない」という指摘である。これはどういうことかというと、人間というのは案外不器用で、Aさんとは縦関係でBさんとは横関係などとうまく使い分けられるものではなく、結局は全員を縦関係ベースで結ぶか、横関係ベースで結ぶかのいずれしかできないということだそうだ。
 ちなみに縦関係ベースというのは、片方が絶対的に優位に立って下を指導する又は命令するという関係であり、横関係ベースというのはお互いに立場が同等であるが役割が異なるといった関係を指している。例えば会社で縦関係を重視した生真面目な管理職という人がいた場合、その人はおそらくは家庭でも縦関係を持ち込んで命令的に家族を支配しようとするような例が多いということである。

 ここでポイントとなるのは、縦関係ベースの人と、横関係ベースの人の二種類がこの世に存在するということである。そして、この話を読んでまず思ったのは「はたして自分は縦派か横派かどっちだろう」ということと、宗教における神と人間というのは究極の縦関係ではないかという事だ。

 ちなみに私について考えると「横関係派」だと思う。昔からとにかく縦関係が苦手で、うまく縦関係が結べなかったような気がする。運動会系の縦関係しかり、サラリーマン社会の縦関係しかり、思い返せばこういった関係をどうにかこうにか誤摩化してスルーしてばかりだった気がする。

 でも日本について考えれば、日本人は縦関係ベースが多い社会ではないかと思う。体育会系のノリというのは日本はあまりにも独特であるらしい。過去に体罰が問題となった時に思ったのだが、私はつくづく日本の体育会系的なノリが理解できないなとおもった。学校の名誉だかなんだかで生徒を縛り、自主性や個人の特性を無視した訓練の押し付け・・・そんなつまんない事をやって何の意義があるのだろうかと思ってきた。

 そしてこういったノリとだいたいセットなのが、意味不明な根性論で、おかげて日本のスポーツ界というのは先進国の中では比較的に事故が多いと聞く。例えば甲子園で連投させつづけて選手生命を絶たれるような行為がつづけられている。ちなみに私が以前にネットで読んだ記事で衝撃だったのが、ドイツではクラブとかスポーツとかが大好きで日本以上にスポーツが盛らしいのだが体罰というのはない。なんで体罰がないのかをドイツ人に聞いたら「野球が下手なぐらいで人を殴れるか」と言われたそうである。これはもの凄くあたりまえの事だが、日本ではできていない。
 かといって世界では横が多いとかではなく、私の知識で想像するにはアメリカ・ヨーロッパなどは横関係がベースの社会だと思うが、大雑把にいうと東洋やイスラム圏は縦っぽい気がする。

 しかし、そう考えた場合にキリスト教における神を西洋人はどう解釈しているのかという疑問が生じる。神というのは究極の縦社会に見える。ちなみにユダヤ教(キリスト教の原点、旧約聖書)のエピソードでは、アブラハムが神にわが子をいけにえに捧げろと命じられるシーンがある。物語ではアブラハムは神に従おうとするが、子供を殺す直前で神はお前の忠誠を分かったとして止められる。これは非常に強力な縦世界のエピソードに思える。
 だが私は似たようなエピソードは、キリスト教(新約聖書)では知らない。神はどっちかというと秩序の番人として見守るもので、人々に私的な要求はしない。むしろポイントは博愛であって、博愛の究極が神となるので、神は法を設けたが人々に要求や命令をするというイメージではない。そう考えれば、キリスト教の博愛ベースの思想は、必然的に「横社会」との親和性が高い思想なのかもしれない。

 逆に東洋思想では、博愛の概念(慈悲になるのかな?)がないわけじゃないのだけど、そこまでメインに取り上げられてない気がする。多神教でかつ上下関係もあって、必然的に「縦社会」になりがちなのかもしれない。良く考えると「慈悲」というのはやや上から目線の概念だし。インドの「カースト」なんかは代表的であるわけだし。イスラムの「カリフ」とかはよく知らないのだけども・・・。


 まとめると、私は「横派」だし、社会としても「横派」に向かうべきだと思っている。では、はたして「縦派」は全てがダメなのだろうか? 例えば「師弟関係」はどう考えれば良いだろうか、私は独学ベースの人間なので物理的な「師匠」はいないが、それでも書籍を通じて知った「心の師」はある。師弟は縦派っぽくみえるのだが・・・。
 でもつきつめて考えると、同じ「師弟関係」でも、「縦派」解釈にするか、「横派」解釈にするかだけの違いなのだろう。なんせ明確な横派の私に心の師があるのだから、横派でも師弟は存在する。

 ちなみに、なんでこれだけ「縦派」をダメ出しするかという点について私の考えをまとめると次のようになる。

<縦派のメリット>
・シンプルな体系、決断から命令までは早い
・固定した体系なので、個々のメンバーは悩まなくて良い(考えなくて良い社会)

<縦派のデメリット>
・硬直しやすく、柔軟に動けない
・ストレス多い社会、上下関係とか競争指向なため   ※アドラー心理学が否定する理由
・個々のメンバーが考えない、言い換えれば成長の機会を奪われているともいえる

 これらを踏まえて、大雑把にまとめと次のように言えるかもしれない。

・縦派の思考というのは「現状で世界をロック(固定)」する方法である。現状から大きく進歩は望めないが、あんまり悩まなくていいかもしれない。でも徐々に劣化してゆくので、時代がたつと綻びて問題が大きくなる。非民主的な社会にすぐ移行しかねない。
(定期的に破壊する必要性を内包する社会と言えるかもしれない)

・横派の思考というのは「常に改善すべき」する方法と言える。現状を常に考えて、悩むと同時に改善もすればいいじゃないという考え方。民主的であり、民主的であるというのは「個々の人間が賢くなるよう頑張ろうよ」という事を目指す社会。だが価値観が多様なので迷走も多いだろう。

 ・・・いろいろ考えたが、やっぱり私は「横派」である。人(あるいは生命)は本来だれでも「より成長したい(より良くなりたい)という願いを持っている」というのが持論だし、迷っても自分で考えて成長できる可能性がある社会や関係の方がいい。


 はたして、あなたは「縦派」、あるいは「横派」?


<余談>
 ちなみに私は昔から根性論は大嫌いで、常々は部下とかチームメンバーには「根性ではなく、知恵と技術で問題解決しようよ」と言うようにしている。根性というのは神頼みと同様になりかねないという懸念から、自分ではあえて禁じ手扱としている。私見だけど歴史的にも、実際の経験からしても「根性」を前面に出すような指導者はろくな奴がいないと思う。

<参考リンク>
・ドイツの教師 校外で煙草吸う生徒目撃しても注意しない理由
 http://www.news-postseven.com/archives/20130210_170585.html

・今回はアブラハムのお話 ...ユダヤ教の生贄に関するエピソード
 http://www.com-st.com/kling/materials/tsusin_14.html