2014年3月29日土曜日

教養について語る

「我々に最も欠けているのは教養というものではないか?」

 最近はそういった事をよく思うようになった。我々と言ったのは私も含めて、実際に身近で教養人というのがおらず、なおもう少し話を広げれば日本人では教養人と思われる人はあまりいないように思う。それはテレビや新聞などのメディアの世界でもそうだし、文芸や音楽であったりという芸術や科学の世界についても感じる。
 何故そう思うかというと、たまに教養というものを感じさせられて関心する事がたまにあるのだが、その言葉はほとんど外国発信のものが多いからだ。それに、そもそも日本では教養というものが何であるかすら理解されていないように思うからだ。
 逆に私は、私自身に欠けているもの、そして多くの人に欠けている物であって、これから必要なものに「教養」というキーワードは外せないのではないかと最近強く思うようになった。少なくとも日本はアジアはまだまだヨーロッパに100年ぐらい遅れているのかもしれない。

 そもそも私が教養という事をよく考えるようになったのは、仕事(ソフトウェア開発)を通じてのことだった。ここしばらくは要件定義や設計が中心で、自分でプログラムを調べたり直したりする事は少ない。
 では何故かというと、長年この仕事を通じて「どうすればプログラマに良いコードをかいてもらえるか?」という事だったり「どうすれば優秀なプログラマを見つけられるか? あるいは育てられるか?」といった事をよく考えていたからだ。

 私は度々その問題を考えて、もしも理想的な訓練をするとしたらどういった才能や訓練を行うべきかという事を考えた。だがいつからか、特定のジャンルの訓練をするだけでは無理だと思うようになった。視野の広さや思考の深さという物は、そういった即席の訓練では身につけられるたぐいのものではない。
 自分で多くを考え、悩んだ事項の質や深さであったり、時間をかけて他のジャンルであったり、身近にある普遍的な事柄から何かを発見するような事をしていないと身に付かないものだ。そして恐らくは、そういった物をひっくるめて言葉でいうならば「教養」となるのだと思うようになった。

 教養は決して即席できるものではない、そしてパッ見た目でこの人は教養がある/ないがすぐに解る物ではない。だが真に複雑な事項を考えたり、新たな良いソリューションを考える為には必要な重要な能力である。
 ちなみに誤解の無いように述べるが、私は単純に高学歴であったりエリートであったりする人を教養があると考えているわけではない。実際に教養や深さを感じる人物というものにも稀に出会う事があるが、そういった人物は決して高学歴などではなく、おそらくは一つの問題や事柄をずっと自分なりに考え続けているというタイプの人だった。大学へ行けば教養が身に付く訳ではない。
 
 誰だか忘れたが、ソフトウェアはポップアートだといった人がいた。これは言い得て妙だ。音楽であればクラシック〜現在音楽といった系譜があって、クラシックから学ぶ人も多い。だがソフトでは過去の技術を学ぶ人は少なく、現在流行の技術だけを効率よく覚えようとする人が大部分である。それは悪い事ではないのかもしれないが、コンピュータの動作原理をよく理解していないといった基礎知識ができてないので、ちょっと壁に当たると前に進めなくなるといった事も多く見かける。

 現在はコピペの社会である。最近問題になったSTAP細胞でのコピペの話もあるが、世の中の大部分はコピペで成り立っている。新たに自分で考えだしたり検証したりするよりもはるかに楽だからだ。そうやって先人の知恵や遺産を役立てるのは良い事だ。しかし、そのせいで近代人の知的な劣化は著しいのではないかとも思う。

 内田樹が著書の中で、学生が効率性を追求するあまりに劣化し、それが社会にも及んでいると言った指摘を良くしているが、それは日本の至る所のジャンルで起こっているような気がする。政治、官僚、学会、メディアなどは著しく劣化しているのではないだろうか。
 7、8年前の話だが新渡戸稲造の「武士道」を読んだ時に、新渡戸の教養人としてのレベルの高さに私はとても驚かされた。読む前は心のどこかで100年前の人間というのは、どこか現在から見れば田舎者的に見えるのではと考えていた。だが実際に読んでみると、これだけの教養人は果たして現在の日本にいるのだろうかとさえ思ったぐらいだ。

 そして劣化が最も激しいのが、敗戦により文化的に一回クラッシュした日本では特に著しいのではないかと思う。ヨーロッパは街並であったり文化であったり伝統を重んじる事、そして哲学的な思考の系譜などがあって、日本とは基礎のレベルがまだまだ違うような気がする。少なくとも一般人教養レベルは日本とはだいぶ違うような気がする。
 そう言えば昔、sexpistolsの「bodies」和訳を読んだ時に、同じパンクでもイギリス人は遥かに文学的なのだなと思った事がある。

 現在日本人(特に学生)の効率的な学習というのは、手っ取り早く有利な知識を仕入れようとしているのは、結果的には「反知性主義」とほぼ同様のものになっているのでは無いだろうか。なお、少し前にChikirin氏の理科や算数の授業は多くの人に必要がないという記事を読んだが、これも少し現在病的な考えに引きづられているような気がした。

 私自身は「使えない知識がある」と考えるよりも、「知識を使う能力が無い人がいる」という立場の考え方をする事にしているので、むしろもっと基礎的な知識や経験を多くの人が積むべきだと考えている。それに、そもそも無駄な知識という線引きは結局は不可能なのだと思う。

 例えば私自身はシステムエンジニアという仕事で役に立ったと思う知識は、過去に読んだ手品に対する書籍、心理学や推理に関する知識、雑多な歴史や出来事及び科学に対する知識など、普通はまったく関係ないものが多かった。コンピュータやプログラミングに関する書籍は必要になればすぐに読めるが、それ以外の地力を高めるような物は即席が不可能なので、むしろあらゆる疑問を常に考察するぐらいの無駄とか損得だのを考えないような学習(たんなる趣味)が必要なのだと思う。

<参考>
・下から7割の人のための理科&算数教育 - Chikirinの日記
 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20140225

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