2013年12月28日土曜日

安倍総理の靖国参拝で感じた失望

 安倍総理が靖国参拝をしたというニュースを聞いた時に、怒りというよりも深い失望のようなものを感じた。”ああ、やっぱりこの人は馬鹿だったんだ”といったようなものだ、そして同時に色々と考える所があったので記事を書く事にした。

 前もって説明すると、私は靖国神社に対する参拝そのものは特に賛成/反対といった意見はない。ただし私人が参拝するには問題ないが、政治家が参拝するにはその意味を十分に理解しているのかどうかは考えて欲しいと思っている。

 もしも私が政治家ならば靖国神社に参拝するのは躊躇するだろう。それは別に近隣諸国との関係云々という事を置いておいても、靖国神社が建てられてから第二次大戦までの歴史は、同神社がずっと政治利用されてきた歴史であるからだ、その歪な経緯を理解すれば、たんに戦没者を慰霊するという意味での参加はどこか引っかかりを拭いきれない。
 靖国神社の事を知らない人の為に補足すると、具体的には次のような理由がある。(だいぶ前に読んだ書籍の内容を思い出して書くので、細部では誤りがあるかもしれないが概ねは次のような物だったと思う)

1)比較的に歴史が浅い神社
 靖国神社が建てられたのは明治以降であり比較的新しい神社である。あんまり日本で最も重要な神社というわけでも、本来はない。

2)神社と政治のからみ
 靖国神社は明治政府によって作られて、目的や意図も軍国主義のシンボルとして利用してきた。これは、やはりどう贔屓目に見た所で、歴史的な経緯をみると”政治利用の為に作った施設じゃない”という事は否定できないと思う。

3)神社の慰霊対象
 軍国主義時代の政治利用されるような神社だから、慰霊対象は戦没者である。そういう意味では戦犯も戦死者も代わりはないのかもしれない。むしろポイントなのは、対象はあくまでも戦死者で戦時中の病死者や事故死者および例えば空襲で死亡した市民などは慰霊に含まれていない事だ。
 私が最大にひっかかるのがここで、平和を願うとかなんとかいうタテマエには無理があるだろうと思っている。仮に慰霊対象が戦時中の全ての日本人、もしくはアジア人だったら、まだ純粋に死者を悼む施設だというのも納得はできるのだが・・・。

 上記理由で、私はあまり靖国神社を特別視するような扱いには反対である。神社として存続するならば、ただの神社としてあって欲しいと思っている。だから私人は良いが、政治家が参拝というのは、正直いって反対である。

 ただし今回の安倍総理の参拝で問題だと思ったのは、わざわざ中国での毛沢東生誕日を狙っていった事であり、タイミングが悪すぎる。アメリカがクレーム付けたくなるように”なんでわざわざいまやるの?”というのに、多くの国や私のように失望を感じた人が多かったのだろう。これは政治家としてはかなり致命的な失策にしか見えない。(しかもやらなくて良い事やったという意味では、アホじゃない?と突っ込まれてもしょうがない)

1)中国のメンツを潰す
 領土でもめても、ちょっとずつ話をつめて改善しようとするのに大きな楔をさした。

2)韓国へ不要な理由を与えた
 韓国が日本へインネンつける大きな理由をわざわざ与えた。いままでは韓国の極端な反日に対して、日本のまっとうさをイメージ付けれる所もあったが、これで無駄に理由を与えた。

3)アメリカへの失望
 アメリカも本音としては、この馬鹿が無駄な問題起こしやがってと思っただろう。

 しかし最大の問題は、安倍総理はいったい何の為に参拝したのかという事である。そしてどう考えても、たいした理由が思いつかないという事に、最大の問題がある。なんとなくは中韓の反発あるから、腹いせに参拝したぐらいにしか見えない事だ。あるいは前に参拝できなかったので、言った事をやるというだけだったのではなないか? どう考えても高度な戦略があるとは思えない。

 つまり、安倍総理の頭の中ではゴールが靖国参拝であって、その後の事はあんまり考えてないということだ。これが最大の問題であり、懸念である。今回の件で、私はこの人のゴールっていうのはメチャメチャ直近の事なんだろうなとつくづく思った。
 総理大臣ならばゴールは「国家の安全」「国民を安定して喰わす事」といった事をゴールして欲しいのだが、安倍総理は「靖国参拝」「集団自衛権」をゴールにしていて、その後の事はあんまり考えてないのじゃないのかという気がする。(やりたい事をやりました、言われた事をやりました的な感じで、まるで小学生じゃないの・・・到底政治家とはよべない・・・)
 そしてこんなアホで平和ボケした人物が日本のトップであるという事に、今回は失望と同時にちょっと恐怖を感じた。こんな人物に未来が左右されるなんて・・・。たのむから何か深い考えがあって欲しい・・・。

2013年12月23日月曜日

尊厳をなくした社会

 このブログでは度々、TPPをきっかけとしてグローバル化に対する反対論などを書いてきた。ただしこのテーマについては、何度も書きながらもどこか問題をうまく説明できていないような思いがあった。それが最近のVIDEO NEWSで宮台真司の会話で何度か登場した「尊厳」という言葉を聞いて、この言葉を使えばもう少しうまく説明できるような気がして、久しぶりにブログを更新してみる事にした。

 私がグローバル化に対して反対をしている最大の理由と根拠は1点であり、それは「多様性を失った生態系は滅ぶしかない」という生物学的な視点からの指摘だ。こういう考えに至った経緯は、3.11原発事故及びその後の社会の動きを見て、多くの疑問が頭によぎるようになったからである。

 政府が今まで頑張って進めてきたエネルギー政策というものは、結局は原発をどんどん作り続ける程度のもので、結局はだれも真面目に取り組んでなかった事が明らかになった。過去のしがらみと目先の利益で、発電業界の利権をまもるだけに終始し、結果的に致命的な問題を起こしてしまった。しかもその反省もほとんどしていないように見える。

 だが私がもっとも愕然としたのは「我々のような一般人(国民)の声を代弁する者がどこにも居なく無くなっていた」という事である。これは3.11の事故から、どうしても原発問題(現在進行中の問題も含めて)について考えたり、調べたりする必要があり、その時に痛感したからだ。
 資本家(発電業界)は政治家・官僚・マスコミ・学界を豊富な資金で実質ほとんど懐柔済みであり、マスコミを通じて一般人はほとんど洗脳(無知)に近い状態にある。さらに言えば、政治家や官僚を通じて司法や検察も資本家の意思で歪められていると思われる形跡がある。

 これはTPPの問題についても同じような構造である。グローバル資本(企業)は商売をしやすいようにする為に、ついには各国の文化や社会についても介入をし始め、これも発電利権と同様にマスコミや政治家などを懐柔すみなので、ずるずるとまずい方向に進みだしている。

 私が前に述べた「多様性を失った生態系は滅ぶしかない」と考えるようになった理由は、原発やTPPの問題を通じて、我々が暮らす社会は結局は全ての問題を先送りしながら目先の問題に終始するだけのもので、到底「継続可能な社会(文明)」ではないなと考えるようになったからである。そして継続可能なモデルとは何かと考えた時に、私には現在の自然界というモデルしか思いつかなかったからだ。

 現在ある自然界というのは数100万単位の年数を経て進化してきた最も安定したモデルである。このモデルを支えるのは、我々が普通にビジネスで目指すようなスピードと効率ではなく、ゆっくりとした変化と多様性である。このモデルから、私は継続可能なモデルにもっとも重要なのは多様性を担保する事だろうと考えた。
 これは現在のコンピュータシステムで言えばインターネットのような分散型システムであり、過去にコンピュータシステムがメインフレーム中心の中央集権的なモデルだったのが、柔軟さと安定性を求めてインターネットに代表されるような妥当な進化の方向性と言えるだろう。
 そして文化的に言えば、過去の王朝や独裁体制が徐々に廃れていって、民主主義のような分散型でありまた、ゆっくりと変わってゆく構造を選んだのとも同じものだとも読み取れる。
 ゆえに私は、大きな目でみた場合のモデルとして必ず必要になるのは「多様性」だと考えている。

 そこで冒頭に書いた「尊厳」というキーワードがどう関係するのかと言えば、「多様性」を支えるのがまさに「尊厳」ではないかと思いついたからだ。

 「大(だい)の虫を生かして小の虫を殺す」というのは古くからあることわざで、私達はビジネスの現場、もしくは家庭のなかでも、そして国家や会社という枠組みの中でも、少数者の声を採用せずに物事を進めてゆかなければならない時がある。それは必ずどこかで必要な事でもあるのだが、少数者を無視する事が良い=妥当で効率化などという考え方は、多くの誤りを産み出してしまう。
 それは短期的には良い方法に見えても、長期的に見た場合には幾つもある可能性を放棄して硬直した結果で衰退へと向かう道でもあるからだ。生物学の視点では「適応しすぎた種は滅ぶ」という言い方が昔からあったが、まさに効率化を最大で最優先にした組織や文化はゆえに滅ぶしかなくなるのだと思う。

 そして少数者(マイノリティ)をどう扱うかという為に必要となるのが「尊厳」というキーワードである。私達一人一人には尊厳がある。私の家族や文化、ひいては所属する会社や国家にだって、それぞれの尊厳がある。そう考える以外には、先ほどまで何度も述べてきた「多様性」を支える事ができない。
 おそらくは現在もっとも廃れて、忘れ去られているのは「尊厳」というキーワードだろう。実際に私も長い間、忘れていたような気がする。そして「尊厳」を最も著しく毀損しようとしているのが「グローバル化」である。

 例えば、「貴方が居なくなっても仕事のかわりは誰でもできる」「貴国と取引しなくても他国と取引するので問題ない」「単価があがるようならば他国へ製産ラインを移す」これらの言葉は個々の尊厳を考慮しておらず、この世のあらゆる価値は金銭にて代替え可能又は評価可能であるという前提にたったものだ。
 
 金銭にて統一された単純な狭い価値である為に、こうやって作られた世界や文化は多様性を持つ事はできない。やがてはコカコーラ・マックが世界を被い尽くすように、均質で平凡で、エントロピーの終焉のような未来を作り出すだろう。(それまでに世界が破綻しなければという事になるが)

 そもそもTPPとは何だ、自分たちの文化で自分たちが選択したものを、なぜ企業家の為に変える必要がある。 どうして自分たちが暮らす自分たちの国の事を、自分で決められなくなるのだ。そういった狭い価値にて凝り固まった文化は、やがては硬直化して衰退するしかないだろう。少なくとも、つまらない世の中にしかならないと思う。故に私は、これからの時代は個々の尊厳というものを、どうやって維持するか、守るかが重要なテーマになると考えている。