2013年1月20日日曜日

経済学者を信じるな!!(その2)グローバル化の到達点

 今回はグローバル化は必然なのか、そして何が問題なのかという事について考えてみたい。

1)そもそもグローバル化とは何か
 Wikipediaを見ると、グローバル化(グローバリゼーション)とは、

 「社会的あるいは経済的な関連が、旧来の国家や地域などの境界を越えて、地球規模に拡大して様々な変化を引き起こす現象である。」

 というように説明されている。もともとの語源としては、大航海時代から始まる世界交流のながれに経済的なつながりを指すという事のようだ。だが私が問題視してブログで記載している「グローバル化」というのは、東西冷戦後の多国籍企業が力を持ち、金融資本主義による投機マネーが実態経済を超えて世の中を動かすようになった現象を合わせた物という意図でこの言葉を使っている。あるいは「グローバル資本主義」という方がより適切なのかもしれない。

 だが社会および文化的問題としてとらえるならば、現状は「国民国家」VS「グローバル資本主義」というべき状況で、これらの状況をひっくるめて言うと「グローバル化」という言い方の方がしっくりする。


2)国民国家 VS グローバル資本主義
 数年前までは、私もあんまり深く考えずに「グローバル化」は必然だ、これからは「イノベーション」によって経済を活発化させるべきだなどと思っていた。だが3.11の原発事故とそのあとのTPP論争などを考えるつけて、これは駄目だと思うようになった。だが同時にグローバル化という言葉だけが一人歩きするこの流れの大きさについては、絶望的にすらなるようになった。

 それは「現在の社会を動かしているのは誰か?」という問いに対して、結局は巨大資本家、多国籍企業だという事に行き着いたからだ。3.11以降の原子力に対する欺瞞や巨大な問題、そして被災地復興よりも優先視されていたTPPなどと鑑みて、つくづく一般国民の声はもうどこにも届かなくなったのだなと思うようになった。つまり、誰も一般国民の意思を代弁する者がいないという事に決定的に気付かされた経験だった。

 「政府」は起業家や投資家に支配され「メディア」「司法」「学会」も同様だ。一般国民の利益を代弁する者はほとんどない。唯一それが可能なのは「インターネット」の世界であるが、そこも利権による支配化が進み始めており、油断はできない状況にある。

 私は3.11以降で「原子力」の問題について考えるようになり、それにまつわる記事などを色々と見て回っていたが、「原子力」はまさに利権の塊であり資本の力に支配された世界である。それはつまりは、資本家以外の声を届ける代弁者が無くなったという事を意味していた。その代表がグローバル企業を動かす巨大資本家達である。
 結局のところ、現在の多くの先進諸国を支配しているのは国民の意思ではなく、巨大資本家によって流され続けているメッセージなのだ。主役は既に国民ではなくなったというのは言い過ぎかもしれないが、ずっと「国民国家 VS グローバル資本主義」という戦いが繰り広げられており、私の見たてではグローバル資本主義にずっと軍配が上がっている。

3)グローバル化の問題とは何か?
 この問題は色々な所で論じられているが、シックリくる説明をみた事はあまりない。そして大抵の議論がうまく行っていないのは、グローバル化を経済だけの問題と考えて、損得だけで論じようとしているかだ。しかし私に言わせれば、グローバル化の問題は経済というよりは、むしろ世界のあり方などの文化的/社会的な問題として考えるべき事である。
 だから問題を解りやすくする為に、次のような思考実験形式でこのテーマについて考えてみたい。それは「グローバル化が究極に進んだ世界とはどのようなものか?」と問う事である。この事によって果たしてグローバル化とは何を目指しているのかが明確になってくる。

<グローバル化が究極に進んだ世界とは>
 グローバル資本主義が目指す世界像とは、私の独断と偏見も交えた意見として言えば「商売をするのに最適な世界」という事になる。具体的には下記のポイントを目指す世界の事だ。

・統一されたプラットフォーム
 法律や商業ルールが同じである。極限までに無駄が省かれた世界。

・国境が存在しない事
 物品が自由に行き来可能な事。これは労働者についても同様である。

・ルールを決めるのは資本
 発言権は資本によって定まる。正義は利益にありといったところだろう。

 自由にどこでも制約なしに金儲けがしやすい世界というのは、つまりは上記3つを満たした状態だ。そしてその帰結として次のような事が必然的に起こる。

・国家は不要となる
・文化的、宗教的な差異も不要

 これはあるいは、よく描かれる近未来の理想郷として見えるかもしれない。だが私はこのような世界というのは、多様性を失った貧しい世界だと考えている。

 私は3.11の原発問題を考えるにつけて、結果的に何が一番問題なのかというと「持続可能な社会ではない」という事に尽きると考えるようになった。つまり現在の社会というのは、近視眼的な利益やしがらみを優先し、課題をどんどん未来に積み残す(あるいは未来を先取りして食い尽くす)あやうい社会だという事だ。

 そして同時に「ではどのような社会が持続可能なのか?」という問いについて考えるようになった。これはとても難しい問いであり、この考えを進めるに至るヒントは自然界および過去の人間の歴史にしかない。中でも自然界のモデルについて考えるようになった。

 そこで導きだされるキーワードが次のようなポイントだ。
・多様性に満ちた世界
・変化の速度よりも、無駄をも含んだ実験的な世界

 思えば生物進化というのは、気の長い時間をかけた実験によるゆるやかな変化の積み重ねである。最適をめざさず、多様性を維持しているから、バランスが壊れても自動調整をするような安定した系を築けるのだ。これは現在の何度もバブル崩壊でピンチを迎える資本社会とはまさに対照的である。

4)結論
 上記のような考えを経て、私は結論として「いかにすれば多様性のある安定した持続可能な社会を構築できるか」という事を考えるようになった。そして同時にグローバル化とは進化の必然ではなく、むしろ進化の袋小路になりかねないものだと思うようになった。

 だが現在のメディアでは安易にグローバル化を進める声が多い。TPPについての議論がまさに示している。TPPは農業だけの問題ではない、これは国家主権や文化のあり方に対する重大の問題である。だがメディはそれを伝えない。そしてそれらの伝道師が多くの「経済学者」である。
 学者の仕事は本来は、色々な可能性を追求する事で、だれかに道を押し付けることではない。故に私は「経済学者を信用するな」と言い続けているのである。

<参考>
・国民国家とグローバル資本主義について
 http://blog.tatsuru.com/2012/12/19_1126.php


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