2013年1月13日日曜日

体罰顧問の問題は「体罰」にあるのではない


 大阪市立桜宮高校の男子バスケットボール部主将が自殺した問題で、部顧問教師の体罰についてのニュースが最近では話題となっているが、どうもメディアに取り上げられる議論がまたおかしな方向へ進んでいるような気がするので私も考えを整理する為にコメントしておく。

 まず生徒が自殺した原因は「体罰」によるという論調が多く、また各種の意見も体罰を容認/否認というような視点で書かれてるものを多く見かける。でも、もう少しこの部分の本質を考えて欲しい。

 私が考えるに生徒が自殺をしたのは、「体罰」による肉体的な痛みではなく、どこへも逃げ道がなくなって追いつめられた「精神的な絶望感」によるものである。だから問題は「体罰」の有無ではなく、いったいどのように生徒を追いつめていったのかという、学校社会や周りの人間によるコミュニケーションを調べて考えるべきである。

 なぜならば、仮にこの問題により学校で「体罰」が禁止されてゼロになったとする。ならば問題を起こした部門講師は体罰ではなく、代わりの問題へ生徒を脅迫するだろうと考えられるからだ。暴力を使わなくても人間を追いつめる方法は幾つでもある、教師と生徒の関係ならば、内申書で脅すとか、あるいはチームメイトに迷惑をかけるとか、両親や関係者を失望させるとか、いくらでも方法はある。
 そして私的な見解を言えば、こうやって言葉で脅される方が「体罰」などというものよりは、はるかにキツイ。だから問題は暴力部分よりも、むしろ生徒を脅して追いつめてゆくコミュニケーションにある。今回の問題では教師は「体罰+言葉による追いこみ」をかけ続けていたわけで、一歩誤れば相手を精神的においつめて崩壊させるような危うい関係だったのだと思う。

 ちなみにこの問題は内田樹の著書「呪いの時代」に、呪いのコミュニケーションとして書かれているものと同じである。大まかな抜粋であるが呪いのコミュニケーションとは何かを説明すると・・・
 例えば両親が子供に、おまえの為を思っているから厳しくする、お前に為にこうした、ああした、と言い続けるようなコミュニケーションの仕方である。こういう関係は学校でも会社でもよく見かけるものだ。ではどこが問題になるのかと言えば、「お前の為だ」という言葉で相手を支配し従属させようと縛り付ける所にある。そしてこの方法は旧日本帝国軍やナチス的な独裁世界で相手を縛りつけて従属させるのと、基本的には同じ手段である。
 ちなみに縛ろうとする側は、本当に善意からくる場合もあれば、ブラック企業的に戦略して行っているものまでさまざまであり、実際には善意からくるかどうかなどは良くわからない。実際には単に自身の支配欲を満足させる為に、相手を縛り付けている人も多く、それでも自分自身では善意からの行為であると勘違いしている例がある。だからこの問題は善意の有無では量れない。この問題について考える人は、この点を考慮して欲しい。

 なお私自身の意見としては、元巨人の「桑田」氏と同じで体罰は基本的に不要と考えている。例えばちょっと平手打ちを加えるぐらいを厳密にNGとするかなど細かい部分はいいのだが、体罰が無いと優秀な生徒を育てられないというのは馬鹿げた誤解である。
 そもそも一流の人間というのは定型の押しつけや強要では作れない。体罰的な強要と押しつけで作れるのは所詮は二流・三流の人間である。しかも高校生のように言葉で会話する能力がすでにあり、自分で考える事が出来るまでに育った人間に対して、体罰で縛ろうというのはコミュニケーションとしては「下」の手段だと思う。

 またこの問題を通じて思い出したのは、日本の自殺率が先進国のなかではずばぬけて高いという問題だ。今回の体罰の問題でネットの記事やニュースなどの反応を見て解ったのは、特に日本は「呪いのコミュニケーション」が多いという事だ。相手を支配する、縛らないといけないという、強迫観念がどうも日本社会では多いようだ。それは学校でも社会でも家庭でもあり、それが人を追いつめて死へと追いやっているのだと考えられる。
 

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