2014年12月30日火曜日

人生の転機について考える ~赤毛のアンより~

 最近ふと「赤毛のアン/モンゴメリ」を読み返す機会があって、そのときに、ふと考えこんだ事について書き留めておく。ちなみに「赤毛のアン」は有名すぎる作品で、名作アニメで現在も放映されているぐらいなので、物語についての説明は全て割愛する。


 私は久々に、多少の訳があってかなりじっくりとこの作品を読み返した。すると過去に読んだ時には、あまり気に留めなかった下記の2つのシーンがとても印象に残った。

 1)マシュー・マリラの兄弟が、アンを引き取る決心をするシーン
 2)マシューの死後、マリラを支える為にアンが奨学金による進学をあきらめる決心について


 まず、1)のアンを引き取る決心をするエピソードは、それまで二人だけで特に不自由もなくのんびりと暮らしていたマシュー・マリラの兄弟のもとへ、間違いで男ではなく女のアンが来て、マシューがアンを引き取りたいと言った際に、マリラが驚いて反論した際のセリフである。
 マリラ 「あの子がどれだけわたしたちに役立つとおもうんですか?」
 マシュー「わしらがあの子の役に立つかもしれないよ」

 ここでのマシューのセリフは、それまでのマシュー・カスバートという人物について考えると驚くべき飛躍である。マシューは酷いハニカミ屋で、どちらかというと他人を避けるように暮らしてきた人であり、善良ではあったが、とうてい誰かを積極的に助けようとするような人物ではなかったからだ。
 それにアンが来たのはあくまでも間違いであり、この点については何の責任もない。だが責任うんぬんという話を除いて、ここでマシューは進んで誰かの為に立とうと考え、それまでの自分の枠を超えた一歩を踏み出すのである。

 つづいては、当初はアンを孤児院へ戻すつもりだったマリラが、アンが代わりにケチで評判の悪い家に奴隷代わりのような扱いで引き取られそうになる局面にきて、ついにアンを引き取る決心をしたシーンである。この時にマリラは心の中で次のようにつぶやく。
 マリラ「マリラは、もしその無言の訴えをしりぞけたなら、きっと生涯つきまとわれるだろうと思って・・・こんな女に、繊細な、神経過敏な子供を渡すのだって! いやいや、そんな無責任なことはできない!」
 ここではマリラもマシュー同様に、大きな飛躍をする。自分達の損得という枠を超えて、そうあるべきと思われる道を選んだ。そしてそれまでの自分達だけの生活から一歩踏み出し、初めてあった孤児の為に行動するのである。

 この二人の決断は、それまでの「自分たちの為(あるいは自分たちの枠内)に生きる」から「誰かの為に生きる」事を選ぶという、とても大きな飛躍である。そして、この決断が二人の人生を変える。

 アンが来る前は、平穏であっても、何の味気もない繰り返しのような日々を暮してきた二人だが、アンが家族になる事によって日常が変わる。アンへとの愛情から喜びが生まれ、生活に驚きと楽しみが生まれ、日々が豊かになることから幸福へと繋がってゆく。もちろん、それまで孤児で踏んだり蹴ったりだったアンの人生も劇的に改善する。家族からの愛情を得て、教育される機会を得て、良い友達や人たちに巡り合う機会を得るのである。


 そして、もう一つが2)のアンが進学をあきらめるくだりである。マリラはマシューの死と銀行の破たんという苦境に立ちながらも、家を売ってアンの進学を支えようとする。だがアンは奨学金を辞退して進学をやめ、代わりに地元で教師になってマリラを支える決心をする。
 これは、アンの人生における大きな決断である。詳しい事情を知らない人の中には、奨学金で有名学校へ進学できるという破格の機会をみすみす棒にふったアンを愚かだと言う者もあった。それにマリラは多少無理をしてもアンを進学させる気があったから、アンは進学を選ぶという選択もありえたはずである。
 だがアンはあっさりと進学を止めて、地元で教師になる道を選んだ。それは目の前の進学という野心ではなく、家族であるマリラを支え、思い出ぶかい故郷であるグリーンゲイブルズを守るという事を選んだということである。

 これは一見するとアンは損な選択をしたように見える。だがその勇気ある決断は、育ててくれたマリラの恩に報いるだけではなく、長年仲たがいしていたギルバートと和解を導き出し、さらには親しい者たちからの尊敬と、自身の誇りを得ることにも繋がったのである。


 この2つの印象的なシーンについて、モンゴメリが意図していたのかどうか解らないが、私には次のような教訓に思えた。

 「自分の為に」という枠を超え、「誰かの為に」という一歩を踏み出すという事が、真に幸福を得る道ではないか


 そして物語を読み終えて、現実世界にもどった際に感じたのは、同様に「自分の為に」という枠を一歩超える事が、現在の現実世界でも起こっているあらゆる問題解決を行う為の鍵ではないのかという事だ。

 教育のせいなのか、文化的なものなのか解らないが、一般に我々は「目先の損得」に固執しすぎ、そのおかげでかえって多くの場合に問題を引き起こしてデメリットを得ている。さらには「損得で得」を選び続けているつもりで、最終的な結果から見れば「とてもツマラナイ人生」を送っているのではないかと思うことがある。

 「損得」と言っているものも、所詮は数多くある価値観の一つに過ぎず、この世には「決して代替えできない物」が沢山あるにも関わらず、なのに私たちは「ちょっとでも損だと思う選択」を恐れて本来あるべき勇気ある決断ができないでいる。・・・そんな事を考えさせられた。


 最後に、久々に読み返した「赤毛のアン」は、読めば読むほど新しい発見があり、物語に描かれる豊かな世界やユーモアなど本当に素晴らしい本である。なお今回書いた2つのシーンについての考察だが、自分でも何でもっと早く(何年か前にでも)こういった事に気が付かないのかなと多少悔やまれる。この年にならないと、こんなシンプルな事に気づかないとは・・・自身の未熟さが痛感させられる。
(もっと早く解ってりゃ、もう少しマシな人生をおくったかな? なんてね)


<補足>
・セリフの引用は電子書籍版「赤毛のアン/中村佐喜子訳」からのものです。

2014年12月28日日曜日

正月休み向けのマニアック映画ベスト10

「唐突だけど、これからここに私がお勧めする好きな映画のベストテンを上げる事にした」

 なんでこんな事をしようかと思ったかというと、こういった連休前にはお勧め映画ベストテン的なものを多く見かけるが、そういったものに納得した試しがないからだ。どう納得しないかというと、それらはなんか映画業界がこうあって欲しい、またはあるべきだと思っているベストテンだったり、あるいはいかにも万人受けしそうな無難な映画や解りやすい映画を選びすぎているきらいがあり、まあ要するに「それって大人の事情で選んだベストテンでしょ」みたいな感じがして嫌なのだ。

 なので、ここでは私が独断と偏見に満ちた視点より全ジャンルの映画から10個を選ぶ事にした。ややマニアックかもしれないが、それ故に「見た人が面白いとおもうかどうかは解らないが、一度は見る意義があるだろう」というような、それぞれの意義やインパクトによって選ぶ事にする。また、ほとんどの人が見ているだろうと思われるようなメジャーすぎる映画はあえて除外した。

<ベスト10:年代順で優先度とかはない>
・「華氏451」1966年、監督:フランソワ・トリュフォー、SF映画
 レイ・ブラッドベリ原作のSF映画。本を読む事が禁じられた超管理者会をテーマにしたもの。古いSFなので映像技術などは現在と比べられないが、見てると不思議に引き込まれる。逆にCGなくてもこれだけ面白いSF創れるという意味で一回は見て欲しい映画。

・「ドリトル先生不思議な旅」1967年、主演:レックス・ハリソン、ミュージカル・コメディ映画
 動物の言葉を理解できる医者(ドリトル先生)をテーマにしたコメディ。とりあげた理由は、コメディなのだけども、とても上品で優雅でクールなんですね。こんなクールなコメディが日本でも創れたらいいのにとおもうけど、永久に無理かもしれないな。長い、けど面白い。ああ、こういう笑いもあるのだという意味で押し。

・「モンティ・パイソン・アンド・ナウ」1971年、コメディ映画
 有名なイギリスコメディのシリーズ。全部が全部支持できないのだが、不思議ともう一度みたくなる。個人的にはテレビ版の方がすきだけど、映画版として一つあげておく。私が好きだったのは「第127回 上流階級アホ決定戦 」で、これだけでももう一回見たい。

・「エル・トポ」1971年、監督:アレハンドロ・ホドロフスキー、ジャンル説明不可
 カルトムービーとしては超有名。グロ注意なので、苦手な人は無理かもしれない。だがここに挙げたのはグロいからではなく、この映画はそれだけでは説明できない、何か哲学的というか深淵さというものがあって、ゆえに見て欲しいという気がする。ただし前もって言っておくと、強烈すぎて1回見ただけでは何がなんだか解らない。私も二回みて、ようやく中身を落ち着いて理解できたような映画です。

・「ストーカー」1979年、監督:アンドレイ・タルコフスキー、あえて言えばSF映画
 映像美で有名なタルコフスキー監督、他にも色々あるけどこの人の作品は物語として理解しにくい。だがこの話は好きです。でも一般にはあんまり理解しやすくもないと思うので、あんまり細かいストーリーとか考えずに無心で見てもらえれば良いと思います。

・「ウォリアーズ」1979年、監督:ウォルター・ヒル、バイオレンス映画
 この映画は独特で子どもの時に一回みて頭に焼き付いた。大人になってから見直したが、やっぱり面白い。古い作品だが、まったく時代を感じさせない、バイオレンスなのにどことなく美しさすら感じるという、これぞ名画の魔力。

・「ガンダーラ」1987年、監督:ルネ・ラルー、アニメ、SF映画
 ルネ・ラルーは独特のデザインで有名なフランス映画監督。この映像は強烈。グロいというのとも違うが、従来の常識を打ち破るような凄さ。個人的には最も凄かったのは「ファンタスティック・プラネット」の方だけど、「ガンダーラ」の方が一般には理解しやすいとおもってこっちを挙げました。アート系に興味のある人は、ぜひとも一度は見ておいて欲しい。 

・「JM」1995年、主演:キアヌ・リーブス、SFサイバーパンク映画
 これはSFアクション映画の傑作。ストーリーも映像も文句なし。娯楽映画としても十分に楽しめるので、見た事無い人にはお勧め。

・「イノセンス」 (INNOCENCE) 攻殻機動隊 2004年、アニメ、監督:押井守
 これは全体的に結構暗い雰囲気の映画なのだけども、不思議に魅入られるようになんども繰り返しみた映画。なかでもセリフが良くて、名言となるようなセリフや引用が多く含まれている。

 上記まで、あえてマニアックっぽい(あんまりメジャーじゃないかもしれない)映画を10個あげてみました。それぞれ、かなりインパクトの強い映画なので、年末年始のTVがつまらないときに見てみることをお勧めします。ただし難点は、マニアックっぽいので近所のTUTAYAには半分も置いてないかもしれません。

 以上、あえてマニアックな映画紹介でした。

<余談:メジャー映画のお勧め>
 元気がでるようなコメディならば、これがお勧め。 
・「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」1998年、主演:ロビン・ウィリアムス  
・「クロコダイル・ダンディー」1986年、主演:ポール・ホーガン

 王道としての娯楽映画、イーストウッドファンならばこれがお勧め。
・「ペイルライダー」1985年、主演:クリント・イーストウッド
・「ハートブレイク・リッジ」1986年、主演:クリント・イーストウッド

 社会派として見るならば、最近のアメリカでの黒人少年射殺事件を背景にしても、この映画を見ても良いかも。ジーンハックマン好きだけど、なかでもこれがお勧め。
「ミシシッピー・バーニング」1988年、主演:ジーン・ハックマン

2014年12月6日土曜日

2014年総選挙という重要な選択

 ネットで「総選挙の争点は安倍首相の存在そのものだ」というのを読んだ。これはまさに上手い言い方で、私もそれを使わせてもらおうと思う。正直言って私はこの選挙の結果については悲観的だが、それでもこの選挙はとても重要なもので、おそらくは今後の日本の将来に対して大きな影響を与えると思われるので、記録として自分の考えを書いておこうと思う。

 ちなみに、選挙の争点は「アベノミクス」だと言っているが、これは安倍総理が勝手に言っているだけで、何が争点なのかは本来は国民が決めるものだ。そして安倍総理が行っていた、あるいはこれから行おうとしている政策は、ただの経済政策には留まらない、むしろ日本のスタンスやあり方そのものが問われるような物が多い。ゆえに争点は「安倍総理」そのものと言うべきなのは当然の事である。決して「景気」だけの問題ではない事を、多くの人が認識する必要がある。


<安倍総理の行った/行うとしてきた政策について>
 アベノミクスも含めて思いつく安倍総理の実施したまたは出来なかった政策を、私的に重要だと思うものからあげると次のようになる。私的な見解としては、以下のどれもが迷惑な話で、今後日本を数十年にかけて足かせをかけて立ち直れなくするような物ばかりだと思っている。
(安倍政権のまずさは、現在のまずさではなく、将来にずっと足を引っ張るようなまずい政策を次々と実施しているという点だ)

1.秘密保護法、メディアの報道規制的な行為
 民主主義からの大きな後退、今後はますまずロクでもない政策がしやすくなるだろう。

2.集団的自衛権
 アメリカ追従で世界紛争地帯への割り込み。日本の平和ブランドイメージの破壊+国内をテロにさらす危険を生む。

3.TPP交渉
 国家主権を放棄してグローバル企業に権限を譲渡する行為。当然国民としてのメリットはないし、近い将来は国民を守ってくれるものは何もなくなるだろう。

4.原発再稼働
 事故がおきても責任もたない事を見込んでの再稼働。事故がおこれば次こそは国家的に壊滅しかねないのだが・・・。

5.リニアモーターカー計画の施行
 そもそも新幹線の数倍エネルギーを消費するリニアなどは、経済的な合理性がまったくない。膨大な環境破壊の末に、巨額の負債をだして税金で埋め合わせするのが目に見えている計画。

6.アベノミクスなどの経済政策
 円安政策、消費税増税など。政権を維持する為に、既得権益組織に全てに対する超バラマキ政策である。モルヒネを打って快感に浸るような政策だが、その反動で数年たてばおそらくは大苦境に陥るのは目に見えている。

7.オリンピック招致
 そもそも経済ガタガタで原発などの不安要因がある中での実施は意味がない。これもバラマキの一環なのかもしれないが、正直言って何がしたかったのか分からない。オリンピック工事の為に、むしろ東北の復興が遅れるという事実もあるようだし、将来的に大きな負債になりえるはなし。最近の情勢からすると、2020年を迎える前に国家破産しかねず、弱った国家にダメ押し的な一撃を与えるような政策。


 私は正直言って安倍政権が何を目指しているのか分からない。むしろ某国のスパイで、効率よく国家を解体していると考えた方がすべての行動につじつまがあうと思えるぐらいに、行動に一貫性がなく、また国益に繋がらない政策ばかりを実施している。過去にもろもろとブログで書いてきたけど、正直言って批判する事すらもう疲れた。

 だが次の選挙は、それゆえに重要な選択となる。できれば自公での過半数は割って欲しい、それすらダメならばせめて安倍総理には退陣をしてほしい。だから、みなさん頑張って選挙にいってなるだけ自公を落とすように投票をしてください。


<参考リンク>
総選挙の争点は安倍首相の存在そのものだ

2014年10月26日日曜日

知性が信頼されない時代

 最近教育関係について2つの気になるトピックがあった。1つめは「国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革“」という記事で、どうやら安倍政権は大学から文学部を廃止してもっと企業ニーズにあった人材カリキュラムに見直そうと考えているらしいという話。そして2つめは「吉村哲彦の高齢者蔑視と生涯学習蔑視」で、年を取った人間の学習など無意味であるという大学教授のコメントである。

 私は、そのニュースをみた瞬間に何かが「カチン」ときて、ぜひ反論を書こうと考えていたが、少しまえに「生涯学習の公共的意義について/人類応援ブログ」にてこれ以上ないぐらいの完璧な反論が書かれていたのでこの点についてのコメントを止める事にした。代わりにちょっと違う視点で関連する話題を書いてみようと思う。

 テーマは「知性が信頼されなくなったという現象」についてである。

 「知性が信頼されなくなった」とはどういうことか、これは最初にあげた2つのトピックを次のように読み解いた場合に見えてくることである。安倍総理の場合は、おそらく「文系的な知識や教養的なもの」は金を稼ぐには役に立たない、よって不要だと考えたのだろうし、吉村教授の場合は、「なんらかの功績を残せないような知的活動」は価値がないと考えたのだろう。

 これはパッと見はもっともらしく聞こえる意見である。だが、非常に短絡的な意見であり大きな誤解をまねている。そもそも上記の二人がさしている知性はあまりにも限られた狭い話だけをしている。そもそもこの世には何の意味があるか解らない物が沢山あって、実はそれらの中にとんでもなく重要な事柄が秘められている可能性をまったく考慮できていない。

 分かり易い例を言うと、この世の優れた発明は大発見、ひいてはそれを行った天才達というのは、大抵は最初は認められなかった。理解されずに馬鹿にされたものだ。アインシュタインいわく「一見して馬鹿げていないアイデアは見込みがない」というぐらいである。よってもしも安倍総理が言うような改革を行ったとしたら、よりいっそう日本からはイノベーションが起こりにくくなるだろう。

 それに、そもそも教育というのは結果が出るのに非常に時間がかかる。10年、20年、あるいは数十年後になってようやく結果が出るようなことだってあるだろう。そんな分野の話を、目先の都合で選ぼうというのはまさに馬鹿げた話である。

 これらはどちらかと言えば「知性が何かを解ってない」という問題と言えるだろう。



 ではテーマの「知性が信頼されない時代」とは何かと言うと、最近の大学事情や就活事情の話を目にするたびに思っていたことなのだが、以下のような話をよく耳にする。
<就活事情について>
・就活に忙しくて大学で学んでいる時間があまりない
・大学での研究内容などはあまり聞かれない
・普通は答えられないと解っているトンデモ質問があった

 こういう話を聞いて思ったのは、ようするに「採用側(企業)では大学での教育(知性)というのをハナッから信用してない」ということである。なのに、採用に○○大卒とかを基準に選んでいるとは非常に矛盾である。そして採用側がこんなんだから、学生側も学問に対して価値を見いだせてなく、取りやすいものやウケのいい教科だけを選ぶようになる。この為にまさに知性に対する劣化の繰り返しをしているのだろう。

 こういった話を聞くたびに非常に馬鹿げていて無駄な話だと思う。ならばそもそも大学卒業などは最初っから意味がない。必要なのは大学に入ったというポテンシャルのみ。だったら、いっそ次のようにすればお互いに面倒が無くて良いのではないかと思う。

<大学及び採用ルール見直し案>
1)大学に合格したら、大学側は受験者に大学合格証書を渡す。
2)採用側は、大学合格証書を基準に採用する。

 このようにすれば、学生はそもそも信頼されていない大学教育を受ける手間がはぶける。採用側は今よりも若い人材を採用できる。そして、本当の意味で学問したい人間だけが大学で学べば良い。


 だが根本的な問題を言えば、もっと多くの人は「知性」が何かを理解するべきだし、そして「知性」に敬意を払うべきだ。だが私はこれをアカデミックなものに対して言っているわけではない。そもそも本質的な「知性=教養」というものは必ずしも大学で学ぶものでもない。

 例えば、近所に八百屋の親父がいたとする。この親父は八百屋で単に仕入れた野菜をうるだけの行為に疑問を抱いて、野菜の製造過程に着目して考えるようになった、そうしているうちにさらに疑問が湧いてきて近代化する前の農業の手法や思想およびその文化的な意義は何だったのかといった事まで考えるようになった。
 こういったものが本来の「知性=教養」である。学校へ行くか行かないかは問題ない。年齢も場所も職業なども関係ない。ただ一つ重要なのは「自分の頭で考えて答えを出す事」である。

 逆に言えば、自分の頭で考えてない人間はどれだけ知識量があったところでさほど役には立たない。そんな人間は何万人いたところで、おそらく大した意味はない。

 そして、最初に何故に安倍総理のニュースにカチンときたかと言うと、

「おまえ、絶対に自分の頭で物事考えたことないだろう」と言いたくなるからである。

 同時に、こういった馬鹿な意見を放置する、さらにはこういった考えを吹き込む人達がこの国の上層を占めているという事実を想像すると、もはや絶望しか無いような気がしてくる・・・。


<参考リンク>
国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革“

吉村哲彦の高齢者蔑視と生涯学習蔑視

生涯学習の公共的意義について

2014年10月17日金曜日

エボラ出血熱はどれだけヤバイのか

 先日、アメリカの看護師がエボラ出血熱に感染したニュースがあり、これを受けたかのように国連での緊急事態ニュースが流れた。ようやくエボラ出血熱という病気のやばさが、全世界にリアルに伝わりだしたように感じる。でも、なんとなくではあるが日本(政府関係)では、まだ緊張感があまり感じられてないようにも感じる。そこで今回は、私的レベルなのだけども、解っている状況を整理して「いったいエボラ出血熱はどれだけヤバイのか」というのをまとめてみようと思う。


1.なぜにエボラはヤバイのか

 ちなみに「なんでエボラはヤバイ」と私自身が思っていたかというと、1990年代にエボラ出血熱がアフリカで小流行したことがあり、もともと科学マニアの気がある私はネットで調べたり、本「ホット・ゾーン/リチャード・プレストン」や、映画「アウトブレイク/ダスティン・ホフマン主演」を見たことがあるからだ。

 当時エボラ出血熱が注目されたのは感染力の強さと致死率の高さだった。なにしろ感染した場合の死亡率は90%以上でかつ病人を治療した医師がバタバタ死んでいったことから、これはヤバイ病気だということでアメリカでは本格的に研究が行われた。そして調査の主役だった「アメリカ疾病予防管理センター(CDC)」の実話を描いたのが書籍「ホット・ゾーン」である。

 ただし結果としてこの時からエボラは定期的に小流行はしたものの、現在のような大流行は起こらなかった。それは何故かと言うと、当時のエボラは潜伏期間が短く(たしか3日前後)でかつ死亡率が90%以上なので、流行する前にすぐ全員が死んでしまうから、という理由だ。決してたいしたことない病気だからというわけではなく、逆に凶悪すぎた為にかえって広まらなかったのである。

 では2014年度の大流行はどうして起きたのかというと、2014年に流行したエボラ出血熱は2つのタイプ<従来型(致死率90%だが潜伏期が短い)、新型(致死率60%だが潜伏期が長い)>があって、新型のエボラ出血熱が大流行したのである。大流行した最大の原因は、新型エボラは潜伏期が長い為にすぐに発病せずに多くの感染者(患者)に広まってしまった事によるものだ。

 なお大流行の原因について少し補足しておくと、私は前からエボラ関係のニュースを耳にするたびに、どうも世間はエボラ出血熱を舐めすぎているような違和感を抱いていた。それが、そもそも大流行の原因についての解釈の違いに現れていると思う。
 私はちょっとマニアなので、新型出現により現地で医者がバタバタ倒れているという状況を聞いてすぐにヤバイと思っていたが、ニュースやネットなどでもろもろと伝わるポイントは次のようにちょっとずれた話を多く見かけた。

<大流行の原因とよく目にしたもの>
 1)初動に失敗した。病人が医者にかからずに、近所の呪術師的な民間医療に頼った。
 2)アフリカ現地の衛生環境、医師の未熟さ。
 3)死体を土葬するとかの現地の習慣によるもの。

 まあ、上記も一因としてあったのは確かだが、私的にはこれらは微々たるもので、やはり最大の原因は潜伏期の長さと下がった死亡率だと思う。潜伏期が長いということは、それだけ人知れずに病気が感染する確率が何倍にも増大するし、死亡率が下がったことはつまり患者がすぐに死なないのでより長い治療期間が発生してさらに感染者を増やす事につながるからだ。

 ちなみに、上記1)~3)についてだが、私がこれらを誤差の範囲とみなす理由は、もしもエボラ出血熱が日本で発生したとしたら、きっとアフリカと大差ない状況で到底大流行を止められないと想像するからだ。むしろ人口密度が高くて人や物の流通が激しい日本では、アフリカ以上の速度で流行すると考える方が妥当だろう。ゆえに私は、ずっとエボラはヤバイと思っていたし、どうもメディアの論調は事態を舐めすぎているような気がしていた。


2.エボラについて解っていること

 これは2014年度の大流行にて、私がずっと不満に思っている事なのだが、驚くほど実はエボラについて良く分かっていない状況が今はあると思っている。これは日本のマスコミがサボっているのか、あるいはパニックを抑えるために伏せているのか解らないが、少なくとも日本のメディアを見る限りでは重要な事が結局は何もわかっていない。(というか、報じられてない気がする) たんに私が知らないだけの可能性もあるが、重大な事なのでもっと周知されるべき事案だと思し、現状は次のようなまさにグダグダな状態だと思う。

<本来エボラについて知りたかった事>
1)感染方法やルート
 「接触感染)発症患者の体液や糞尿など。マスコミでは一般的には感染力は低いと伝えられている・・・」
 しかし、実際にアメリカの伝染病対策のプロが感染したケースが多数あることから、感染力低いという言い方はオカシイだろうとここはツッコミを入れたい。さらにアメリカの感染での例から、空気感染が起こっている疑いや、盲点になっているケースがあると思われる。よって、感染方法についても現状ではよく解っていない点があるというのが正確なところだろう。

2)予防手段
 例えばマスク着用の効果や、手洗いの効果など。予防手段があるのかないのかも伝わってない。まじめに考えたら、物品の移動(輸出入)を含めて感染する可能性があるのかどうかとか、食品に含まれる可能性や加熱効果の有無とか、なんら役に立ちそうな情報が欲しいのだけど、どうもメディアには出てない。(仮に役に立たないなら、立たないと明記して欲しい)

3)治療方法
 現在色々なワクチンが試されているようだが、まだ確実に効果が得られると証明できてるには時間がかかるだろう。仮にできたとしても、インフルエンザ並に大量生産する事が可能かなど、課題は多いだろう。だから、いつ治療できる状態になるかが、そもそも不明な状況にある。

4)日本で感染した場合の手順
 まったく見たことないけど、そろそろ必要だろう。

5)日本政府の対応状況
 いまのところ、対策らしい動きは聞いた事がないのだけど、特に国内で発生した場合の対策がない。言っておくが医者が死ぬような危険な病気なので、病人が普通に病院に行くことすら危険である。だが、これらはまったく考慮されていないようだ。

 とまあ、こんな具合で、ちょっとまとめると、いかにエボラについてよく解ってないかがよく解った。

<補足:エボラ出血熱はレベル4>
 エボラ出血熱はアメリカの格付けでは最も厳しいというレベル4に相当する。ちなみにこの格付に対応するレベルは1~4まであって、それに応じて管理できる病院や施設が異なる。
・レベル1~2)危険ではない病気や微生物の研究
 対処が解っているインフルエンザとかもこれにあたる
・レベル3)危険な病気だが治療法がある
 狂犬病など
・レベル4)危険な病気で治療法が確率されてない
 エボラ・天然痘など

 そして日本では上記のレベル4設備は2か所しかなく、しかも危険だということでレベル3でしか稼働していない。つまりは実際に扱える病院や研究機関がそもそも日本には無いのである。実際のところ、医師だって伝染しかねない病気なので、エボラ患者を入院させるとなると、実際にはエボラ専用の病院を用意しないとしょうがないだろう。だから、アフリカだから危なくて日本ならセーフという理論は成り立たない。むしろ人口密度が高い日本の方が不利に作用しかねない。


3.今後はどうなるのか・・・

 ここまで書いてなんなのだけども、正直言って私にも良く解らない。上記までで書いたようにエボラについては良く分かってない事が多く、「神のみが知る」という域だ。危険にさらされているのはアフリカだけではなく、世界中である。例えばアフリカは近年は中国からの出稼ぎが多いので、中国に持ち込まれる可能性も高い。もしそうなれば、すぐにアジアにも広がるだろう。そして「もしも日本の都市部で感染者が現れたら」感染爆発を防ぎようがないかもしれない。

 こんなことを書いていると、昔からある例え話を思い出した。

「とある池があって、そこに生えた蓮の葉が一日で倍に増える。そして29日目で蓮の葉は池の半分を満たした。池のすべてを覆うのはいつになるだろうか?」

 答えは翌日の30日である。計算すればあたりまえの事だが、でも現実でおこればおそらく普通の人間は29日目はまだ残り半分あるから大丈夫だと思うだろう。エボラの怖さはここにあって、現在のグローバル化した世界ではエボラ出血熱は中世時代のペストに匹敵するぐらいの脅威かもしれない。

 しかしそれでもまだ運があって防ぐチャンスは残っているとも思う。なぜなら私はずっとニュースを見ながら「夏の暑い時期にエボラが日本の都市圏で発生する」のが一番最悪のシナリオで、それが起きたらもう終わりだと思っていたからだ。
 エボラの感染経路はまだよくわかってない部分があって、仮に満員電車で薄着に汗とかいうシチュエーションがあったら、どれだけ急激に感染するか分かったものではない。だから、夏を乗り越えたのは非常にラッキーだと思う。このままアフリカでなんとか抑え込めて、冬の間に先進国での拡大を防げたら、なんとかなるかもしれない。

 そんな中で心配なのは、日本政府がなんとなく頼りない気がするからだ。原発事故の例などもあるが、日本は前例の無い事態には滅法弱い。さらには今の安倍政権は集団自衛権と消費税以外は頭になくて、このエボラという問題を軽んじているのではないかという懸念がある。
 どうしてそう思うかと言うと、いまだに国内で防護服の準備だの、危機マニュアルを作って公開する動きといったものを聞いた事がないからだ。ちょっと前までテレビで専門家が「日本では感染拡大はおきません」とか言っていたいたように、政治家もテレビ見ながら「なんだ先進国では大丈夫なのか・・・」とか思ってそうで怖い。
(補足:ちなみに阪神・淡路大震災の時は、政治家はテレビで被害状況を知って大事態に気が付いたという笑えないエピソードがある)

 何度も言うがエボラは超危険である。兵器で言うと核なみに危険な「B(バイオ)兵器」に相当するウィルスが世界中で拡散しつつあるという事を軽く見てはならない。だから、そろそろ日本でも身近な問題だと危機感をもって取り組んでもらいたい。

<余談>
 「なんでこんな超危険でずっと昔から知られていた病気にワクチンが無かったのだろうか?」 理由は開発が難しかったからということではなく、作っても儲からないと思われていたからだ。いままでは発生しても数十人程度であり、またお金の無いアフリカだという地域事情もあり、危険な病気と分かってながらワクチンは開発されなかった。
 これは新自由主義社会の弱点がまさに露見した事態であり、経済優先に目がくらんだおかげで文明レベルの厄災を呼び込んだといえる。まさにグローバル化により市場原理に最適化しすぎた結果がこの顛末とは・・・。

<参考リンク>
エボラ出血熱 医療機関での感染防止が課題

2014年の西アフリカエボラ出血熱流行

バイオセーフティーレベル
 
Ebola infections outpacing health authorities’ efforts: UN official

2014年10月12日日曜日

イスラム国というアラブの大変革

 あなたは「イスラム国」と聞いて何を思い浮かべるか?

 私は正直に言うと、ちょっと前までは「北斗の拳」や「マッドマックス」を連想してた。つまりはシリア・イラクという国情が不安定な場所にはびこった、力を唯一のモットーとした暴力的な組織で、頭がモヒカンの代わりにターバン巻いて「ヒャッハー!!」とか言っているような人達だと思ってたのだ。

 だが同時に、ちょっと不思議だとも思っていた。もしも本当に「北斗の拳」的な世界ならば、どうして世界の各地からイスラム国を支援しようとする人が集まるのか、また急速に成長した背景となる現地の人たちからどうやって支持を取り付けられるたのかという事実に説明がつけられないからだ。(単純にモヒカンでヒャッハー的なだけなら、こんな支持が得られるわけないので)

 そんな疑問を感じていた時に、ちょうどビデオニュースや書籍で「中田考」(イスラム研究者であり、かつ自身もイスラム教徒)の話を見たり読んだりしたことで、考えが180度、もしくは一周して560度ぐらい変わってしまった。そこで、今回はイスラム国ひいてはイスラムとは何なのか、というテーマについて、現在把握している限りで書いてみる事にする。


1.「イスラム国=北斗の拳」的なイメージ
 イメージとして北斗の拳を思い浮かべた、直近の理由は最近あったジャーナリストの首を切った映像による事件である。これだけ聞くと、どうしても残虐で野蛮な連中だと思ってしまう。だが実は首を切るという行為はイスラム教での正式な判決実行方法であり、別に実行者が殺人狂的だったり、血を好んでいるというわけではないらしい。
 まあ、それでも首を切るのは我々的にはショッキングで理解しがたく思うのだが、アラブの遊牧民的な世界では日常的に羊の首を落としたりするところなので、現地的にはあまり特殊な行為ではないそうだ。ちなみに、他の事例ではイスラム国の司令官が犯罪者を銃殺したところ、「なんでイスラム法規に従って首を切らないのか」というクレームが市民からあって、司令官が謝罪したケースがあるらしい。だからこれは無法で無秩序な行動というわけではないのである。

 しかし、そうは言っても首を落とすなんて(たとえ羊だとしても)という人もいるだろう。そこで、ちょっと考えて欲しい。例えば、日本だと普通に「マグロの解体ショー」とかあって、観光したりその場で解体したマグロを食べたりもする。でも、例えばこれが「牛の解体ショー」で、松坂牛をリアルに解体してその場で肉食べるとかというショーだったら参加はありえないでしょ。本当はマグロの解体ショーだって特殊な文化的な背景がないと説明できないようなものなのだから、アラブの文化的な背景が違うことは頭におかないといけない。だから彼らを血に飢えた連中とただちに考えてしまうと、本来の話が見えなくなる。

 あと補足すると、そもそもシリア・イラクあたりは現政権の残虐行為が日常的であり、それに慣らされているという事情もあり、処刑されたジャーナリストというのは、スパイとして処刑されたという事でなので、実際にどちらの言い分が正しいのかは解らない。言えるのは、別に理由なく見せしめに殺されたというようなわけではないということだ。


2.イスラム教徒は狂信的なのか
 この点を私はずっと誤解していた。長い間、イスラム教というのは、もの凄く厳しくて過酷な戒律に縛られた宗教だと思い込んでいた。だが「中田考」や「内藤正典」などによる、イスラム教やアラブ的な考え方を聞くと、ぎゃくに凄く寛容な宗教だと知って驚いた。

 例えば有名な断食があるが、断食の期間は夜明け前から夜までは食事をとらないという戒律がある。これだけ聞くと厳しそうだが、このルールには補足があって、病人とか妊婦とかは無理に断食しなくて良いこととなっている。そしてよるになると、お祭りのように全員で食事を楽しむのだが、しかもこの時には飲食店もただでお客に食事を振舞う事になっているそうで、乞食などもこの時には一緒に腹いっぱい食べて楽しむのだそうである。
 似たようなエピソードは多いが、ポイントなるのは、イスラムの戒律っていうのは厳しいルールがあるようだが、逆に人間はそんなにシビアに戒律守れないだろうというのが前提とあって、無理しない範囲でやれよ的な補助ルールがあるということ。それと、これは遊牧民的な世界観からくると思われるが、相互扶助が基本とあって、困った人を助けなさいという思想がかなりいきわたっていることだ。

 もう一つ印象的なエピソードをあげると、イスラムでは夫が妻に3回出ていけというと離婚が成立する事になっている。だから時々夫婦げんかで3回出ていけと言われたと、妻が律法学者(まあ和尚的な人)に相談にくる事があるそうだ。すると律法学者が夫も連れてきて話を聞き、夫に本当に離婚するのかと尋ねると、たいていは「勢いで言っただけでそんなつもりない」というそうである。すると律法学者が、お前たちはルールを破ったので代わりに、貧しい人に50食施しを与えないと指導したそうである。
 面白いのは、夫に罰を与えるのではなく、周りの他者の施しをして償いをせよという発想である。どうも似たような考えやエピソードは多いらしく、イスラム的には罰を与えるよりは、他の者に役に立って返せとかいう事がおおく、これはキリスト教的な発想とはまったく相容れない。
 しかし、とてもユニークだし、むしろ良い習慣だという気がする。このように本来のイスラム教とは慈悲や相互扶助がベースになった教義や思想だと言える。


 上記に挙げたように、知れば知るほど、逆にイスラム教の発想というのは面白くて、私的には目からウロコの事ばかりだ。とても関心がわいてきて、現在はイスラムに関する本や資料をもっと見てみようと思っている。「酒と豚肉が禁止でなければ、イスラム教になってもいいかな」と思えるぐらいに、面白い。


 では、そういった私的には色々な誤解が解け、あらたに見た現在のイスラム国とアラブ世界についてを考えてみると、まったく今までと異なった様相に見えてくる。私はまだ知識不足なのだが、直感も踏まえてやや乱暴にまとめると、次のようなものだと考えている。

 イスラム教(イスラム圏)とは、アラブ語で書かれた1つのクルーアン(コーラン、聖書的な物)をベースに生活している人なので、住んでいる場所や人種が違えど共通的な世界観をもった人たちであり、これが15億人ほどいるということである。これは、実は凄い事で、例えば日本とタイでは同じ仏教でも一緒に拝んだりすることはできないのだが、イスラムだと同じ言葉とおなじ言語なのでどこでもいっしょに拝んだりできるのである。つまりは、人種が違っても同じ世界観を共有する巨大なグループが存在するという事である。

 そして現在のアラブの混迷というのは、第一次~二次大戦を経て西洋によって乱暴に分割(分断)された人たちが住まう歪な世界の矛盾が元となっている。つまりは、もともとは遊牧民的な人たちで明確に国境とかなかったのが、西洋がむりやりイラン、イラク、シリア等の国境を作って、強引に西洋的な傀儡政権を作ったのが原因である。その最たるものがイスラエルである。そういった歪の中で、やがて西洋化する前の世界観(イスラム原理主義に忠実)でアラブを再構築しようというのが、現在のイスラム国という運動なのである。

 だが現在の西側メディアでは、イスラム国はテロリストの集団であり、野蛮でどうしようもない連中だという事になっている。(なんせ、シリアのアサド政権より悪い事になっているぐらいだからね) そしてアメリカは、彼らを葬る事が世界の正義だと宣言している。

 しかし偏見を捨てて視点を変えると、イスラム国で揺れるアラブの世界はあたかも「ベルリンの壁崩壊前のドイツのようであり」または「フランス革命まえのフランス」のようだとも言えるのではないかと私は思っている。つまりは、西側が作り上げた植民地政策からの最終的な解放闘争だと言えるのではないだろうか。さらには、これは世界を覆うとしているグローバル化へのもっとも強力な反撃となるだろう。(反グローバル化の希望と言えるかもしれない)もちろん、事はそう単純には言い切れないだろう。しかし西側の正義を鵜呑みにしてはいけない。


 最後の現状から推測する今後のポイントについて書いておく。

 私は心情的にはイスラム国成立を支持する方向に傾いている。理想的には、シリア・イラクの政権が倒れ(できれば極力平和的に)、そしてサウジやエジプトをも巻き込んだ、大きなイスラム共同体的なものが生まれるのが、過去の歴史や現在の世界の歪みを正した理想的な状況だと思っている。

 だが、そうなるには大きなハードルがいくつもある。1つはイスラエルの存在、2つめはアメリカ(西洋文化圏)との争いである。だが、私はそれよりももっとも大きな課題はイスラムが真に一つになるには「シーア派」「スンニ派」などの各派が一つになる事だと思う。それができずに、シーア派を異教徒扱いで殲滅しようとすれば、やがてはイスラム国という運動そのものも幻として終わるだろう。だから各派の統一というテーマが真にイスラム教の寛容さ(度量)を試される事になると思う。

 ちなみに、今の日本は安倍政権がアメリカに追従して、アラブまで派兵しそうな勢いだか話がややこしい。日本のアラブ参戦は道義的な妥当性はないし、戦争がすんなり済む可能性もないし、テロでお互いにメチャクチャになる可能性もあるし、考えられる最悪のシナリオである。
(別にこじつけるつもりは無いのだが、あらゆる方面にて安倍政権というリスクにぶつかる。どうにかならんのかな・・・ほんとに)


<参考リンク>
『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』/内田樹&中田考

イスラーム国の論理とそれを欧米が容認できない理由

同志社大学 講義「良心学」第11回「向こう岸から良心を考える──イスラーム世界の良心、西欧世界の良心」(内藤正典)

同志社大学 講義「良心学」第12回「向こう岸から良心を考える──イスラーム世界の良心、西欧世界の良心(2)」(内藤正典)

2014年9月27日土曜日

上限モデルと下限モデルの考え方

 最近読んだ「街場の共同体論/内田樹」の5章「学校教育の限界」を読んで、ふと思った事をここにまとめておく。この章は短いので、もしも書店で目についたらぱっと読んで貰えば良いのだが、今から書くことの為に私がポイントと思った事を抜粋すると、次のような話が書かれている。

<超抜粋「街場の共同体論/内田樹」>
 ※これは私が読み取った乱暴な意訳なので、解釈ブレてたらすみません・・・。
 現在の社会的な問題の幾つかは学校教育による影響からきていて、その学校教育の問題の根幹にあるのは、育てる人間のモデルがいつからか変わってしまった事の影響が大きいとしていて、本書ではその違いを次のように指摘している。
 ・旧モデル)国家須要の人材の育成
 ・新モデル)自己利益の追求に専念する人間

 ここで言う旧モデルというのは「共同体(国や村とか)の公益の為に学校は存在するべき」という考え方で、つまりは私たちがより良く生活するには、良い教育を受けた人が多い方が良くて、それならば教育はみんなで協力してやりましょうというものである。

 だが現在は旧モデルの理念が忘れられて、新モデルのような結果になっているのだと本では指摘している。つまりは教育する側も受ける側も「良い学校を出て良い職について高収入になって・・・」というような自己利益の追求がメインになってしまったという事だ。
 そしてその理由は「飴とムチ」がもっとも有益だという人間観をベースに教育が行われているからだという。そして本ではその問題点として、そういった教育を行われた人間は「自己利益を最小努力で得る」という事に囚われる為に、結果として他人の不幸を願う、または足を引っ張るといった事をしたり、反知性主義といったマイナス行動を生むのだと指摘している。
 ようするに「まわりが馬鹿ばっかりだったら、自分も勉強できなくても進級できていいよね」とか「みんなが仕事できなかったら、私もできなくても問題にならないよね」とかという思考であったり、よくある「大学をどれだけ勉強せずに卒業したか自慢」などになるということだ。


 本では問題だと指摘されている「飴とムチ」(賞罰主義)というかようするにニンジンぶら下げて人を釣るというやり方はだが、でもこれは現在は至る処にあるやり方である。家庭でもそうだし、学校でもそう、会社でもそう、逆に言えば現在人はニンジンぶら下げる以外に「やる気を啓発する方法」というのを知らないかのようだ。だから、それしかないし、何が悪いという人もいるだろう。
 だがこれを問題だと指摘する人もやはりいるのである。ちょっと前に挙げたが「嫌われる勇気/岸見 一郎」の中でもアドラー心理学は賞罰主義を否定している。私もアドラーに同感であり否定する。

 「ニンジン貰えないと何もしないという人間」は到底モデルとして優れているわけではない。生き方としてもつまらないし、だからアドラーも否定するわけだが、社会モデルとして考えた場合にも問題がある。「新モデル)自己利益の追求に専念する人間」というのは、単独であれば良いかもしれないが、それが全員となればすぐに社会的に破たんをきたして問題となる。
 まえに「信頼の価値と、不審のコスト」で書いた事があるが、我々の社会的なコストの大半は相互不信によるものである。相互に信頼できないので、面倒なルールだの法律だの、警察だの、さらには兵器などが必要になる。もう少し高いレベルでの相互信頼があれば、我々はもっと効率的にいろいろな事をやって豊かに暮らす事も可能なはずである。
 これは言い換えると「ずるく立ち回る」というのは局所最適化した戦略(個人戦略)であるのだが、全体戦略として考えると全員がそうなった世界は鬱陶しくて耐えられないことになる。(まあ、細かくずるする人間は、信頼されないので最終的にあまり大きな益をあげられないで、局所最適の戦略としてもあまり出来は良くないとおもう・・・)


 この件について記事を書こうと思ったのは、私自身もソフトウェアエンジニアとしてどのようにモチベーションを保とうか、また部下であったりプロジェクトメンバーに対してどのようにモチベーションを保とうかと悩んだ経験があるからである。そして私が悩んだのは「ニンジン戦略」に納得がいかず、ノル事ができなかった為だ。

 ちなみに「ソフトウェアエンジニア」というのは、普通の仕事と比べてちょっと特殊であり、モチベーションの持ち方も少し異なるものだと思う。もしも私に「ソフトウェアエンジニアになりたいのだけど」という相談を受けたとしたら、私はまず次のように説明する事にしている。
「ソフトウェアエンジニアというの好きでないと割に合わない仕事だ。技術変化が速いので勤続年数で評価されず、常に勉強する事を要求される。同じぐらい勉強して金を稼ぐのならば、もっと楽な仕事があるとおもうよ」

 ソフト屋というのは割に合わないし、また部分的にはとても孤独な仕事となる場合もある。どうしても局所的な部分を担当するあまりに、担当箇所を他者と共有したりフォローできる体制がとるのが難しいケースが出来てしまって、自分以外は誰も解らない物を作っているという状況が、避けようとしてもある程度発生してしまう事があるからだ。
 この為に、結果として過度のプレッシャーと戦わないといけない場合もある。

 でも良いところもある。私が好きなのは、ソフトの世界は恐らくは他の世界に比べてとても実力主義で分かり易いからだ。下世話な言い方をすると「義理や人情ではコンピュータは動かないのですわ」的な事、肩書や地位などではソフトは動かせない、動かせるのは正しいロジックそのものだけである。これはある意味では厳しくもあるが、ある意味は変な精神論的なものが入り込む余地がなくて、明快でもある。
 また、ソフトを作成するという行為は「芸術作品を作っている」と同じような楽しみがある。もちろん作るものは予め決まっているし制約もあるが、制約のなかでいかにシンプルに優れた作品を作るかは腕の見せ所であり、納期に追いまくられることさえなければ、基本的には楽しい仕事である。(特にプログラミングだと、あっもう2,3時間たっちゃったな的な感じだ)

 上記のような諸々の思いがあって、結果的に私は次のように考える事でなんとか仕事のモチベーションを保とうとやってきていた。

<ソフトウェアエンジニアという仕事について>
・ソフトウェアの作成というのは一種の芸術である。
・あるいは、私は職人であり、作ればいいわけではなく内容や出来上がりにこだわる。
・こだわりがあるが故に楽しめるし、目標もあるし、誇りも得られる。

<開発プロジェクトについて>
・仕様や工期やお金でもめたりうまくいかず迷った場合は「プロジェクトの為に何が最適な行動か」を第一に考える。
 迷った時に自分や所属組織の利益だけを考えた行動や提案は誰の同意も得られず、結果としてはさらに問題を深める。故にそのような事態があった場合は「神の視点」(ユーザーの視点ではない)を想定し、提案を行う事。

 そう考えないと、やっぱり難しい局面があったりした場合になかなか乗り越えられなかった。また上司とかの安易なニンジンを信用できなかったので、心の中では「どうせ金だのポストだの的なものは、たいしたもの出せないでしょ」と思っていたので、それよりは面白い仕事を楽しくやらせてくれよと、いう事をメインにする事にしていた。そっちはあんまりお金がかからないので、ケチな人でもなんとか交渉しだいでは結構うまくやる事もできたからだ。
 でも結果論からすると、上記のような考え方をしていたせいで比較的に色んな仕事をする機会を得られて、わりと経験値をあげる機会を多く得られた方だと思う。だからこそ、なんだかんだと長く仕事も続けられている。


 ここでこの記事の表題のテーマである「上限モデル」「下限モデル」という話をまとめたいと思う。

1)下限モデルとは
 「街場の共同体論/内田樹」に述べられた新モデル、最低労力での最大の利益を目指したモデルである。分かり易い言い方をすると、赤点すれすれを狙う行動パターンである。

2)上限モデルとは
 私自身がイメージしていたモデルで、仕事上なのでコストの関係で上限を作らないといけないが、芸術家/職人気質を満足させる為に、なるだけ上限いっぱいを目指したいという事である。いわば実施可能な範囲の労力で最大品質を得る事を目指したモデルである。分かり易い言い方をすると、時間とかの制約はあるができるだけ満点を狙う行動パターンだ。

 私自身の行動は基本的に「上限モデル」であろうとしている。ぶっちゃけて言うと、どこかの時点で「下限モデル」的な思考にウンザリして止めてしまった。だからこそ言いたいのは「損か得かという事をうるさく言うが、損得だって多くある価値観の一つに過ぎない」という事である。損得を細々考えていると、どうもうまく楽しめない気がして「食うに困らない限りは楽しくやれる方がベストでいいんじゃない」という考えをするようになった。これは特におかしな考え方でもないし、またある意味ではとても合理的ですらある。

 逆に現在の病巣的なものがあるとすれば「多くの人が損得に縛られすぎ」というのがある。縛られたゆえのコントみたいな行動だって多い。例えば、次のような人がだいたいどこにでも一人はいるだろう。
・安売りにつられて、高い交通費払って買い物に行く人
・目先の損得につられて、所属するプロジェクト全体の成否を危うくしちゃう人
・コスト削減に収支して品質不良でビジネス全般の成果を悪化させた人・・・

 ようは損得(局所最適化)に縛られるあまり、全体最適化に失敗して結果として得してないじゃないという人達である。

 だが、このような事態は笑い話ですませたばかりもいられないもので、現在は同じ事が国家や文明単位で行われている時代である。これがグローバル化VS国民国家の文明対決的な問題へとつながるわけだが、きりがないので今日はここまでとします。

<参考>
・【TED日本語字幕まとめ】「インセンティブ制度は生産性を下げる」- ダニエル・ピンク:やる気に関する驚きの科学
http://u-note.me/note/47484826

・信頼の価値と、不審のコスト
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html

2014年9月25日木曜日

メディアリテラシーの鍛え方と「誤報埋め込み法」

 前にちょっと書いたのだが朝日新聞の誤報問題(慰安婦・吉田白書)だが、その後を見ていると読売新聞の朝日パッシング(という露骨な販売戦略)かがあって、それに対して「そもそも読売だって誤報だのねつ造だの多いじゃない」という突っ込みが各所から出る状況になり、現在は「そもそも日本の新聞って何なの?」的な話になりつつある。

 そんな時に久々に虚構新聞を見ていて、次のようなアイディアを思いついたので書いてみる。

<提案:誤報埋め込み法>
 「誤報埋め込み法」というのは造語だが、これはあえて新聞記事に一定の割合で誤報を埋め込む事により、読者のメディアリテラシーをチェックできるようにしたら面白いのではないかということだ。
 具体的には、新聞記事の大カテゴリ「政治、国際、社会等」ぐらいにくくりで、必ず1つは新聞側があえて誤報(間違い記事)を載せるようにし、そして末ページとかに解答確認用としてどの記事が誤報かを乗せるというものだ。
 こうすれば、読者は記事をよんで「これは誤報かも」と考えながら読むことで、楽しむと同時にメディアリテラシーも鍛えられるというものである。

 この提案を見て「そんなアホな」と一笑に付した人もいるかもしれないが、じつはこれはソフトウェアのテスト手法に古くからある「バグ埋め込み法」というものである。ソフトウェアの世界では品質をどう保つかが永遠のテーマであって、このバグ埋め込み法というのは、ソフトのテスト担当者が正しくテストできているかどうかを図るための手順である。

 事例)新規開発した通販サイトのテストの場合
  ・事前準備 >テスト対象の通販サイトにあらかじめバグ(問題)を10件仕込んでおく。
  ・テスト作業>普通に通販サイトのテストを行う、なお結果としては30件バグを発見した。
  ・テスト評価>発見したバグの内、事前に仕込んだバグ10件のうち、5件だけが見つかっていた。
    つまり、バグ30件とは、25件の新規バグ+5件の仕込みバグであり、
    仕込みバグは5件(半分)しか見つかっていない。
    ここから推測すると、全体のバグを発見できたと想定される確率は約50%であり、
    まだ30件ほど未知のバグがあるのではないかと考える。

 まあ、実際にバグ埋め込み法を利用したプロジェクトというのは聞いた事がない。そもそも、そんな適切なバグを埋め込むの結構高度な技術いるし、作業コストもかるから、普通はそのエネルギーをそのままテストに使えばいいんじゃないとなるからだ。(でも情報処理試験とかではいまだに出題されているようなのだが・・・)

 でも新聞であったら、読むほうも考えるし楽しみになるから、面白いという意味でやっても良いと思う。私は新聞を購読してないが、もしもこんな試みがあったら読んでもいいかな。そうなれば各自の新聞やメディアに対する考えも変わるだろう。メディアのいう事を鵜呑みにしないこと、そして誤報を見分ける嗅覚が少しでもつくかもしれない。
 ちなみに、過去に何かの記事で虚構新聞を本当の記事と間違えた人がクレームをつけた時に、たしか虚構新聞側が「虚構新聞の存在理由として間違いを見分けるリテラシーを鍛えるという意味があるのです・・・」(文面忘れたので意訳すると)といったコメントを見たことがあり、なかなか「グッと」きたことがある。


 なお、そもそものメディアとリテラシーに関する現在の大きな課題を挙げると、基本的には次のようなものだと思う。

<メディア側>
 ・そもそも真実報道する気がない。勝手に解釈している記事も多い。
 ・記者クラブなど、聞いた事を無批判に垂れ流しているような感じでレベルが低い。
  基本的に中身がない。
 ・報道しない自由だけが目につく、スポンサーとかに弱すぎ、全国紙はポリシーなさすぎ
 ・誤報は仕方ない場合もあるとして、基本的に訂正報道がない
 ・自分に都合悪い事は報道しない、もう少しは公益を考えて欲しいのだが・・・
 (消費税の軽減税率を新聞だけに要求するとか、少しは恥を知って欲しい)

<読者側>
 ・新聞ってわりといい加減なのに、妙に信じている人が多い
 ・情報ソースが新聞・テレビだけの人はまずい
 ・新聞取る人がもっと減っ手欲しい、ならば内容も少しはましになると思うが・・・

 もっと読む人の目が厳しくならないと、メディアは良くならないと思う。だから、ビジネスマンはなんとなく日経読むべきといったリテラシー無い人は、止めてほしい。日経って経団連の学級新聞ぐらいという認識でちょうど良いと思う。それぐらいシビアに読むか、止めて欲しいな。


<参考>
・虚構新聞を批判する人々は2パターンに分類できることがわかった【ユニセフ記事の魚拓あり】
 http://www.daisuiseishocker.com/entry/2013/11/22/184648

・「バグ埋め込み法」バグの数は予測できるのか? 発想は斬新だけど評判の悪い「池の中の魚」モデル
 http://monoist.atmarkit.co.jp/mn/articles/1211/22/news009.html

・日本報道検証機構 GoHoo
 http://gohoo.org/

2014年9月21日日曜日

葬儀の意義、さらにはパッと見に意味がなさそうなものについて

 少し前に祖母の法事に行った時に、あらためて「葬儀」というものは死んだ者のためではなく、残されたものの為にあるものだなと思った。私はあまり葬儀に立ち会うことが多くないので、こういった事を考える事もあまりないのだが、せっかくなので、そこで色々と考えた事を書いておこうとおもう。


 ちなみに、まず前提として私の宗教観やスタンスを述べると、私はクリスチャン(キリスト教カトリック)の家で育った元クリスチャンである。元というのは、現在はまったく教会に通うとか祈るとかはなく宗教的な活動を一切していないからだ。かといって無神論者というわけでもなく、宗教観を持ち合わせていないわけではない。

 じゃあ、どういった考えを持っているのかというと、私の考えは「神」とは本来は人々が「未知」に対して敬意を払う為につけた呼び名のようなものだと思っている。だからもう少し突っ込んで言えば、この世界の法則(物理といっていいのか分からないが)そういった諸々がいわば「神」だと考えていて、ひいては「擬人化された神」は存在しないと思っている。
 だから神はいないというよりも、神(法則)は存在し、宗教というのはその一面を見た人々があたかもそれをユダヤの神だのキリストだのイスラムだのとそれぞれに異なる名を付けたものと考えている。つまりは「群盲象を評す」(あたかも盲人が象のそれぞれの場所にふれて、それぞれ異なった説明を行う)ようなものだと考えている。

 なので、身もふたもない言い方をすると、宗教というものは人々が勝手に「神(未知/法則)」に対して名前を付けてつくりだしたものであり、所詮は人々がかってに言っているだけのものだと思っている。だから私は宗教そのものは信じてないが、しかし未知の物事に対する敬意を払うという意味では、神を否定はしていないという立場である。


 それで、結局は祖母の法事でどんな事をおもったかというと、私はずっと前から葬儀(仏式は特に)戒名だの初7日だの49日だのと、かってに坊主が作り出した良く解らないルールに従わされるのが面倒だし、ばかばかしいと思っていた。
 なぜかと言えば、葬儀の細々ルールというものがもろもろあるが、おおもとの開祖にあたるブッダとはまったく関係のないのがあきらかな事ばかりで、いかにも後世の人間が勝手に作ったのが見え見えだったからだ。まあ、これは仏教が悪いわけではなく、歴史ある宗教は全て似たようなものだと思う。仮にキリストが現在に登場したら、なんで勝手に面倒なルールだのなんだのを拵えて世界をややこしくしている事にあきれ返るだろう。
 なので、私はずっと長い間葬儀とかのもろもろシキタリというのが腹立たしかった。意味ないのもあるし、まったく本質的ではないので、まじめに宗教的に考えたらなおのことやる気がしなくなる代物だと思っていた。

 だが最近、実際に祖母の葬儀だの法事をやっているうちに、諸々の手続き(仏式)が、「亡くなった人のためではなく」「残された人々の為にある」と考えれば、優れて意義のあるものだと思うようになった。

 そもそも本質的に考えれば、死んだ人間に葬儀は必要ない。だが残された者には「儀式」は必要だ。親しかった人が亡くなった事を受け入れ、さらには亡くなったあとの生活を考えなければいけない。だが、それは時には難しい事なので、なかには亡くしたショックから中々立ち直れずに、一人孤立してしまう人もいるかもしれない。
 だが仏式の葬儀の場合、死後の処々のシキタリで縁者が亡くなってから7日、49日、一周忌、3周忌等の定期的に人があつまる。それは孤立しそうな人を勇気づけたり、支援したりするとても良い機会を提供している。それは、最初から狙って作ったのかどうか解らないが、ある意味でとても良い仕組みではないかと思う。

<補足>
・出典は忘れたが確かブッダのエピソードにて、次のようなものがあった。
 弟子がブッダに、バラモン教徒が葬儀で色々な祈りを唱える事の意義を質問した。するとブッダが「バラモンがいくら祈ったところで池に沈んだ石が水面に浮かぶことはない。死後の運命を決めるのは、あくまでも当人のカルマによる・・・」と答えたという。つまりは、ブッダはもともと葬儀で祈るような事をまったく念頭に置いてないし、それに対して宗教的な意義も認めてはいないのである。まあ、当たり前と言えば当たり前であり、これはオリジナルのキリスト自身の語録でも同様である。

・ただし、現存仏教の戒名を金で差をつけるようなやり方は、あまりにも金に汚い世俗的なルールで、さすがにこれは要らないだろうと思う。また7日、49日、一周忌、3周忌等のルールは、昔の親族が身近な場所に住んでいる事を暗黙の前提として想定しているルールのように思う。近代のように核家族で、あっちこっちに散らばって暮らしている世界では、おそらくはこの点を現状に合わせてカスタマイズする必要もあるのだと思う。


 こんな事を考えながら思ったのは、この世には一見すると無駄で意味が無いように見えるが、実は大きく意味があるようなものがけっこうあるという事だ。

 子供の時に聞いた話でとても印象に残っていて今でも思い出すのは、アメリカのプレーリードッグの事である。プレーリードッグはもともとアメリカ大陸にたくさん住んでいたネズミの仲間で、地面にモグラのような穴を作って住んでいた。だがある時からは害獣として多く殺された為に現在は限られた場所にしかいない。害獣とされた理由は、放牧しているときに牛や馬が時折、プレーリードッグが掘った穴に足を取られて骨折する事があったからだ。だが実際にプレーリードッグを駆除すると、それまでは牧草地として利用できていた草原が徐々に干からびる現象が起きて、かえって放牧のダメージになった。
 実はプレーリードッグが掘る穴や、彼らのふんなどは、地面を耕す役割を担っていて草原を支える役割をしていたのである。この為に、プレーリードッグを駆除した場所の中には砂漠化したところもあると聞く。

 また、こんな話もある。現在はクリーンな生活が進んで寄生虫に人が侵される事はほとんどなくなった。だが同時にクリーンな社会になってから新たに増えた病気もある、それがアトピー皮膚炎やアレルギー疾患である。一説にはこれらの原因は、寄生虫を駆除した事によるものであり、理由は寄生虫が持っていた固有のバクテリアなどが消失した事による影響だとも聞く。

 何も科学だけの世界ではなく、システム開発をしているうえではこういった話は日常茶飯事である。古いシステムを切り替えた際に、不要と思っていた仕組みが実は隠れた大きな意味を持っていた等々だ。似たような話はいくらでもあげられる。
 そして、こういった思考が「複雑な世界を、複雑なまま理解しようとする」試みなのだが、残念な事に世間にはほとんど浸透していないような気がする。


<参考>
・9―群盲、象をなでる
 http://ayur-indo.com/indo/eichi/eichi9.htm

・オグロプレー リードッグ Black-tailed Prairie Dog
 http://animals.main.jp/mammals/black_tailed_prairie_dog001.html

2014年9月13日土曜日

朝日新聞パッシングから思うこと

 最近あった朝日新聞たたきをみて、なんか「嫌な物みたな」的な後味悪さがあったので、ちょっと日本の右傾化的な事についてコメントを書こうと思う。

 なにが嫌かというと、読売や産経など(極右新聞と言ってよいのかな?)だったかの朝日叩きみながら、思わず心の中で突っ込んだのは・・・

「そもそも新聞やテレビで訂正や釈明報道なんて見た事ないよ」ということだ。

 そういうイメージがあるので、この一連の報道は、報道の進歩というよりは、報道そのものがゴシップ化しているうえに、結局は政権の御用聞き、さらには調子に乗って執拗な弱者叩き的な、なんというか・・・、まあ、嫌な姿をみたなという気になった。
 ネット上だと私と同様の意見の人間もいるのだが、新聞・テレビ(あんまりみてないけど)が似たような世界に染まっているのだと想像すると、なんかとてつもなく暗い気分になる。(やっぱりこの国は終わってんのかな・・・的な・・・)


 いちおう誤解が無いように、この事件に対する私の意見を述べると。正直いって朝日新聞側の問題がどの程度、悪意的であり犯罪的だといえるのかは詳しく調べてないのでわからないし、調べる気もない。それよりは、こういった事件で本来行うべき議論ができてないことについて苦々しく思っている。だからこの事件は事件で淡々と、報道側の問題や責任をどう扱うかについて進めればいいのだが、この馬鹿騒ぎで隠れている本来の問題を議論すべきだと思う。つまりは次の問題だ。

1)従軍慰安婦の問題(これって本来は強制連行の話がメインじゃないのだけど)
2)吉田調書の問題 (これも本来は撤退指示云々が別に重要なぽいんとじゃないのだけど)

 例えば1)従軍慰安婦についてだが、ぶっちゃけ「強制連行」に執拗にこだわっているのは日本国内だけで、世界的には従軍慰安婦という制度及び運用について問題提起や議論をすべきという話になっている。だから現在のあおり報道で、あたかも「強制連行はなかったのだ→慰安婦問題解決→日本は正しい」的な空気作っているのだけど、そういう話ではないのだよね。

 2)吉田調書についても、重要なのは危機においてどのような対処がされたのかと問題や課題を明らかにする事。さらにはそもそも吉田所長は原発津波被害を軽視して対策を見送った中心人物でもあるわけだから、そういった部分の責任なども含めて、ダメな点や今後の対応を考える事をすべき話なのだ。

 だから現状行われている、多くの問題すりかえである。なおやや過剰と思える朝日新聞のパッシングだが、どうしても私の目にはアベ政権からの見せしめ戦略に見える。お上のいう事にチャチャ入れたら、こんな感じに痛い目みるのだぞと、メディアを恫喝しているようにすら感じる。
 ちなみに、こんな余計な事がメディアで大騒ぎになっていることで、代わりに本来重要だった下記のような問題が、けっこうウヤムヤになっているし、まあ、やっぱり狙ってやっているとみるべきなのかな・・・。

<わりと近々にあった問題>
・原発再稼働の問題
・消費税増税の影響で大規模ダメージが発生している事


 しかし、秘密保護法に集団的自衛権(意図的な憲法無視)、メディアの恫喝といい・・・、1年前ぐらいは、まだ冗談まじりに戦前の体制に似てきたなと言ってたら、最近はまんま戦前の体制になってきたという気がする。だが、私はまだ正直いってこの状況がいまだに良く理解できていない。

「そもそも、なんでこんな頼んでもない事をばっかりやる、馬鹿政権の支持率が2桁もあるのか?」

 支持率のはかり方も問題あるとは思うけど、真面目にこの世界を破壊して欲しいというようなネガティブな願望を持っている人が、潜在的に多いということなのかな。いまだに、まだ納得はできないな。


<参考>
・朝日謝罪会見でハシャぐ読売、産経の“トンデモ誤報”集
 http://lite-ra.com/2014/09/post-454.html

・マスコミの矜持
 http://www.taro.org/2014/09/post-1524.php

・安倍内閣と一体の右派組織「日本会議」究極の狙いは徴兵制だった!
 http://lite-ra.com/2014/09/post-453.html

2014年9月9日火曜日

あなたは「縦派」、あるいは「横派」ですか?

 最近「嫌われる勇気/岸見 一郎」を読んだ。これはアドラー心理学(心理学というよりは哲学と呼ぶ方が適切と思う)の内容を、青年と哲学者の対話という形でかいた本である。内容のアドラー心理学について学ぶ事も有益だが、説明する書籍としてもとても解りやすくて面白い良い本だと思う。ぜひとも多くの人に読んで欲しい、無条件にでも読ませたいぐらいだ。
 でも今日はこの本の良さについて語るのではなく、ちょっとこの本で紹介されている「縦のつながり」「横のつながり」という話が面白くて色々と考えさせられたので、それについて書こうと思う。


 では、まず前段の話からすると、アドラー心理学の立場では「人間の悩みは全てが対人関係」であるとし、その根っこにあるのは縦の関係が問題で横の関係がベストだとしている。ここでいう縦の関係とは「上司と部下」「先輩と後輩」みたいな片方が偉いというような関係である。なお対する横の関係は「対等な友人」「自立した人々のつながり」といったものを指している。

 つまりは上下とか縛られた関係はストレスであり、またお互いの自立を妨げる可能性もあり、こういったもろもろが対人関係の悩みの基本となるという考えだ。なお、この話でちょっと面白いと思ったのは、アドラーいわく「人は縦関係か横関係かいずれかひとつしか使えない」という指摘である。これはどういうことかというと、人間というのは案外不器用で、Aさんとは縦関係でBさんとは横関係などとうまく使い分けられるものではなく、結局は全員を縦関係ベースで結ぶか、横関係ベースで結ぶかのいずれしかできないということだそうだ。
 ちなみに縦関係ベースというのは、片方が絶対的に優位に立って下を指導する又は命令するという関係であり、横関係ベースというのはお互いに立場が同等であるが役割が異なるといった関係を指している。例えば会社で縦関係を重視した生真面目な管理職という人がいた場合、その人はおそらくは家庭でも縦関係を持ち込んで命令的に家族を支配しようとするような例が多いということである。

 ここでポイントとなるのは、縦関係ベースの人と、横関係ベースの人の二種類がこの世に存在するということである。そして、この話を読んでまず思ったのは「はたして自分は縦派か横派かどっちだろう」ということと、宗教における神と人間というのは究極の縦関係ではないかという事だ。

 ちなみに私について考えると「横関係派」だと思う。昔からとにかく縦関係が苦手で、うまく縦関係が結べなかったような気がする。運動会系の縦関係しかり、サラリーマン社会の縦関係しかり、思い返せばこういった関係をどうにかこうにか誤摩化してスルーしてばかりだった気がする。

 でも日本について考えれば、日本人は縦関係ベースが多い社会ではないかと思う。体育会系のノリというのは日本はあまりにも独特であるらしい。過去に体罰が問題となった時に思ったのだが、私はつくづく日本の体育会系的なノリが理解できないなとおもった。学校の名誉だかなんだかで生徒を縛り、自主性や個人の特性を無視した訓練の押し付け・・・そんなつまんない事をやって何の意義があるのだろうかと思ってきた。

 そしてこういったノリとだいたいセットなのが、意味不明な根性論で、おかげて日本のスポーツ界というのは先進国の中では比較的に事故が多いと聞く。例えば甲子園で連投させつづけて選手生命を絶たれるような行為がつづけられている。ちなみに私が以前にネットで読んだ記事で衝撃だったのが、ドイツではクラブとかスポーツとかが大好きで日本以上にスポーツが盛らしいのだが体罰というのはない。なんで体罰がないのかをドイツ人に聞いたら「野球が下手なぐらいで人を殴れるか」と言われたそうである。これはもの凄くあたりまえの事だが、日本ではできていない。
 かといって世界では横が多いとかではなく、私の知識で想像するにはアメリカ・ヨーロッパなどは横関係がベースの社会だと思うが、大雑把にいうと東洋やイスラム圏は縦っぽい気がする。

 しかし、そう考えた場合にキリスト教における神を西洋人はどう解釈しているのかという疑問が生じる。神というのは究極の縦社会に見える。ちなみにユダヤ教(キリスト教の原点、旧約聖書)のエピソードでは、アブラハムが神にわが子をいけにえに捧げろと命じられるシーンがある。物語ではアブラハムは神に従おうとするが、子供を殺す直前で神はお前の忠誠を分かったとして止められる。これは非常に強力な縦世界のエピソードに思える。
 だが私は似たようなエピソードは、キリスト教(新約聖書)では知らない。神はどっちかというと秩序の番人として見守るもので、人々に私的な要求はしない。むしろポイントは博愛であって、博愛の究極が神となるので、神は法を設けたが人々に要求や命令をするというイメージではない。そう考えれば、キリスト教の博愛ベースの思想は、必然的に「横社会」との親和性が高い思想なのかもしれない。

 逆に東洋思想では、博愛の概念(慈悲になるのかな?)がないわけじゃないのだけど、そこまでメインに取り上げられてない気がする。多神教でかつ上下関係もあって、必然的に「縦社会」になりがちなのかもしれない。良く考えると「慈悲」というのはやや上から目線の概念だし。インドの「カースト」なんかは代表的であるわけだし。イスラムの「カリフ」とかはよく知らないのだけども・・・。


 まとめると、私は「横派」だし、社会としても「横派」に向かうべきだと思っている。では、はたして「縦派」は全てがダメなのだろうか? 例えば「師弟関係」はどう考えれば良いだろうか、私は独学ベースの人間なので物理的な「師匠」はいないが、それでも書籍を通じて知った「心の師」はある。師弟は縦派っぽくみえるのだが・・・。
 でもつきつめて考えると、同じ「師弟関係」でも、「縦派」解釈にするか、「横派」解釈にするかだけの違いなのだろう。なんせ明確な横派の私に心の師があるのだから、横派でも師弟は存在する。

 ちなみに、なんでこれだけ「縦派」をダメ出しするかという点について私の考えをまとめると次のようになる。

<縦派のメリット>
・シンプルな体系、決断から命令までは早い
・固定した体系なので、個々のメンバーは悩まなくて良い(考えなくて良い社会)

<縦派のデメリット>
・硬直しやすく、柔軟に動けない
・ストレス多い社会、上下関係とか競争指向なため   ※アドラー心理学が否定する理由
・個々のメンバーが考えない、言い換えれば成長の機会を奪われているともいえる

 これらを踏まえて、大雑把にまとめと次のように言えるかもしれない。

・縦派の思考というのは「現状で世界をロック(固定)」する方法である。現状から大きく進歩は望めないが、あんまり悩まなくていいかもしれない。でも徐々に劣化してゆくので、時代がたつと綻びて問題が大きくなる。非民主的な社会にすぐ移行しかねない。
(定期的に破壊する必要性を内包する社会と言えるかもしれない)

・横派の思考というのは「常に改善すべき」する方法と言える。現状を常に考えて、悩むと同時に改善もすればいいじゃないという考え方。民主的であり、民主的であるというのは「個々の人間が賢くなるよう頑張ろうよ」という事を目指す社会。だが価値観が多様なので迷走も多いだろう。

 ・・・いろいろ考えたが、やっぱり私は「横派」である。人(あるいは生命)は本来だれでも「より成長したい(より良くなりたい)という願いを持っている」というのが持論だし、迷っても自分で考えて成長できる可能性がある社会や関係の方がいい。


 はたして、あなたは「縦派」、あるいは「横派」?


<余談>
 ちなみに私は昔から根性論は大嫌いで、常々は部下とかチームメンバーには「根性ではなく、知恵と技術で問題解決しようよ」と言うようにしている。根性というのは神頼みと同様になりかねないという懸念から、自分ではあえて禁じ手扱としている。私見だけど歴史的にも、実際の経験からしても「根性」を前面に出すような指導者はろくな奴がいないと思う。

<参考リンク>
・ドイツの教師 校外で煙草吸う生徒目撃しても注意しない理由
 http://www.news-postseven.com/archives/20130210_170585.html

・今回はアブラハムのお話 ...ユダヤ教の生贄に関するエピソード
 http://www.com-st.com/kling/materials/tsusin_14.html

2014年8月25日月曜日

「パイが決められた社会」(需要のない社会について)

 長くサラリーマンをやっているなかで「成果主義」に代表されるような会社組織の不条理にはずっと疑問を持っていたのだが、最近はネットの記事などを見ていて、色々と思う事があったので、久々に考えた事をまとめてみる。


1.「成果主義」で成果が出た話を聞いた事がない

 成果主義とは、仕事の成果に応じて報酬を払うという制度である。だが世間一般で目にする状況をもっと下世話に説明すると「ニンジン目の前にぶら下げて社員の尻を叩くこと」あるいは「社員の給料をなんとか値切ろうとする、理由づけの制度」である。
 本来はそこまでクソミソに言われるようなものではなかったのかもしれないが、現実はおおむね上記のような使われ方をしている。

 ちなみに、なぜ私がそこまで成果主義をクソミソにこき下ろす理由は、最近よくあった「ブラック的な企業」によく見られる以下のような発想が嫌だからである。
・社員のモチベーションは報奨金でいくらでもあげられる。
・社員を甘やかすと結果がでない。常におどして締め上げるぐらいでちょうどいい。

 現実的にはこういった話を露骨にはしないかもしれないが、概ね心のなかでは似たような事を考えている人が多くいる。(実際に見たことや会った事もある)
 だがこういった理論が正しくない事はずっと昔から科学的に証明もされているし、コーチングやマネジメントの本などにも記されている。例えばニンジンぶら下げる効果については「ロウソクの問題」としてずっと昔に挙げられているが、単純化された作業については効果が出る事があるものの、ある程度のクリエイティブ(ちょっと考えないといけない)さが要求されると、かえって害が生じることが多いというものである。
 また、脅して締め上げる事の効果も、例えばソフトウェア工学の書「デッドライン」で問題ありとして書かれている。これらは私の経験則とも一致する事であり、実際の会社経験のある人ならば、目線を改めて遭遇したいろんな事柄を考えてもらえれば、普遍的な事だと理解して貰えると思う。(確かドラッカーさんだって、そんな事はやっちゃダメって言っていたと思う)


2.だが残念なことに・・・

 しかしながら、残念な事に成果主義的な発想というものは名を変えて品を変えて登場し、むしろ世の中に広まってしまった。私の見たところ、最近では新自由主義に代表される「自己責任」という言葉があたるかもしれない。ブラックな企業も後を絶たないし、ケチケチした嫌な上司も世の中からなくならい。

 こういった事を考えていた時に、ふと頭に浮かんだのだが、多くの会社では「成果を挙げる」より、むしろ「コストを下げる」事を目指しているのではないかという疑問だ。成果を挙げたいのならば成果主義は障害である。しかしコストを下げるならば成果主義というのは良い言い訳になる。

 つまり彼ら(会社)は、「パイが限られている」(分配する利益が限られている)という前提で行動しているわけだ。

 この事に気が付いて、私は「あれっ、そもそもそんな世の中だったっけ」と考え込んだ。もしも近年の若者(20代ぐらい)までだと、そうかもしれないが、もっと上の世代というのは「パイを増やそうとする時代」として生きてきた人も多いからだ。

 ここでもう一つ思い出した事を書いておく。私がこの「パイが限られている」考えに引っかかっているのは、ながらく現在の経済成長をひたすら追い求める社会(EU、アメリカ、日本とかの先進諸国)というのが、そろそろ本格的に限界にきているのではないかと思うようになったからだ。
 その時に思っていたのが、現在は「需要があんまりない社会」に既にたどり着いていて、昔みたいにバンバン物作って生産性あげて売りまくればみんなハッピーみたいな世の中じゃないよねという事だ。

 でもそれを認めると経済成長が止まるから、みんなあの手この手で需要を作ろうとしてきた。毎年何かのファッションを流行させないといけないし、何かの食事を流行らせたりとか、宣伝しまくってみんなを欲しがらせようとする。例えば日本の例でいえば、内需拡大するために核家族化(親子が別に住むとかの孤立化)を進めて家電とかいろいろと売ったり、あるいは浮気だのなんだのもまるでファッションのように色々と取り上げられるようになった。つまりは恋愛もいつからか露骨にビジネスになったわけだ。

 だが、そこまでやっても、やっぱり現在は「需要があんまりない社会」になったのだと思う。欲しがる事に疲れてきた(あるいはバカバカしくなった)人も増えたのだろうし、機械とかで生産性は年々上がっているから需要が減るのは本来自然で当たり前のことなのだ。


3.需要がない社会は問題なのか?

 そこで考えるべきなのは、現在の世界で色々な経済政策だのなんだのとごちゃごちゃやっているが、ある意味それらは、「需要があんまりない社会」に対しての悪あがきで、需要を無理やり作るか、パイの取り合いで争う(コスト削減競争)を続けているわけだ。

 でも、それは本来はちょっと違うのじゃやないかと思う。需要が無いならないでいいじゃないかと私は思う。むしろこれだけ生産性(テクノロジー)が進化した社会では、あくせくしない方法論だってあるはずだと思う。そして本来は、そういった提案を経済学者にしてほしいのだが、まだそこまでは世の中は進んでいないらしい。


<補足>
※ここで考えた話は、結局は過去に書いてきたこれらの記事とつながる話題なのだな。経済学者を嫌う理由がまた増えたかな・・・。
・未来を浪費する社会
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.jp/2011/10/blog-post_08.html
・経済学者を信じるな!!(その1)
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.jp/2013/01/1.html



<参考>
・書籍 申し訳ない、御社をつぶしたのは私です/カレン・フェラン(著)
 http://www.aty800.com/yaotyan/2014/08/post-29ad.html

・【TED日本語字幕まとめ】「インセンティブ制度は生産性を下げる」- ダニエル・ピンク:やる気に関する驚きの科学
 http://u-note.me/note/47484826

・名著!「デッドライン」
 http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2006/09/post_adea.html

2014年8月18日月曜日

『なめらかな社会とその敵/鈴木健』の紹介について

 この本は「この複雑な世界を複雑なまま生きることは、いかにして可能か。」という問題定義から始まる。私はこの本を読んで、とても驚くと同時に興奮もした、そして多くの人に読んで貰いたいとも思った。

 だがこの本に書かれていることは何なのかというのを説明するのはとても難しい。何故ならば、冒頭にあるように、この本が目指しているのは「複雑な世界を複雑なまま受け入れること」であり、だからもしも私が適当に簡単にまとめて説明するような事をすればその意義を永久に無くしてしまうからだ。

 まるでおとぎ話のように、いや、むしろ至る所にあるが私たちが忘れている、本来この世界の出来事は、そのまま変換可能や交換可能にはならないという事を思い出させる。
 例えば「オーケストラの生演奏」を録画して再生しても、その場で聞いた音には届かないだろう。同様に完璧なディナーを完全に真空パックなどで劣化しないように保存することはできないし、恋人とのデートをお金をもらって再現したところで同じにはならない。
 本来この世の出来事は全て交換不可能・変換不可能である。だが、近年は「あらゆるものはコストにて変換可能である」というプロパガンダが幅を利かせるようになって、そのことを忘れがちだ。別に資本主義は全てを救えるわけではない。


 どうも話が脱線したが、私はこの本の事を正しく要約することはできないのだが、それでもどうにか紹介したいので、あえて個人的な見解や誤解も含めた理解にて乱暴にはなるが、なんとか説明をする事にする。

 まず、この本は下記の3つの章で構成される。
  第1部、なめらかな社会
  第2部、伝播投資貨幣 PICSY
  第3部、分人民主主義 Divicracy
  第4部、自然知性
  第5部、法と軍事

 第一部が、そもそもの問題提起にあたる部分で、現在は複雑な社会をうまく理解や表現できていないという点についての解説であり、またその対策として想定する「なめらかな社会」というものの説明である。そして第2部以降が、「なめらかな社会」を実現する手段や考え方の提案である。

 ちなみに、この本は簡単ではない、だが決して理解できないほど難しい本ではない。何故ならば、作者はこの書籍を一般的な読者に読んで貰えるように懸命に丁重な説明をしているからだ。
 なお、私は第一部での問題定義については賛同するが、伝播投資貨幣にの実現については懐疑的である。でも、それで良いし、そのように多くの人が読めば良いと思う。あくまでもこの本は問題定義と提案であり、目的はまさに多くの人が問題定義について知る事であり、提案について考える、あるいはこの本にない新たな提案を考えることであるからだ。

 しかしこの本を読んで最初に思った衝撃は「伝播投資貨幣」についてだったので、これだけでも少し説明をしたい。この提案は現在の資本主義社会が抱える課題。資本がよりよい事にうまく投資されないという課題に対する提案である。つまりは、公害や環境破壊なので後々に影響を与えるような問題投資を、現在社会がうまく制限できない、あるいは評価できないという問題についての検討である。
 そしてその手段として「伝播投資貨幣」というものは、通貨そのものが株式投資と同様に概念をもち、社会に貢献した投資にたいするキャッシュバックが生じるというものだ。簡単な例をあげると、私が100万円つかって森を整備したとする。後に整備した森が人々の集まる場所となって公園になって色々と発展すると、私に対して後から社会貢献分の20万キャッシュバックが生じるといったものだ。(補足:ちょっと不安だけど、大まかにはこんな理解であっているはず・・・)

 この話を読んで、私は「すごい事を考える人がいるものだ」と素直にとても驚いた。この発明(発想)というのは、ある意味「産業革命」と同じか以上に凄いパラダイムシフトを生みかねないものだと直感したからだ。私はもともとシステム屋(IT)なのだが、いつからか現在社会をシステムとして見立てた場合に、数多くのバグや、時代遅れと思われる部分があって、なんとかリファクタリングする手段はないものかと夢想するようになった。だが、ここに書かれているような、発想は夢にも思ったことがなくて、本当に驚いたし、凄い事を考える人がいるものだと思った。だから、是非とも多くの人に読んで貰いたい本ではある。


<補足>
 「伝播投資貨幣」を単なる荒唐無稽と思う人は、近年あらたに生じている事を知るべきである。ギリシャでは経済危機により、通貨がうまく機能しなくなった為に、新たに「地域通貨」が生まれたり、あるいは物々交換による経済活動などが一部では始まったという事である。日本にいるとピンとこないかもしれないが、現実は遥かに先をいきつつある。
 なお「伝播投資貨幣」というのは、今思い出したが内田樹が言っていた「贈与経済」的な考えともつながる気がする。ちなみに私は最近はずっと、経済破たん後の世界や暮らしという事が頭に離れなくて「半自給自足型の社会」(経済成長優先よりも、半分自給できるように余地を残した社会)というものをよく考える。
 そろそろ日本も現実を見て、経済成長しか道がないというような馬鹿丸出しのような政策を止めて、もっと地に足がついた生存手段を考えるべきだと思うのだが・・・なかなか、まだ時間がかかりそうだな。

<参考リンク>
・『なめらかな社会とその敵』を読む
 http://blog.tatsuru.com/2013/02/13_0755.php
・経済成長の終わりと贈与経済の始まりについて
 http://blog.tatsuru.com/2012/04/08_1110.php

2014年8月12日火曜日

映画「風立ちぬ」について思った事

 宮崎駿の「風立ちぬ」、この作品はあたかも「古典」となるように新たに創られた「映画」であるように思う。ゆえに面白かったのだが、同時に少し悲しくもあり、色々と考えさせられた。だから、ここに書くのは作品論というよりは、映画論かもしれないし、あるいは文化についてかもしれない。

 多少、ネタバレ的なところもあるので、ご了承を・・・。

 まず「風立ちぬ」という映画は、大きくは2つの物語から成り立つ。実在の人物や事象もあるが、あくまでもフィクションである。

1)実在した零戦の設計者「堀越二郎」を元にした物語
2)結核の恋人との生活を描いた小説「風たちぬ/堀辰雄」の物語

 私が見た所では、この映画のメインテーマは小説(風立ちぬ)であり、映画化する際のドラマとして夢を持った飛行機設計が戦争に流されてゆくさまを入れたのだと思う。だから映画の世界観は小説のものであり、ちなみに私は小説も読んでみたのだが、これが良かったし、この小説で表された独特の空気みたいなものを、おそらくは監督(宮崎駿)は描きたかったのだと思う。

 ちなみに、この映画は右寄りの人(百田尚樹)からは熱狂的に指示されて、韓国では一部は軍国的だとか批判されたりもしたようだが、内容的にはまったく軍国的なところとかはなくて、別に右翼・左翼がどうたらといったのはないと思う。たしかに主人公の堀越二郎は戦闘機の設計者であり、第二次大戦の物語なので、戦争に関する描写もある。
 ただ、おそらく監督が描きたかったのは、過酷な時代に夢を追おうとした人を描こうとしただけで、べつに戦争ではなかったのだと思う。むしろ、本当に描きたかったのは小説(風立ちぬ)にあった、繊細で日々を大事に生きようとした人の姿なのだと思う。

 私はその、繊細にそして日々を噛み締めるように大事に生きようとする二人の姿に感銘を受けた。だが、同時になんだか少し悲しい気がした。それは、この映画に描かれたような世界が現在に無くなっている事、そしてそれは物語の上ですら無くなったしまったのだという事を感じたからだ。

 昭和初期(戦前)には、あっただろう美しさ、だが現在では失われたものがある。ゆえに、この映画は新しく創られたものでありながら「古典」なのである。

 「いったい何が違ったのだろうか?」

 難しいが、なんとか説明を試みてみる。理由のひとつは、登場人物が多くを語らないからだと思う。現在の映画に慣れた人からすると、もの凄く無口だとなるだろう。だが、それゆえに美しい。そうだ、美しいものは、自らを「美しい」とは語らない。ただ存在すれば良い。存在そのものが美しさだからだ。

 だが、これが現在は最も描くのが困難なのだと思う。本来は「言葉で説明できない美しさ」というのがあったはずなのだが、いつのまにか私達は「言葉で説明できる美しさ」に着目するあまりに、説明できない美をどこかに置き忘れてきたからだ。

 だから小説(風立ちぬ)を読んで、私はちょっとショックを受けた。それは、私達がいつのまにか「退化」したのではないかと、恐れを感じたからだ。理由は沢山あって、どれのためとは言えない。コンピュータ化、戦後の教育で文化が変わった事、物質主義的なものが多くなったこと、反知性主義的なものが目につくようになったから・・・等々、きりがない。でも「無くしたくないな、この感じ」というのを考えさせられる映画だった。

<追伸>
 「風立ちぬ」と聞いて、まず私の頭に最初に浮かぶのは「松田聖子」の曲である。これだけで、私は自分の教養の無さを呪いたい気分になった。なんか記憶すらも低俗さに汚されているような気がする。これは別に松田聖子のせいではないないのだけどね・・・。

2014年8月8日金曜日

世界で最もヤバい国

 それなりの経済力があって、メディアの透明性は低くて、人権意識は乏しい、さらには政治家のオツムは弱い。そんな国が最近は核を持ちたいという意志もあらわに、軍事活動を行いやすいように法整備を進めようとしている。こう聞くといかにも、ほっとくと何かやらかしそうな国だ。だが、これは第3世界の話などではなく、私の目から見た安倍内閣が目指す日本の姿である。

 「安倍内閣とは何なのか、安倍総理は何をかんがえているのか?」私はたびたび考えこむ。だがどう例えるのが相応しいのか、いまだによく解らない。

1)右翼の皮をかぶった、グローバリスト
2)グローバリストに乗せられた復古右翼
3)自己陶酔する復古右翼
4)持ち上げられて舞い上がった馬鹿
・・・

 安倍総理の政策だけを見れば、これはグローバル資本家/企業を最優先にした政策である事は間違いない。分かり易くまとめると、ようは1%の人向けの政策である。集団的自衛権も武器輸出等でさえも、これは既得権益団体による新たな儲け話ねん出と考えれば全体を整合として説明できる。だから私は、彼を右翼という仮面でカムフラージュしたグローバリストと呼ぶのが最も適切な気がする。

 しかし、こう書きながらも「アベちゃん」はホントにそんな明確な意思(確信犯)があってやっているのかなという疑念もある。仮に確信犯であるならば、私は彼の評価を「ヒトラー並に優秀で危険な政治家」へと改めなくてはならなくなるのだが、違うのならば「ジョージ・W・ブッシュ前大統領を超える馬鹿な政治家」という事になる。
 ちなみに私は、ながらく彼の事を「後者」の方だと考えていた。だが最近は、じつは馬鹿のふりをしてみんなを欺いてきた曲者ではないのかとすら思える時がある。そう考えたくなるぐらいに、彼が行っている政策は日本の急所を突き、国民から政治を遠ざけている。

 だからこそ恐ろしくもある。まだ多くの識者は彼を馬鹿だと思っていて、次の選挙でひっくり返せばよいと思っているのかもしれない。だが、私が危惧するような確信犯なのであれば、次の選挙を永遠に封じて権力を独占しようとするかもしれない。

 その方法は「戦争を始める」ことである。

 なにも全面戦争でなくとも紛争でよい、なんならテロとの戦いでもよい。いったん戦争状態ということであれば、非常事態宣言とともに選挙を封印して権力をずっとおさえることができる。そして、その間に法制度を改めて、合法的に反対論者や政敵を葬ることもできるだろう。

 これは一見すると馬鹿げた妄想だと思う人もいるかもしれない。だがこれは普遍的な独裁手順であり、あまり珍しくもない。ちなみにもっとも近年類似した例は、ジョージ・W・ブッシュのアメリカである。あの時代には、政治的に都合の悪い事があるたびにニューヨークで「テロ警報」が発生したのは有名な話だ。


 だからこそ私は懸念する。ちなみに、彼がどんな意図をもっていようが、結果はだいたい似たようなものになる。馬鹿か天才なのかを論じることにはあまり意味もないし、重要でもない。

 問題なのは、いまだにまだ安倍政権の支持率が45%ぐらいあるという事である。(ホントにそんなにあるのかという疑念もあるが、まだそれなりにあるらしい) これが私には理解しがたい、1%側の政治へばく進中なのに、なんで99%側の人が支持するのだ・・・そんなに、この世はアホばかりだというのか、多少新聞がヨイショして持ち上げた数字としても信じがたい。

 「今の時代は戦前に似てきた」そういう意見をたまに目にする。私もずっとそう感じていた、だがあくまでも「比喩」だという意味で思っていただけだ。だが、最近は本当に「何か、やらかしかねない」という気がしてきている。だから次の選挙は重要だ。
 だが、それでも、やっぱり何も考えずに(あるいはデマに乗せられて)今まで通りなら、危機感もないというのなら、ホントウにこの国は滅んでも仕方がないのではないかと、やや諦めつつもある。しかし、この国はまだ腐っても世界3位の経済大国なので、この国の混乱は大きく世界を歪める災いをおこしかねない。それが、第三次大戦に繋がりかねない紛争なのか、あるいは世界的な経済恐慌を引き起こすのかは、解らないのだけど。


<補足>
 私は安倍総理の語る敗戦前に復古しようとする考え(どこまで本気かわからない)が大嫌だ。だが「永遠のゼロ/百田尚樹」(小説)は大好きで、小説に感銘を受けて当時の戦記(手記とか)を何冊か読んだぐらいだ。でも、だからこそ、復古的な考えは「ありえない」と思っている。

 第二次大戦について考えた時、私が何度思い出しても腹が立つのが「ガダルカナル攻略」「インパール作戦」、さらには「特攻兵器(特攻機、人間魚雷等)」についてだ。

 「これだけ味方を無駄死にさせた愚劣な作戦が、歴史上他にあるか」何度思い出しても怒りを感じる。負けるのは仕方ないとしても、ここまで愚劣な連中を他に思いつかない。そして負けたあとの戦犯や指導者のセリフとしても「時代や空気に逆らえずにやった」的な言葉しか出てこないのが、さらに腹が立つ。自分のやっている事の覚悟も理解もなしに・・・これだけクズな連中は近代史では、探すのも困難である。
(もちろん、当時でも立派な人はいたはずで、「永遠のゼロ」はむしろそんな時代でも立派に生きた人の話を書いた物語だとして読んでいる)

 だから自民党が前にやろうとした憲法改正で、昔の道徳的なことを書こうとして却下された件とかを聞いて、本当にこの連中は救いがたい馬鹿だと思った。そして、こいつらのような連中こそが、時代が違えば「ガダルカナル攻略」「インパール作戦」を立案したような奴らだと実感する。

 どこの国でも、政治家に馬鹿はいるはずだ。だが、日本ほど、自分のやっている事を理解していない馬鹿はあまりいないんじゃないかという気がしてならない。


<参考リンク>
・報道の自由、日本後退59位 福島事故と秘密法響く
 http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014021201001249.html

・安倍内閣支持率45・6% 第2次内閣発足後最低
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140721/stt14072112080002-n1.htm

・「憲法が何であるかを理解しないまま議論が進められていることが問題」・小林節慶応大学教授が日本記者クラブで会見
 https://www.youtube.com/watch?v=Lfxpw6ODn5k

2014年8月2日土曜日

遠まわしに考えた、選択しない社会というもの

 長らく体調を崩しがちな為に、最近は生活習慣を見直そうと考え、なかでも食事を基本的な部分から見直す事にした。ちなみに、それまでは太らないようにカロリーはある程度気にしているが、以外はサプリメントを飲んで、無理やり帳尻を合わせるようにしていた。もっとも手間がかからない、単純な方法である。
 しかし、根本的に考え直すならば、まずそこから見直さないといけないだろう。じゃあ代わりにどうするか?

 新たな健康法を求めればよいのか、最新の科学的な知見を考慮すべきか・・・色々とあるが、私は最新科学や流行の方法ではなく、なるだけシンプルな古くからある日本の食事に戻そうと考えた。単純に言うと、江戸~昭和初期ぐらいの「まだ西洋化していない食生活」を理想とした。
 どうしてそうなったかと言えば、食事法については最新科学(ホントか疑わしいのもあるが)で色んな説によるものが沢山あって、まずどれが正しのか分からない。一部は正しいのかもしれないが全体的には間違いが多い可能性もある。
 だから、あえて最新科学をちょっと置いといて、古くから日本人が暮らしてきた食事(西洋化する前)を選ぶ事にした。何故ならば、これらは長い古人の経験や言い伝えに裏打ちされた実績があるので、もっとも手堅い方法でもあるし、現在立ち戻る原型とするに相応しいと思ったからだ。

 そんな経緯で関連する本を調べているうちに行き当たったのが「粗食のきほん/佐藤初女・幕内秀夫・冨田ただすけ」という本である。この本は面白かった。そして食事の話だけではなく、もっと人間や生活といったものに対する根本的な事を教えられた。
 中でも特になるほどと思ったのが、料理を作る時に軽量カップを頼りにするのではなく、自分で味を見て考えなさいという指摘だった。例えば塩分一つにしても、味を見ることで必要な塩分量がおのずとわかる。つまりは体が欲しているもの知り、それを与えるのだと考えて料理を作りなさいというものだ。

 これはとてもシンプルな教えであるが、とても理に適っている。そして、この話を聞いて思い出したのが「脳は体に悪いものも欲しがるが、体は必要なもの(良いもの)しか求めない」といった話だ。これは、例えばタバコや麻薬は脳が求めているのであり、体は基本的にはそれを拒否しているという意味である。さらに、関連して思い出したのは「頭で考えている内は二流である」「全身をもって行動し考えよ」という話である。

 これは一見バラバラな話をしているようであるが、食べ物話では済まない、とても深い示唆を含んでいる。例えば次のような話をよく聞いた事はないだろうか?

 とある生産性が上がらない工場がある。その工場では年々少しずつ生産性が低くなり、社員はよく上層部に小言を言われていた。だが社員からすれば、年々機械などは消耗したり、十分にメンテナンスはできない等といった色々として欲しい事もあって、上層部になんども言っているのだが、一向に話を聞いてもらえないと不満を抱いていた。
 やがて上層部は、生産性が改善できないので外部コンサルタントに依頼する事にした。そしてコンサルタントの指摘により、色々な機械やソフトを購入する事になった。だが最新の知見や方法論によるとして期待された方法だが、もひとつ目覚ましい成果は上がらない。むしろ、今までと変えた事によるトラブルなどが目立つぐらいである・・・これは、わりとどこにでもある話だと思わないだろうか。

 もしもこの話を、上層部=脳、社員=体と置き換えれば、初めにしていた食事の話と同じである。問題なのは、どうして私たちはサプリや新たな健康法を試す前に、まず自身の体が欲している事を聞かないのかという点である。味覚などは正にそうだ。そもそも体に必要な栄養素といったものは個人差があって同じではない、だからこそ味覚は必要な情報を伝えるのである。例えば普段は酸っぱい飲み物であっても、疲れている時にはそれが甘くておいしいと感じる時のように。

 こういった事を踏まえて周りを見れば、似たような問題は多くあるような気がする。そんな事はないという人がいるならば、いちど「申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。/カレン・フェラン」(サブタイトル:コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする)を読んでみる事をお勧めする。
 私はと言えば、つくづく「こんな当たり前の事が分かってなかったのか」という事を思い知らされた。同時に食事ばかりではなく、今までの仕事ぶりなどにつけても、本当にちゃんと話を聞けていたのだろうかという疑問を持った。


 なお食事の話題に関連して興味をもって、最近は貝原益軒(江戸時代)の「養生訓」を読んでいたが、こういったものは、そもそも現代人の考え方の根本的な問題からくるのではないかと思えてきた。「養生訓」を読んでいると、これは単なる健康法の話ではなくて、むしろ「幸福とは何か」とか「生きるとはなにか」といった事に明確な指針をもって書かれている。また、そうでなければ語れなかったのだという事がよくわかる。

 それに比べれば現在人は、自分の内なる声をきかず、何かにつけて外部に文句ばっかり言っているような気がする。昔何かで読んだ言葉に「文句を言うのは自分で選んでないからである」というのがあったが、一番の原因はここにあるのだと思う。

 現在、特に日本は顕著なのかもしれないが、今はあまり自分で選ばない時代である。何故ならば、たいていの事にはマニュアル(自己啓発本なども含めて)があるし、学校や社会ではあらかじめ「こうしなさい」という指示がある。分からない事があってもネットで探せば、どっちが得か損かといった事が書かれてある。
 自分の頭で考えず、自分で選ばず、だから内面は空っぽであり、出来ることは文句をいうだけしかない。例えばファッションや音楽にしても、どれだけ自分の意志で選べているというのだろうか。メディアや友達のだれかの影響ではないのだろうか。

 選ぶ必要がない、または巧妙に選ばされる社会。そもそも日本では幸福というものもあまり選ばせてないような気がする。子供に有名大学~就職~家建ててといった、あたかも幸福が決まっているかのようなワンパターンの押し付けは強すぎるような気がする。

 また貝原益軒を読んでいると、西洋化する前の社会では、比較的それぞれの暮らし方や幸福感というのは、わりと明確だったように思える。しかもあまり物質に頼らない(当時は無かったからだし)方法である。
 例えば「料理」ひとつを取っても、それをどう考えるかはさまざまだ。時間のロスや面倒な事という考えもあるが、逆に作ることを楽しむこともできる。古人はそういった生活のもろもろを、苦労であると同時に楽しもうとしてきたのではないかという気がする。

 だが西洋化した社会(近代化した社会?)、中でも最近の資本主義社会では、すべてが損か得かで判断するという方向性が強すぎる。それは一見、合理的に見えるが近視眼的であり、局所最適化はするが、全体最適化に失敗するような問題を多く引き起こしている。
 ひらたく言えば、いっとき流行った「成果主義」だが、私は「成果主義」で成果がでたという話を聞いた事がない。この原因はさまざまで説明すると長くなるので端折ると、ニンジンぶら下げて煽るような短期的な方法は、結局のところは効果どころか問題を引き起こす方が多かったという事を示している。


 話が脱線しまくったので締めようもないのだけど、つまりは食の話題から、現在の「選択していない」という病に考えがたどり着いたという事が言いたかったのである。もしも自分がクリエイターならば、作ることは最大の選択である。やっぱり「Everyone, Creator」でないとダメなのかもしれない。そういえば、料理を作ることはもっとも身近な「Creator」だったね。

2014年7月31日木曜日

「佐世保高1同級生殺害事件」についての所感

 正直言ってこの事件には特に興味もなく、またよく分からない点も多い。だからもともとは記事を書く気はなかったのだけども、この事件に関するマスコミや各種の反応があまりにも、噛み合ってないような違和感を感じてどうしようもなく、後に色んな情報で印象が上書きされるために、あえて少ない情報時点での私の所感を書いておくことにした。


<事件報道に関する違和感>
この記事を書く気になった原因である、事件報道に関している違和感についてまず説明する。まず全般として感じるのは、どうもニュース情報(新聞社、2ちゃんとかの掲示板なども含め)てデマ情報が多いような気がしてならないことである。一時は掲示板上で殺人中の書き込みがあったとかいうのもあったが、それはデマらしいという話になっている。それに犯人に対しても、容姿端麗だの頭脳明晰だの文武両道だの、事件に直接関係なさそうな余計な情報が多すぎる。うまく説明できないが、他にも疑問を感じた理由はあると思うのだが、私なりの乱暴な結論をいうと「信頼できる情報がない」というのが現状だと思っている。

これは一般的な刑事事件なので、あえて情報をかく乱している、または警察(検察?)がわざとミスリードになるような誘導をしているとは考えにくいのだが、なんかちょっと変な気がしてしょうがない。だから最初に述べたように、私はこの事件についてよく分からない。判断するだけの情報がないと考えている。

ようするに事件の詳細ではなく、かってに犯人の印象についてのデマゴーグだけが、どんどん増殖しているだけなのだ。逆に、むしろ事件当日の時系列でみた情報などといった、本当に事件を示す情報はまだない。だから現時点での解は不明であるとなるべきだが、既に犯罪心理学だの家庭の事情だのといったおかしな推測が飛び交っている。

最近読んだ「なめらかな社会とその敵」という本のテーマに「複雑なものをありのままに見ることはできないか」というのがあったのを思い出したが、いまの事件報道に対する現象は、複雑でわけわかんないので、勝手に簡単に解釈して締める事にしました・・・的なものである。だから正直言ってイラッとくるし、読む気もあまりしない。


<事件へのコメント>
かと言って、何にも事件に対しる事を書かないのもつまらないので、ちょっと気になった点だけを「超推論(あてずっぽう)」でコメントしておく。犯人は殺した相手をまるで解剖するかのように切り刻んだ、もしくは昔から解剖に興味を示していたといったような話をよく聞くが、仮にそれが事実だとするならば、私はその行動にこのような解釈を割り当てる。

解剖とは秘密を暴くことである。本来は血にまみれたような内臓を美しく装った皮膚や衣装をはぎ取る行為と解釈できる。これは虚構を暴くとも解釈できるし、不確かな命がどこから生まれているのかを解き明かそうという試みとも読み取れる。

この行為だけを聞くと、なんとなく犯人は虚構に満ちて信じられなくなった世界を、自分の手で暴き出そうとしたのかな・・・。話だけ聞くと、私にはそんな風に思えた。

だから言いたかったのは、安易に印象操作されずに、もしも事件について考えるならbが、あくまでもありのままを考えて欲しいという事である。


<余談:酒鬼薔薇事件を思い出した>
これらの報道をみながら、過去に酒鬼薔薇事件について書いたことがあるのを思い出した。当時は私は事件に興味を惹かれて、犯人の書いた脅迫文をよんだのだが、あまりにもニュース報道で受ける印象とは違っていて驚いた。ニュース報道だと犯人は怪物かのように書いているが、脅迫文から受けた印象は「怪物になろうとして成れなかった人間」にしか見えなかった。あまりにも人間くさいように感じたのを今でも覚えている。

2014年7月27日日曜日

くたばれSNS

 まず初めに、「くたばれSNS」などと言ってみたもたが、これは良いタイトルが思いつかないので、とりあえず言ってみただけである。私は本気でSNSを全滅させるべだとか、SNSをやめる運動を開始すべきだ・・・そうだ有志をFaceBookで募ろう、みたいな事は思ってない。
 しかし、ときどきSNSでの過剰さ、パラノイア的というか強迫精神症というかが気になる事がある。そしてこの問題を考えてゆけば、
本来は多様性を育てたり維持したりするはずのSNSが、実は逆の役割になりかねないのではないかという懸念があり、ちょっと違う視点でSNS批判をしてみようと思う。


1.まず、何が気に入らないのか?
 SNSの問題として良くあげられるのは、一日の大半がSNSに費やされて人生の浪費じゃやないかというものをよく聞く。有名な話はFaceBookの「いいね」ボタンを押さないといけないというプレッシャーがある。これは友人が書いたFaceBook記事に「読んだよ、いいね」というチェックを押してあげないといけないのではないかという、プレッシャーである。特に日本人だと「あ・うん」呼吸を優先するので、こういうプレッシャーは強いと思う。「いいね」ぐらい大したことではない、しかしこれは数十人だとどうか、とういて記事を読み切れないし、中にはツマラナイものもあるだろう。でも知り合いだと批判もしずらいといったジレンマが起こる。
 だから昔みただれかの漫画(短編だったかな?)では、N氏は毎朝起きると、FaceBookのすべての記事に「いいね」をつけてくれるボタンを押すのを日課としている・・・といったような笑い話がでてくる。(じつはこういうツールが既にできているかもしれないのだけど)
 これがよくあげられる問題である。しかしそれ以外に最近私は「共有(シェア)しろ」というプレッシャーというのが、だんだん世の中で強くなってきたなと感じるようになり、ほかにも色んな問題(ウザさ?)が多く発生しているように思われる。


2.SNSの具体的な問題
 1.で書いたようなSNSでの不快さについて、気が付いたものを挙げてみると次のようなものとなった。基本的にはしつこいというか、押し付けられているという感覚からくる窮屈さ(プレッシャー)である。

<SNSの窮屈さ>
(1)「読んだ」プレッシャー(例:LINE)
(2)「いいね」プレッシャー(例:FaceBook)
(3)「シェア」プレッシャー
(4)「ぼっち」プレッシャー

 (1)はLINEに代表される、早く読めよというプレッシャーである。LINEは既読か未読かわかるので特に強い。2,3日放置すると友達が減るかもれない。

 (2)は最初に説明して、FaceBookで「いいね」ボタンを押せというプレッシャー。お世話になった人に「いいえ」は押しにくい。

 (3)は最近、Gメールとかを使っていたりして感じるようになったのだが、Google+とかで「あなたの意見をシェアしませんか?」的なしつこい押しでウンザリさせられる事が多くある。ほかのメディアでも似たような事があるが、最近は共有しろというプレッシャー、言い換えると「なんでおまえ共有しないの? ケチか?」とやんわり詰られているように感じる。

 (4)はSNSで知り合いが少ないと、変な人かさみしい人と思われるのじゃないかというプレッシャーである。例えばTwitterなんかは顕著で、フォロワー多い方が偉い的ないびつなステータスが生じている。

 しかし、ここまで書いていて気が付いたのだが、このSNSのプレッシャーというのは、全てが身近な現実世界であったものばかりだ。書いているうちに、なんだか、人間の業(カルマ)というか性(サガ)を見ているようで、ちょっと悲しい気分になった。例えばこれを田舎の暮らしに置き換えると分かり易い。

<実世界の窮屈さ>
(1)「読んだ」プレッシャー
 >回覧読んだか? 向かいの○○さんの嫁の話を聞いたか? 的なものとか

(2)「いいね」プレッシャー
 >おまえも、そう思うだろう、なぁ? 的なちょっとくどい人が身近にいるような感じ

(3)「シェア」プレッシャー
 >おまえんちのあれ良い物だねちょっと使わせてよ とか

(4)「ぼっち」プレッシャー
 >なんか田舎で浮いちゃっている気がして不安的なものとか

 なんか例えはもう一つになってしまったが、これらは全て「地域共同体」や「会社」「学校」といったローカルコミュニティの課題に置き換え可能であり、完全に当てはまる。よく考えると、本当に全部が人間的な日常的な課題ばかりだ。

 という事は、これらの大部分は技術が生み出したものというよりは、現実世界をモデルに作られたがゆえの仮想世界上での制約だという事がわかる。だから、こういった問題を根本的に解決するには、まず現実世界での「ウザさ」というものと、我々がどう向き合うべきかというテーマについて考えなければならない。つまりは、次のような深い命題に辿り着く。

「日常生活をウザくもなく、寂しくもないような、快適な暮らしや付き合いをどうやって築くべきか」

 しかしこのテーマは、壮大すぎて明らかにこの記事や私の理解を超えてしまうので、ここでは語らないことにする。
(おもいつきで書き始めた話から、こんな根本的なテーマが発生するとは、実はちょっと驚いている・・・)


3.SNSは何が違うのか
 2.ではSNSの問題は、実は現実世界と同じであると書いた。ただし、すべてがそうだとは言い切れるわけではない。今まで無かった新しい道具は、必ず新しい問題を生むというのは良くあることだ。そこで思いつくものを列挙してみた。

<SNS独自の課題>
(1)拡散範囲が広い、全世界
(2)履歴が残る、俗に言う黒歴史とか
(3)匿名・実名の混在社会

 SNSを実社会をモデルとして仮想世界の一つだと考えた場合に、SNSならではの課題を挙げたのが上記である。

 実をいうと(3)の匿名性については、あんまり影響が小さいのかもしれない。現実世界でもよく見ると、詐欺だのカタリだのあるし、作家はペンネームを名乗るし、サラリーマンは役職などのニックネームで呼び合う。実は実名などというものは、お互いを識別できる以上はそれほど意味がないのかもしれない。

 むしろ、もっとも重要かつ課題として注意すべきなのは、(1)の全世界に拡散するということだと思っている。そしてこれが、本当に書きたかったこの記事のテーマである。(途中で脱線しまくったせいで話が見えにくくなったけど)
 だから、まず私的な例からこの問題について説明しようと思う。


 そもそも私が気に入らなかったのはGoogoleとかでしつこく「共有しませんか?」と聞かれることだった。そして、それが繰り返されるたびに「なぜに奴らはそれほど共有させたがるのか?」「共有する事にどれだけ意義があるのか?」といった事を考えるようになった。

 そして、ようやく何故自分があれほど、共有しろというメッセージに対して不快なのかがやっとわかってきた。彼らが共有しろとプレッシャーをかけてきているのは、私の持つ個人的な情報や知識や体験、あるいは繋がりである。これらは、言ってみれば私の識別情報の一つだともいえる。私が「私」であるという理念やアイディンティと言い換えてもいい。だからこそ、私は自身の識別情報を公開するのを無意識的に嫌ったのだろう。

 これは感覚的なもので、言葉で説明するのは難しいのだが・・・

 私が理想とするイメージは「多様性に満ちた世界」である。これをメチャクチャ大雑把にいうと、所々に「適当さ」「冗長(非効率な)」「気まぐれ」的な物があって、それも良いんじゃない的な世界である。そして、それはすなわち「自然界」の姿だと考えている。

 自然界というのは、進化のしくみや、マイナーな特殊な生物、棲み分けの形等々といった事に興味をもった人ならば、すぐにわかって貰えると思うが、「ものすごく完成された緻密な環境」であると同時に、そこに「至る経緯はものすごく適当」である。ここでいう適当というのは、仮にサイコロを振りなおすように進化をやり直したとしたら、二度と同じものができるとは思えないという意味である。

 「適当だ(多様性)」というと、これは悪い事のように思う人がいるかもしれないが、これは凄い事であって、だからこそ生物や人類が生き残っていると言ってもいい重要なポイントである。危機的な事柄(天変地異、災害、気象変化、疫病等々)があっても、生命が残っているのは、簡単に言うと「色んな所に、色んな奴がいたから」である。

 ここで話を戻すと、私はSNSの文化(シェアしろという脅迫)はインターネットでの世界への伝播性が強すぎるがゆえに、「多様性を失わせる」方向に進ませかねないのだと懸念している。

 例えば、もう少しテクノロジーが進んで、私は可能なほぼあらゆる情報を共有したとする。なお必然的に私は、自身の情報を共有する為に公開し、同時に他者の情報を共有する為に取り込むとする。
 そうなった世界では、結果的にどいつもこいつも似たような奴ばかりいるみたいな、つまらない停滞した社会になりかねないのではないだろうか? もしも「人は本来影響されやすいものである」、だから付き合う人に染まってだいたい似たような人になると考えるならば、色んな色を混ぜすぎたら結局は黒っぽい色になったというように、均質で似たような人ばかりのような結末にたどり着くのでないかという予感がする。
 だから「おまえも、シェアしろよ、オラオラ」的なノリに対して、「勝手にいっしょみたいね決めつけるんじゃねーよ」的な反感を感じるのである。

 しかし、私は別にSNSを全否定するわけではない。むしろ、あって便利だし貢献している部分も大きいと思う。問題なのはSNSに流されてしまう事だ。SNSに流されて似たような一人になるのではなく、もっと独自でワガママであってもいいんじゃないかと思う。

 だから、提案するのはSNSの各種プレッシャーにまけずに、もっと歪で偏屈で気まぐれであっても良い、むしろその方が良いんじゃやないかと思う。

<対策「SNSプレッシャー」>
(1)「読んだ」プレッシャー(例:LINE)
 >気が向かないから見ない

(2)「いいね」プレッシャー(例:FaceBook)
 >つまんないのは「いいえ」

(3)「シェア」プレッシャー
 >秘密があってこそが人生、わざわざシェアする情報はあまりない

(4)「ぼっち」プレッシャー
 >孤独に歩め、悪をなさず、求めるところは少なく・・・的でもいいじゃない


2014年7月20日日曜日

「アクト・オブ・キリング/映画」を観て

 ついに「アクト・オブ・キリング」を観てきた。この映画はパンフレットの記事を偶然見かけた時に、その異端な内容から物凄く興味を惹かれていて、是非とも映画館へ行かなければと思っていた作品だ。たまにこんな風に是非見なければ、と思う映画はあるのだが、私はついつい面倒で見逃してしまうことが多くて後悔することも多い。今回はちゃんと見れて良かったし、内容も良かった。これは、ぜひお勧めして見てほしい映画なのでこの記事を書くことにした。

「アクト・オブ・キリング」は60年代のインドネシア大虐殺(100万人規模)をテーマとして、当時の人々にインタビューをして作り上げたドキュメンタリー映画である。大虐殺事件は複雑で解明されていない部分も多いようだが、説明の為に大まかにだけまとめると、次のようの事件である。
1965年にインドネシアのスカルノ大統領のもとで、陸軍の将軍がクーデターを起こしたとして、「スハルト少将(後の大統領)」が鎮圧する。そしてスハルト少将はクーデターを共産主義者によるものとして、インドネシア全般の共産主義者又は敵対者を次々に殺戮してゆき、ついには大統領も殺害して全実権を手中にしたのちに自らが大統領になって独裁体制を引くという事件である。なお実際の虐殺は、民兵とプレマン(自由人と呼ばれる地元のギャング)により大部分が行われたとされている。

ただしこの映画が特殊なのは、虐殺事件を調査する為に加害者側(プレマン及び民兵など)と直接話をして、さらには加害者側が当時の再現映画として作ろうとしたことである。そして「アクト・オブ・キリング」は、この加害者側が作る映画のメイキング映画という形式で様々な話が展開されてゆく・・・!!

まず、これが普通有り得ない!! 虐殺事件といったものは通常はタブーとされていてインドネシアのように加害者側が支配しているなかでは、話をするだけでも難しいのだが、なんと当時の実際に虐殺を行った加害者が役者となって再現映画を作るのである。まずこの試みが前代未聞である。
ただしオッペンハイマー監督は、最初からこのような計画を立てていたわけではないらしい。普通にドキュメンタリー映画として虐殺を取材していたら、軍から脅迫をうけて中止となった。そこで仕方なく加害者の話を聞こうとしているうちに、再現映画を作ってみてはという話になった。これが話だけ聞くと理解できないが、その背景としては加害者側は現在でも実権を握っており、残酷な虐殺者ではなく、一種の英雄のように扱われているという現状があるから出来たことである。よって映画は加害者側の、過去の栄光を再現して多くの人に自慢する、もしくは宣伝するというような目的にて作られる。だが実際に再現映画を作るうちに加害者側の認識も複雑なものへと変わってゆく・・・。


おっと、映画の説明だけでこれだけ文面を割いてしまった。つまりはそれだけ特殊な映画であり、おそらくは今後もこんな映画は二度と作れないのではないかと思う、奇跡のような作品である。映画全体としては善悪が逆転した世界によって行われる、ブラックコメディーのように物語が流れてゆく。スプラッターほどのグロいシーンはない(いくつか再現映画のところで血とかあるけど)、だから普通の人でも見れるだろう。時間は2時間ほどだが、異世界のような話に引き込まれて時間が長いとは思わなかった。あらすじ的な説明はこれぐらいにするが、あとは実際に観て欲しい。そしてどう感じたかを教えてほしい映画である。


私はこの映画をみて、どんな事を思ったかというと、大きくは2つの事を考えていた。。

1つは、20年以上前(まだパソコン通信の時代)に、ネット上で世界平和について語る人がいた。それ自体は別に悪い事ではないが、私は彼が語る言葉にどうしても違和感を感じてたまらなくなって、掲示板だと思うがコメントを付けた。

そこで当時の私が書いたのは、世界の紛争などを考えるのはいいが、まずはもっと身近な事を理解してくれという事だった。例えば当時の身近にいる老人は第二次世界大戦の生き残りであり、彼らの数人に一人は大陸で何人かの人を殺してきたのだ。普段の付き合っている礼儀正しい、善良そうに見える人々が、実際に殺し合いをしてきた。あるいは一方的に殺人をしてきているのかもしれない。その事実を理解して、そのうえで語らないとあまりにも空虚すぎる・・・と。確かこんな意図のような事を書いた気がする。

この映画の中で中心人物として語る、1000人を殺したというプレマン(ギャング)は映画上では陽気で人好きのするような人物である。孫もいて家族や友人を愛している、ごく普通の人間である。そして彼の周りにいる当時の虐殺者、あるいは現在も権力を握っている民兵なども、多少はやくざなところがあったとしても、基本的にはごく普通の人間である。その普通の人間が、簡単に虐殺者になったという事実、それらを、この映画を見ると有無を言わさず理解させられる。

たまたま最近は「永続敗戦論」や三島由紀夫の本を読む機会があって、日本の戦争について考えることが多かったから、余計にこの事実について改めて考えさせられた。それは日本では、いかに「戦争の事実」「敗戦の事実」が忘れ去られてきたかという事。しかも、むしろ「あたかも無かった事」「悪い夢」「済んだ事」といったように消し去ろうとしてきた事だ。
なんか、こういった事を書くと「ネトウヨ的な人」が、永久にアジアに謝罪しろというのかと非難しそうな気がしたので、一応補足しておくが、私はそんな意図で言っているのではない。そうじゃなくて、我々はそもそも「これほど危うい、ちょっとしたきっかけで、やらかしてしまう」、そういった存在だという事を忘れるなといういう意味であり、故に第二次世界大戦の事も、すべて忘れるわけにはいかない部分があるという事である。
そして、この「我々の危うさ」こそが、まさに現在の日本で海外から懸念されていることであり、私が安倍総理に懸念することである。


2つめは、共産主義とはいったい何だったのかという事だ。ちょっと前に三島由紀夫の「若きサムライのために」を読んでいて、全共闘について書かれている部分を読んだ際にも思ったのだが、現在に住む私にはどうしても理解できない部分が多い。
・なぜ、当時の人はあれほど「共産主義」に入れ込んだのか?(革命としての破壊を必要とするほどに)
・また、どうして当時の人はあれほど「共産主義」を恐れたのか?

ちなみに私は一般教養として一応マルクスも代表的な部分だけでも読もうと試みた事があるのだが、すぐにイラッとして投げ出してしまった。合う合わないの問題なのかもしれないが、私にはマルクスという奴が、変に理屈っぽくて回りくどい(無駄に引用多いしね)文に思えて「こんな鼻持ちならない奴の話など聞けるか!」といった風に思ったのだ。
だから私には、なぜマルクスがあれだけ多くの人々を動かせた理由が分からない。例えばこれが、ヒットラーならば簡単に理解できるのだけども。まあ個人的には、両方とも問題を異常に簡略化して極端な3段論法的なものでシンプルに美化しただけの、戯言としか思えないのだけどね・・・。

そして同時に、なぜ当時は共産主義があれほど恐れられたのかということだ。「アクト・オブ・キリング」でも描かれているように、共産主義者だと言えば、無条件に殺してOKとすんなり通る処が分からない。ちなみにこの映画で描かれている虐殺を行った政権は反共という事で西側には支持されてきた。当然日本もこの虐殺には目をつむって支持をしてきたのだという事実も忘れるわけにはいかない。


しかし、なんというか、むかし、近代史について幾つか読んでいたら、あっちこっちでの虐殺の話ばかりが多くてなんだかブルーになったのを思い出した。アフリカないし、イスラエル然り、近い場所では北朝鮮とか。そういえば過去に友人が、日本というのは例え猫の死骸ですらすぐに片づけられる、世界で最も「死」が隠される社会だと言っていた。そういった忘れそうになっている物を思い起こさせる映画である。

<参考リンク>
・この大虐殺には日本も関与していた─映画『アクト・オブ・キリング』デヴィ夫人によるトーク全文
http://www.webdice.jp/dice/detail/4161/

2014年7月17日木曜日

「国民は馬鹿である」VS「我々はカモである」

思い返せば、去年に「TVは馬鹿が見るもの」という文をかいたのだが、最近のニュースで幾つか、政治家や官僚さらにはマスコミ側は「国民は馬鹿である」と思って行動しているのが、ありありと読み取れるものがあって、さすがにちょっとイラッとした。ゆえに似たようなテーマになるが、この点について書こうと思う。


まず一つ目にイラッとした事は「取材された難病少年も静かな怒り、日本の海外ロケの無茶」という記事で、世界的にも稀な奇病との闘病をつづけているミヒル君に対するテレビ局の取材で、苦しいながらもなんとかポジティブに行こうとする姿に不満で、なんとか「死に怯える不幸」の絵を取ろうと、ミヒル君に対して酷い態度で取材したという事だ。
細かい点は除くが、パワハラ面接的といえばいいのか、将来の希望を語る彼に対して、「でも、もうすぐ君は死ぬよね」的な言葉でインタビューに臨んで、最後には父親に怒鳴られたらしい。
(ちなみにミヒル君は本当に珍しい奇病で、他のイギリス・ドイツ等のテレビ局などから取材を受けたことがあるらしいが、日本のテレビ局のように不快な体験をした事はないという)

もう突っ込みどころが多すぎて困るぐらいなのだが、日本のテレビ局に対するこの件での問題点を明らかにしたいと思う。
1.少年に対する、残酷かつ無礼な振る舞いの数々
2.そもそも真実報道するつもりがない
3.そして視聴者は馬鹿だという過程を前提に行動している

上記1はわざわざ説明不要だと思うので省略するとして、2と3について説明したい。
「2.そもそも真実報道するつもりがない」と言うのは、仮にTVスタッフは取材に赴く前は「少年は悲嘆に暮れている」と思っていたとしよう。それは別に構わない。そして実際に取材すると、少年は苦境ではあるのだが負けずにポジティブに立ち向かおうとしている事がわかった。
私からすると、じゃあ、それをそのままTVに乗せればいいじゃないかと思う。いい話が聞けてよかったじゃないかと思う。そもそも取材前の想像と現実が違うことはあって当たり前のことだ。その為に、わざわざ現地まで取材に出かけているのだからなと。

だが彼れはそうしなかった、それが「3.そして視聴者は馬鹿だという過程を前提に行動している」という事だ。TV局のスタッフ達は、親切にも視聴者の知能レベルを気遣ったらしい。「苦境に立ち向かうポジティブな勇気」というような高等な概念は、日本の視聴者には少し難しくて理解できないかもしれない。もっと分かり易く「お涙頂戴の話」にしよう。そうすれば自分より不幸な人々が居ることをしって視聴者は安心し満足するだろうと・・・。

正直言って「これほど胸糞の悪い話」というのはそうそう無い。しかも、これだけ馬鹿にされながらも、いまだにテレビを見る視聴者が一定数以上存在する。だが、あるいは私は誤解しているのかもしれない。実はテレビの視聴者は高度な知性を持っていて、テレビ局側が仕掛けるあらゆる誤報を見破るという知的ゲームを楽しんでいるのかもしれない、いやあるいはその逆か? もはやこれらは、アメリカンジョークよりもブラックだ。


と言ったような事を考えているうちに、「社民ポスター「パパは帰ってこなかった」」なのだが・・・。いや社民党の言いたい事は分る。「集団的自衛権」について細かい理屈を述べるより、こうやって男は戦争で死んでいく未来になりかねないのだよと、イメージを伝えた方がきっとみんな分かるよねって、といった気配り。

でもこの言い方って、最初に挙げたテレビ局の問題と同じだ。大半の国民はちょっとでも知的な議論にはついてこれないから、絵でも描いてイメージ伝えないとむりだよねとか、つまりは「国民は基本的には馬鹿である」という前提に立っているのが露骨に伝わってくる。まあ、これにさらに輪をかけて、国民は数もまともに数えられないし、昨日の事も覚えてないよね・・・というような前提に立っているのが、現在の与党(安倍政権)なんだけども。


ここで私は一言いいたい「相手の事を馬鹿という人が、馬鹿なのですよ」と。確か小学校あたりで教わった気がする。そして、この言葉には真実があるようだ。相手の事を馬鹿だと仮定する人は、馬鹿を相手にする故にそれ以上進歩せず、少しずつ退化してやがて馬鹿へと至る。あるいは最初から馬鹿だったという事もあるかもしれない。あるいは「すべては馬鹿になる」とでも言うべきかもしれない。

いぜんにビデオニュースで「東浩紀(哲学者)」が、確かこんなような事を言っていた。
”政府や官僚達は、国民は多少愚かなぐらいが扱いやすくて丁度良いと思っていたのかもしれない。でも最近の若者の中には「AKBが最高の芸術だ」と思い込むような輩も出始めて、さすがにこれではまずいと思い出したのかもしれない”

この言葉に私も同感する。彼ら(政府や官僚達+企業家達)は、勤勉で余計な疑問を持たない扱い易い人材が、低コストで増えれば良いと思ってきて学校改革などを繰り返してき。(どこまで明確に意識してたかは別として) その方が、政治に余計な首を突っ込まれていい加減な仕事だと指摘される心配もなければ、マスコミにつられて期待通りに消費してくれるだろうと。

ちなみに私は、しばらく前にあった一時の「不倫ブーム」的なマスコミのあおりなどは典型だと思う。(最近はあんまりテレビ見ないのでしらないけど) ようは彼らはとにかく消費してほしいのだ。景気をあげるには、主婦だろうがなんだろうが、不倫でもなんでもいいから恋愛して、どんどん遊びにいって消費してくれればいいと心から願っていたのだろう。私はそれらを見てぼんやりと「ああ、ついに恋愛も露骨にビジネスになる時代がきたのか」と思ったのを覚えている。(同時に「他人事だとおもって適当な事ばかり言いやがって」とも思ったが)

そしてその長い彼らの成果が出ているのが、現在の日本である。見事に馬鹿ばっかりの国になったのではないだろうか? 馬鹿であふれた馬鹿の国。馬鹿のエリートが官僚に成り、馬鹿に選ばれたのが政治家ならば、もう、どこから突っ込んでいいのか分からない。原発ぐらい爆発してもおかしくはない。

ある意味、長い時間をかけて作り上げた究極の馬鹿が、現在の与党=自民党であり、安倍総理なのかもしれない。ゆえに彼らは手ごわい、馬鹿のエキスパートであるが故に、馬鹿を知り尽くしていて先導する術に長けている。その戦術は幼稚だが強力だ。

自分に都合の悪いことは忘れるかとぼけて徹底的に誤魔化し、相手のちょっとした揚げ足は徹底的に持ち上げまくり、そして国民がちょっと目を離したスキ(例:オリンピックとはワールドカップとか等)に密かに重要な政策を通す。

NTTやマスコミを恫喝または懐柔し、大手既得権益企業の要望は全部聞いたうえで、負担は全て国民に回す。それでもまだ足りない処があれば、紛争危機をあおって全員の目を外に向ける。なにせ、憲法すら守らなくて良いことにしたのだから、国内で彼らを縛るものは何もない。その気になればすべてやりたい放題である。都合悪いことがばれそうになっても、そこは抜け目なく準備しておいた「秘密保護法」がある。もはや無敵状態になりつつある。

だが悲しい事に、彼らがいくら無敵だと言ってもそれは所詮は国内においてのみである。例えば集団的自衛権などはアメリカへのごますりでしかないし、アベノミクスについても日本の経済破綻を止めることはできない。(なんせ目先の都合や思い付きでやっているだけだから、当たり前なのだが)故にこの馬鹿の楽園も永久に続くわけではない。
しかも性質が悪いことに、この馬鹿の国は核も持っているし、まだ世界第三位の経済大国でもある。馬鹿が勝手に沈んでゆくだけならいいのだろうが、また世界を相手に大騒ぎを起こす可能性は否定できない。


<余談>
そういえば、この前に「永続敗戦論」を読んでいて思ったのだが、安倍総理が代表するような日本がアメリカに対してやっている事というのは、いわば究極の「片思い」(しかも、ややストーカーチック)である。

アメリカは別に日本の事を嫌ってないのかもしれない。でも別に恋愛しているわけではなく、いわば「ビジネスライクに付き合おうよ」と言っている。だが日本側は「私だけを見てほしいの」といって付きまとい、色々と貢いだりする。(集団的自衛権とか) さらには嫉妬から他の女に焼き餅を焼いて、色々と邪魔をする。(中国、韓国への挑発的な行動とか)
そしてアメリカから「そろそろお前も自立しろよ」と言われても、そんな生活考えられないと駄々をこねるとか・・・。

といった感じで、恐ろしい事に片思いに例えると、日米関係がほぼ全て説明できてしまうような気がしませんか?

<参考>
・取材された難病少年も静かな怒り、日本の海外ロケの無茶
http://webronza.asahi.com/global/2014071400001.html

・社民ポスター「パパは帰ってこなかった」
http://www.asahi.com/articles/ASG7J5KFBG7JUTFK00V.html

・TVは馬鹿が見るもの
http://conversationwithimmortalperson.blogspot.jp/2012/03/tv.html

2014年7月14日月曜日

「永続敗戦論/白井聡」を読んで

 「永続敗戦論」はvideo news「戦後レジームからもっとも脱却できていないのは安倍総理、あなた自身です」を見た時に、著者による「永続敗戦」という分析を聞いて、思わず購入した本だ。

 ちなみに私はいわゆる「日本論」的な書籍は、内容がたいてい薄っぺらくて、価値がないと考えて、あんまり読まない派である。乱暴な言い方をすれば、日本論的な書籍は「日本人向けに書かれた日本人目線の日本人論」であり、たいていは学校や会社ないの内輪ネタ程度の意味しかないものが大半だからだ。唯一面白なと思ったのは「日本辺境論/内田樹」ぐらいである。
 しかし「永続敗戦論」で描かれた分析は、そういった書籍とは一線を異なる、独自の視点で書かれたものであり、是非とも多くの「日本人」に読んで欲しい書籍である。


 この本の具体的な内容を解説するのは難しいが、興味を持って読んでみたいと思うかもしれない人のために、なんとか試みると・・・

 この本で述べているのは、3.11(原発事故)により明らかとなった日本社会の綻び、特に問題が生じてもだれも責任を取ろうとせず、何もかも誤魔化してうやむやとしているような構造について考察し、いったいどうしてこんな社会になったのか、それを支えている政治家および国民の思考などについて分析を行った内容である。

 そして、それを紐解くには、第二次世界大戦の敗戦(終戦とはあえて呼ばない)の意味をもう一度問い直し、その後の政治および日本の歩んできた道のり見直すことにより、現在抱えている問題を考えようというものである。
 日本で「敗戦」と呼ばずに「終戦」と呼ばれることのすり替えられた意味、そして敗戦時に保存された「国体」とは何だったのかという事、そこから見えてくるのは「本来のあるべき姿を直視できてない日本人の姿」であり、そこから生じる各種の歪みである。

 中でも序章にあたる「私らは侮辱の中に生きている」は圧巻である。ここでは3.11原発事故について感じていた、怒りと、どうしようもない下劣な誤魔化しに対する絶望感といった多くの事が、代弁されている。

 まずこの序章だけでもぜひ読んでもらいたい。ちなみに難解な内容について語っているが、文章や解説はきちんと順を追ってかかれており、難しくて理解できないようなものではないので、普通に読める本だと思います。

 読めば、私たちの多くが認めたくなかった「抑圧されて歪んだ日本の精神構造」について知ることになるでしょう。

<参考>
・戦後レジームからもっとも脱却できていないのは安倍総理、あなた自身です

2014年7月7日月曜日

信頼の価値と、不審のコスト

 今回のテーマは、「信頼」というものはどれだけ価値があって、むしろ「信頼」が無い事に対して、この社会はどれだけコストを支払っているかという話である。ちょっと大きなテーマで掴みどころがないように思えるが、こんな事を考える発端となったのは、知人(A氏)との何気ない会話からだった。

 A氏は年金をもらっている老人だが、年金以外に収入がなく、マンションに一人で暮らしている。この前に私はA氏のマンションで食事をしていた際に、年金以外に何か副収入でも入る事を始めたらどうかという話題になった。
 その時にA氏が、マンションの空き部屋を、例えば海外から留学や働きにきている外人に貸し出せたら良いのにという話になった。でも最終的には、実際に行うとなると難しいだろうという結論になった。理由は、見ず知らずの他人を住ませた場合に、盗難であったら破壊であったり等といったトラブルを想定しないといけないからだ。例えば親戚や古くからの友人とかならば成立するかもしれない、しかし面識のない他人では到底無理だ。つまりは「信頼」がないと出来ない事だという話になった。

 そう言った話をしていて、思い出したのが、政府がやっている年金や少子化の対策についてである。長年政府は「年金」「少子化」について細々とした色々な対策(やる気があるのか、ごまかしているだけか微妙だが)をしているが、ずっと的外れな事をしているという気がしてならなかった事だ。
 どこに違和感を感じていたかというと、私はこの2つの問題の根本にあるのは「信頼」の問題だと思っていたからだ。つまるところ、人々は現在の政府の姿をみて将来に不安/不審を感じていて、5年後・10年後にちゃんと仕事があるのか、生活できるのかといった事をどこかで疑っているという事だ。
 未来に不安があれば子どもを作りたいとは思わないだろう。もっとも解りやすい例は年金で、将来貰えないとおもっているから、なかなか若者は払おうとはしない。それでますます資金不足になり、さらに不審をまねくという負の連鎖となっている。本来政治に求められていたのは社会に対する信頼の回復であるが、どうみても政権担当者はそんな事を考えているような素振りが見られない。

 そこでふと考えたのが、はたして「信頼のコスト」とはどの程度の物だろうかという疑問だった。しかしこれは量るのが難しい問題である。ゆえに、「完璧に近い信頼がある社会」というものがもしあったらという事について想像をしてみた。具体的には次のような社会だ。

<完璧に近い信頼がある社会>
・腐敗が少なく、民主的なプロセスで法治が実現されており、アンフェアな事例があまりない。
・経済的には成熟しており、急上昇/急降下の可能性が少ない。
・企業が社会的な責任を理解して運営されている。
・地域コミュニティがしっかりしていて、互助の関係が成立している。
・個人のモラルが高く、犯罪が少ない。

 もしも上記のような社会が存在したとしたら、どれだけ現在の社会的で日常的に行われている無駄なコストが無くなるだろうかという事を考えてみた。

<減ると思われるコスト>
・官僚/政府による無駄な事業コスト、例)利権団体へのバラマキ事業など
・セキュリティにかかるコスト、警察や犯罪捜査、刑務所及び関連法制に関わるコスト
・目先の利益優先によって産み出した公害等のリカバリコスト、例)原発事故の除染コストとか
・コミュニティによって支える事で対応可能なコスト、例)老人介護、教育関連など
・腐敗がなくスピーディに進めば少ない全般的な政治コスト

 こうして考えると、改めて現在社会というものは、ほとんどが「不審」に対する対策費で成立しているというのが良くわかる。順等に法的や理性的に考えて物事が進めば、スピーディかつフェアであるような運用ができるのだが、現実的には利害対立で足をひっぱりあい、さらには足をひっぱりあったり不正を監視する為の方や組織をつくってなどという形で、さらに追加コストがどんどん発生してゆく。
 詐欺などの悪さをしないように法律をつくり、監視して、本来は簡単ですぐ済む仕事がどんどん大きくなって無駄なコストを産み出してゆく。例えば、食品衛生についても、もしも各自の品質が信頼できるならば手続きが大幅に簡易化されてコストが下がるのではないだろうか。

 ざっくり考えると、もしも上記に挙げたような相互の信頼がある社会ならば、現在の社会の運用コストの7割ぐらいが不要になりそうな気がする。それだけ信頼というものは価値があって、喪失した場合の代償を払わなければならないという事ではないだろうか。
 しかし近年の政治や経済連などの、いかにも目先だけで誤摩化してやりすごそうとしているような政策は、ますまずお互いの不審を増長させ、多くのコストを産み出しそうな気がする。

 おそらく上記のような比較はシュミレーションが可能で理論的にも十分に証明できると思う。かと言って、上記のような理想世界に近づけるのは困難だろう。個々の人間や組織のモラルを向上させる事はとても難しく、一朝一夕にできる事ではないからだ。しかし、それでも、こういった事を頭にイメージできていれば、もう少しはましなやり方をしようという気になるのではないかなと、期待してこの文章を書いている。

<補足:とある営業マンの話>
 私の友人で最近失業した営業マンがいた製造会社は、数年前から不審でずっと苦しんでいたそうである。本来ならば全社員一致して対策を考えて頑張ればいいのだが、その会社では「技術部」は責任を営業が仕事を取ってこれないのが原因だといい、「営業部」は仕事をとっても品質が悪くてリピートオーダーが無いのが原因だとお互いに言い合って、まともに協力が行われなかった。それでついには会社を畳むか、もうっちょとだけ大幅に減給してつづけるかという所まで追いつめられ、友人はその事業縮小もあって失業した。
 その話を聞いて正直なところ、まるでドラマのような「なんて愚かな連中だ」と思ったのだが、案外こんな組織は多いのかもしれない。この国の政府の姿とも重なる所が多いしね・・・。

2014年6月2日月曜日

PC遠隔捜査事件に関する妄想録(その2:真犯人メールの解釈)

 前回「PC遠隔捜査事件に関する妄想録」として、片山被告の自供だけでは、どうしても納得できない事が多くあるという事と、例えばこんな可能性があるのではないかと独自の推理も書いてみた。
 ただしこれらはあくまでも証拠を示せない推論だけの話だったのだが、6/1に再び真犯人からメールがあった事もあり、単なる妄想とも言い切れなくなりそうなので、再びこの件について考えを記録してみる。

 まずこのメールを読んで正直に思った事は「あっ、なるほど」という物だった。というのは、検察の説明や片山被告の自供内容だけだと、どうしもハマらないパズルのピースのように説明できない部分が幾つかあるからだ、それに比べてこのメールの内容は証拠はないが、少なくとも全てのピースがうまくハマりそうだという直感を持った。
 
 私がこの事件で納得がいかなかったのが・・・

1)もしも片山被告が犯人ではないとしたら
 真犯人は少なくとも片山被告を張り込んで江ノ島へ行った事になる。本当にこんな事を物理的にやったのならば、単独犯はほぼあり得ないが、こんな犯罪をわざわざ複数でやるような奴がいるとは思えない。

2)そして片山被告が犯人だったら
 全ての犯行での行動がバラバラすぎて不自然であり、さらには片山被告にそもそも実行する能力が無かったのではないかという疑念が拭えない。

 だから前回のブログでは、物理的な行動(江ノ島、雲取山)だけが片山被告の行動だとした推論を書いてみた。だがそう考えたならば、片山被告と検察が手打ちをしたとでもしないと、説明できない部分があるという難点があった。

 だからこの真犯人メールにて、犯人が片山被告を脅迫して行動させる事ができたならば、全てうまく説明できると思った。
 そう考えれば、今まで犯人らしくない行動として考えられていた、江ノ島での撮影、雲取山へのUSBなどは片山氏本人がやれば良いわけなので、非常に簡単に説明ができる。実際にこの2つの物理的な行動の一致だけは、どう解釈するかが難しい所なので、片山氏が行動したとなれば非常にスッキリする。
 ミクロな視点で個々の証拠や資料などをチェックした事はないが、少なくともマクロの視点でこの事件を見ると、このメールが一番うまく全体を説明できるような気がする。

 ちなみに私の考えでは、多少乱暴な言い方にはなるが「ミクロな視点の証拠」だとして色々と取り上げられている事は、現状ではどれもたいした根拠がないあやふやな証拠だと思っている。所詮はデジタル世界での話なので、どうとでも成りそうな事ばかりであり、今のところ片山氏が犯人だと限定できる証拠は「本人の自白」しかないからだ。
 もしもこの真犯人メールが模造犯(愉快犯)の創作だとするならば、私の推理などより遥かによくできており、ストリーテラーとしては尊敬に値する。

 まあ、私はこのように真犯人メールは本物の可能性を感じるのだが、こういう考え方をする人は世間では少ないようで、否定的な見解の方が多いようである。だが少なくともこの事件はまだ続きがありそうなので、引き続き注目してゆきたいと思っている。

<参考リンク>
・【安部銃蔵】真犯人の名乗る人物からのまたメール(全文+ヘッダー)
 http://d.hatena.ne.jp/satoru_net/20140601/1401561600
・PC遠隔捜査事件に関する妄想録 
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.jp/2014/05/pc.html

2014年5月20日火曜日

PC遠隔捜査事件に関する妄想録

 本日づけで片山被告が佐藤弁護士とも話をした上で自供した事により、ついに紆余曲折だらけだった遠隔捜査事件も決着したようである。だが正直言って私はずっと片山被告は冤罪だと考えていたし、今回の展開もどうも出来すぎているような気がしてすっきりしない。
 よって思いっきり妄想ベースで推理になるが、今思っているモヤモヤとまだどんでん返しがあるかもしれない展開をなどを書いてみようと思う。こういうのは時間が経つと当時の考えなどは曖昧になるし、他の情報で考えも影響されるので、いま書くのがちょうど良いと思う。

<モヤモヤする理由>
 この期に及んで、なぜ私はこうもモヤモヤするのか、その理由を考えてみた。
1)片山被告に犯行を実施した能力があると思えない
2)犯行全体のアンバランスなイメージ
3)警察や検察は本当に何も仕組んでないのか、隠してないのかという疑念

 まず1)から考えると、あんまりうだつの上がらないプログラマーだった片山被告が影で猛勉強したとしても、あれほど完全に痕跡を消した遠隔操作犯罪はできないのではないかという疑念が消し去れない。
 私自身も元プログラマーだから解るのだが、実をいうとC#ができるかどうかなどは小さな問題で、ある程度の実力があるプログラマーなら初めての言語でもサンプルを見ながら創る事はできるだろう。それにネット上でもウィルスのサンプルやネタなどは探せばそれなりに転がっていると思う。
 極論をいうと創るのは私でも出来るかもしれない、ただし実際にそれを犯罪につかって捕まらない確信をえるには、入念なテストや調査が必要になり、これは簡単にはできない。ネットワーク越しでサーバ経由などをしたテストや環境を用意するのは手間がかかり、考えるだけで正直ギブアップする。
(ロシアのようにハッカー学校で学べば別かもしれないが)
 ちなみに検察は今までさんざんリークをしていたのに、片山被告が密かにセキュリティ関係の勉強や調査をしたというものは何もない。もしあれば、これはC#がどうたらという話以上にはるかに信憑性をましたはずだ。これを逃すとは思えないので、やはり片山被告はセキュリティ上は素人がかじった程度だったのだと思われる。
 そして警察は彼が関連する全てのPC(自宅及び会社など)を全て押さえたはずなのに、明確な痕跡を見つけられなかった。これは正直信じられない気がする。私はもしも自分が犯行に及んだとしたら、そこまで完全に痕跡を消せる自信がない。検索履歴みたいな中途半端なものではなく、もっと明確な証拠がでてしかるべきだと思われる。 

 そして2)についてだが、私はこの犯罪について、メール文などを全部詳しくは読んでないが、以下のようなイメージを持っていた。
・犯行声明文や脅迫文の下衆な感じ、非常に幼く感じる事
・江ノ島と雲取山の不自然さ
・単独犯なのかどうかと、同一犯だったのかどうか

 プロファイルというほど詳しく見てないが、ちらっと読んだ脅迫文はなんというか、非常に下衆っぽい(つまりは教養や知性が感じられない)ような文章だったような記憶がある。これはつまり、読書家や勉強家とうイメージではなく、ネットの掲示板などばかりを読み書きしているような非常に狭い知識階層の人間だというイメージを持ったのを覚えている。同時に非常に幼い印象もうけた。だから単純な私のイメージでは、むしろ引きこもって社会にある程度憎悪に近い感情を持つような人間を思い浮かべていた。

 そして「江ノ島と雲取山」や犯行をする側を仮定して想像すると、どうしても納得できない。これは明らかに余計な行動で非常にリスクだ。調子にのって本当にやったとすれば、かなりバカだとしか思えない。ただし、どこかで捕まえて欲しい(止めて欲しい)という願望があったなら別だ。
 あとこのリアル世界での行動だが、私はいまだに本当にあったのか?(犯人の行動なのか?)という疑念が拭えない。正直なところ、模倣犯がおもしろがって創った部分ではないのかと思っている。雲取山についてはすぐに見つからなかった事から、おそらくは模倣犯の嘘メールで実際には埋めてなかったのではないかと疑っている。この点については後から警察が手に入れたというUSBはおそらくは、捏造か誰かが模倣で埋めた物なのではないかという疑念が消えない。だからこの2つの行動は実際にあったのかどうかも、正直確信が持てないポイントである。
 そしてここでも結局、どこまで同一犯の犯行や行動なのかが不明確に思われる。前半と後半は別なのではないかという疑念がある。後半は便乗犯で、また江ノ島等はむしろ便乗した事件に思えてならない。

 最後の3)だが、この事件全体はどうも警察や検察の動きがおかしい。これがむしろ犯罪を余計にややこしくしているような気がする。シャーロックホームズ的に言えば「彼らが探すべきは真実」であるべきなのに、彼らは偏った目でしか物事をみない為に話を非常にややこしくしている。つまりは、片山被告を犯人に結びつける証拠はだしているが、逆の証拠(不自然な事実)を全て隠している。だから、いまだにこの事件の全貌がみえず、どうしても不自然な感じしか拭えない。
 おまけに途中の新聞社へのリークによる虚構情報の展開は目に余るものがあった。江ノ島の写真しかり、DropBoxのログしかり、これがさらに事態をややこしくしている。おそらくは彼らが隠している多くの不自然な事実は多数あるのだろう。
 実際に正直なところ、もしも真犯人が片山被告以外にいないという確信さえあれば、彼らは被告を暗殺してでも犯人にでっち上げるのではないかと心配になったぐらいだった。

 これらが私の全体の所感でありモヤモヤの理由だ。しかし本日の件で、犯行は明確になるのかもしれないし、さらに闇に隠れるのかもしれない。そこでもっとも極端な2つのストーリを考えて、この件を現時点で整理する事にしてみる。

<もっとも素直な展開>
 全ては片山被告の単独犯行である。彼はうだつの上がらないプログラマーだったが、24人のビリーミリガン並みに別人格の時は優れたクラッキングの才能を見せて存分に警察を翻弄した。そして知能犯であると同時に、不安定な心理状態をかかえており、スリルに酔ってリアル世界へ犯行を展開するという愚を置かして多いに危機に陥った。
 しかしそれでも持ち前の冷静さで、周りの人間の信頼を得て最終ラインだけはセーフを保っていて、もう少しだけ我慢すればおそらくは勝訴できる見込みまでこじつけた。しかし急に血迷ったのか犯行時の自己顕示欲やスリルが恋しくなったのか、あろうことかスマホで時限メールを送るという今までとは比べ物にならない稚拙な手順で犯行メールを出してしまった。
 そしてそれを警察にリーク記事されるとパニックに陥って自殺をしようかと考えたが、弁護士と相談して思い直して素直に自首して全ての犯行を認めた。

<もっとも捻くれた妄想による展開>
 片山は本来の犯人ではなかった。事前のメール脅迫は別人の犯行であり、それを見た片山は便乗してゲームをしたいと思い、雲取山と江ノ島の件を演じた。そして本来の犯人は警察の騒ぎが大きくなるのを見て、しばらく息をひそめて便乗した片山の行動を見守る事にした。
 片山は案の定、リアル世界の行動が理由で警察に捕まった。だがまだ余裕があった。何故ならばかれは本来の犯人ではなく、自分は無実であり、単なる愉快犯による行動だという確信があったからだ。そして実際のところ、警察にも彼を完全に黒とする証拠は見つけられなかった。そして敗訴になる見込みが濃厚になって検察は焦った。そして何がなんでも片山を犯人する為に、最終手段に出る事にした。
 それがスマホによる犯行声明メールである。警察は隠れた情報を全て持っているでこういった裏情報も含めて完全に犯人しか知り得ない情報付きのメールを創る事ができる。そして被告に結びつける為に河原に埋めるといういかにも安易な手を使った。
 ただしこれだけだと検察は安心できない。何故ならば本当の脅威は本物の真犯人が名乗り出る事であり、これがあれば、全てはさらなるスキャンダルになってしまうからだ。だからこそ、検察はここでアクロバティックな手を思いついた。それは本体は敵対する片山被告を懐柔して味方にする事だ。かれが真犯人だとして全て自供すれば、仮に真犯人が名乗り出てもすべて無効にできるからだ。
 そこで検察は片山被告にコンタクトを取り脅しと同時に金銭で彼を懐柔する事にした。協力すれば起訴されるが結果としては刑は軽くなる事と金銭を提供する事。必須な事は犯行を全て自供として背負う事と佐藤弁護士と手を切る事。
 そして片山被告は金銭的な見返りと身の保証を得てそれを承諾した。それが今日の自供と、そして自首する際に見せたアルカイックスマイルに繋がる。

 いずれにせよ、まだまだこの事件は謎が多い。全てが明らかになって私もこの謎の解答が知りたいが、正直そうなるかどうかは解らない。よって妄想込みの推理を今後の備忘としてここに記載しておく事にする。