2013年1月16日水曜日

経済学者を信じるな!!(その1)

「経済学者を信じるな」

 最近はなんだかこの言葉が自分の合い言葉にでもなったように、時折頭に浮かんでくる。この想いを具体的に説明するのは困難だ。何度かこのブログではTPPとグローバル化に対して記事をかいてはきたが、それでもまだうまく説明できていない気がする。だから、初心に戻って私自身の頭の中身を整理しながら、もう一度この言葉の示す意味を書こうと思う。

 まずこの言葉に至る経緯を書こう。私はソフトウェア開発や設計に関わるものだが、元々は政治などにはあまり関心もなく、また投資だの経済なのにもほとんど関心はなかった。だがもともと科学技術などは好きだし、社会をシステム論としてどう見るかという点においては多少の興味はあった。

 その私がグローバル化や金融資本主義について考え、現在の主流を占めているこれらの潮流に対して、「やっぱりこれはオカシイのではないか」とか、「この現状はシステム設計として考えればバグに等しく、誤った状態なのではないか」と考えるに至ったのは、3.11の東北大震災および原発事故後における日本の不合理さを目の当たりにしたからだ。

 今回のテーマは原発ではないので、あまり詳しくこの問題について語らないが、原発事故とその後の政府やメディアの対応には私は強い衝撃を受けた。
 何よりも驚いたのは、あれだけの事故があっても、それでも原発を継続しよう、問題をごまかそうと考えている人々が多数あって、それにメディアも、また多くの人も追従している事である。私はそれらのメカニズムを理解しようと苦心したが、結果的にはあきらめて途方に暮れてしまった。
 簡単なたとえで言えば、パチンコで大損した人が、それでもパチンコ止められずに適当な理屈こねてやっているとでもいうような、理性的に考えればどうにもメリットがなく、また近い将来的には手ひどい破綻が解りきっている事にしがみつく人々が、権力層、知識人層も含めて多数いるという事には本当に驚かされた。(正直言えば、ここまで日本人がバカだとは思ってなかった・・・)

 そう言った不条理、例として原発であれば、どう考えても経済的な合理性がないはずなのにそれを進める愚行を目にしてから、やっぱり色んな事柄をもっと自分の頭で考えないといけないなと痛感させられた。そしてこの問題に目を向けると、どうしても近代の経済的な思想、TPPに代表されるグローバル化というものと、金融資本主義というものを避けては問題は考えられないと思うようになった。

 そして新自由主義を気取ったエリートの愚行ともいうべき現状について考えるようになった。私は科学者ではないので、イメージ的な説明になってしまうが、現在のグローバル化や金融資本主義が支配する社会は、ウロボロスの蛇のように自分自身の尾を食らうように見える。何度も世界経済を破綻させ、そして近々大破綻させる事が目の前にせまっても、彼らは反省もしないしゲームを止めようともしない。パチンコ中毒のジャンキーよりもたちが悪く、レートを上げる事しか彼らの頭にはないようだ。

 それらを冷静に考えた際に、今流行のグローバル化などで競争に慌てて参加してもみくちゃにされるより、そもそもこのゲームが妥当なのかゴールがあるかをシステムレベルで考え直すべきなのではないかと思うようになった。

 だがこの問題を説明するのはとても難しいことだ。理由はそもそも私が経済学者でも専門家でもないこと。そして現在は新自由主義者ばかりで、グローバル化以外の方法論を探そうとするものや示す学者がほとんどいない事がある。もしも経済学という言語でこれらを説明しようとすれば、これらの問題を指摘するのは困難だろう。
 では、なぜ私はこれに異論を挟むのかといえば、私は経済学的な視点ではなく、むしろシステム論や自然界における生物界と比較する事によってである。

 例えばグローバル化の究極の到達点というものを仮定して想像してみよう。私が推測するに、それは下記の状態へ辿り着くと思われる。
・世界中の国境がなくなる事
・言語や法律、社会ルールが統一される事
・文化的な差異が地域によってほとんどない事

 金融資本主義および経済最優先思想のグローバル化がゆきつく究極は、世界は統一されたプラットフォームとなり、商売をするのに最適な世界である事だ。そしてその障害となるような差異(例えば宗教、言語、文化)といったものは、巧みに弱められ、やがては消滅の危機に瀕するだろうと思う。
 
 これが彼らの示す未来の世界像である。無意識もしくは意識的に現在進められている進化の到達点はこの状態である。だからグローバル化が第一などと考える人はまずこの状態を想像して欲しい。この世界を良しとするならば、グローバル化もいいだろう。もちろんここに至るのは究極で困難な道のりである。そして経済危機を何度もおこしていることからも、ゴールに辿り着けるかどうかも不明である。あるいは何度か世界を滅ぼすだけのトラブルを引き起こした上で、到達できる極めて困難な道かもしれない。

 そして私はこの未来に対して「NO」である。それは経済がどうの豊かさがどうのという問題ではない。私は自然界の多様性に満ちた世界はある意味、非効率であっても理想的なシステム構造だと考えている。その考えからすれば、上記の究極の世界というのは、多様性が消失して、停滞した駄目なゴールにしか見えない。至れる可能性も少なければ、また継続可能性を持つ未来にも思えない。

 ゆえに私はグローバル化が示すような単純化された閉じられた未来図には反逆すべきと考える。これは経済の問題ではなく、文化や社会システム論としてとらえるべき問題だ。だから、私の目には「経済学者」は中世期に十字軍を率いて大量の無駄な血をながさせた宣教師達のごとく不毛でいかがわしい連中に見えてしまう。言葉足らずで自分でも歯がゆいが、これが私が経済学者を信じるなという理由である。


0 件のコメント:

コメントを投稿