2013年12月28日土曜日

安倍総理の靖国参拝で感じた失望

 安倍総理が靖国参拝をしたというニュースを聞いた時に、怒りというよりも深い失望のようなものを感じた。”ああ、やっぱりこの人は馬鹿だったんだ”といったようなものだ、そして同時に色々と考える所があったので記事を書く事にした。

 前もって説明すると、私は靖国神社に対する参拝そのものは特に賛成/反対といった意見はない。ただし私人が参拝するには問題ないが、政治家が参拝するにはその意味を十分に理解しているのかどうかは考えて欲しいと思っている。

 もしも私が政治家ならば靖国神社に参拝するのは躊躇するだろう。それは別に近隣諸国との関係云々という事を置いておいても、靖国神社が建てられてから第二次大戦までの歴史は、同神社がずっと政治利用されてきた歴史であるからだ、その歪な経緯を理解すれば、たんに戦没者を慰霊するという意味での参加はどこか引っかかりを拭いきれない。
 靖国神社の事を知らない人の為に補足すると、具体的には次のような理由がある。(だいぶ前に読んだ書籍の内容を思い出して書くので、細部では誤りがあるかもしれないが概ねは次のような物だったと思う)

1)比較的に歴史が浅い神社
 靖国神社が建てられたのは明治以降であり比較的新しい神社である。あんまり日本で最も重要な神社というわけでも、本来はない。

2)神社と政治のからみ
 靖国神社は明治政府によって作られて、目的や意図も軍国主義のシンボルとして利用してきた。これは、やはりどう贔屓目に見た所で、歴史的な経緯をみると”政治利用の為に作った施設じゃない”という事は否定できないと思う。

3)神社の慰霊対象
 軍国主義時代の政治利用されるような神社だから、慰霊対象は戦没者である。そういう意味では戦犯も戦死者も代わりはないのかもしれない。むしろポイントなのは、対象はあくまでも戦死者で戦時中の病死者や事故死者および例えば空襲で死亡した市民などは慰霊に含まれていない事だ。
 私が最大にひっかかるのがここで、平和を願うとかなんとかいうタテマエには無理があるだろうと思っている。仮に慰霊対象が戦時中の全ての日本人、もしくはアジア人だったら、まだ純粋に死者を悼む施設だというのも納得はできるのだが・・・。

 上記理由で、私はあまり靖国神社を特別視するような扱いには反対である。神社として存続するならば、ただの神社としてあって欲しいと思っている。だから私人は良いが、政治家が参拝というのは、正直いって反対である。

 ただし今回の安倍総理の参拝で問題だと思ったのは、わざわざ中国での毛沢東生誕日を狙っていった事であり、タイミングが悪すぎる。アメリカがクレーム付けたくなるように”なんでわざわざいまやるの?”というのに、多くの国や私のように失望を感じた人が多かったのだろう。これは政治家としてはかなり致命的な失策にしか見えない。(しかもやらなくて良い事やったという意味では、アホじゃない?と突っ込まれてもしょうがない)

1)中国のメンツを潰す
 領土でもめても、ちょっとずつ話をつめて改善しようとするのに大きな楔をさした。

2)韓国へ不要な理由を与えた
 韓国が日本へインネンつける大きな理由をわざわざ与えた。いままでは韓国の極端な反日に対して、日本のまっとうさをイメージ付けれる所もあったが、これで無駄に理由を与えた。

3)アメリカへの失望
 アメリカも本音としては、この馬鹿が無駄な問題起こしやがってと思っただろう。

 しかし最大の問題は、安倍総理はいったい何の為に参拝したのかという事である。そしてどう考えても、たいした理由が思いつかないという事に、最大の問題がある。なんとなくは中韓の反発あるから、腹いせに参拝したぐらいにしか見えない事だ。あるいは前に参拝できなかったので、言った事をやるというだけだったのではなないか? どう考えても高度な戦略があるとは思えない。

 つまり、安倍総理の頭の中ではゴールが靖国参拝であって、その後の事はあんまり考えてないということだ。これが最大の問題であり、懸念である。今回の件で、私はこの人のゴールっていうのはメチャメチャ直近の事なんだろうなとつくづく思った。
 総理大臣ならばゴールは「国家の安全」「国民を安定して喰わす事」といった事をゴールして欲しいのだが、安倍総理は「靖国参拝」「集団自衛権」をゴールにしていて、その後の事はあんまり考えてないのじゃないのかという気がする。(やりたい事をやりました、言われた事をやりました的な感じで、まるで小学生じゃないの・・・到底政治家とはよべない・・・)
 そしてこんなアホで平和ボケした人物が日本のトップであるという事に、今回は失望と同時にちょっと恐怖を感じた。こんな人物に未来が左右されるなんて・・・。たのむから何か深い考えがあって欲しい・・・。

2013年12月23日月曜日

尊厳をなくした社会

 このブログでは度々、TPPをきっかけとしてグローバル化に対する反対論などを書いてきた。ただしこのテーマについては、何度も書きながらもどこか問題をうまく説明できていないような思いがあった。それが最近のVIDEO NEWSで宮台真司の会話で何度か登場した「尊厳」という言葉を聞いて、この言葉を使えばもう少しうまく説明できるような気がして、久しぶりにブログを更新してみる事にした。

 私がグローバル化に対して反対をしている最大の理由と根拠は1点であり、それは「多様性を失った生態系は滅ぶしかない」という生物学的な視点からの指摘だ。こういう考えに至った経緯は、3.11原発事故及びその後の社会の動きを見て、多くの疑問が頭によぎるようになったからである。

 政府が今まで頑張って進めてきたエネルギー政策というものは、結局は原発をどんどん作り続ける程度のもので、結局はだれも真面目に取り組んでなかった事が明らかになった。過去のしがらみと目先の利益で、発電業界の利権をまもるだけに終始し、結果的に致命的な問題を起こしてしまった。しかもその反省もほとんどしていないように見える。

 だが私がもっとも愕然としたのは「我々のような一般人(国民)の声を代弁する者がどこにも居なく無くなっていた」という事である。これは3.11の事故から、どうしても原発問題(現在進行中の問題も含めて)について考えたり、調べたりする必要があり、その時に痛感したからだ。
 資本家(発電業界)は政治家・官僚・マスコミ・学界を豊富な資金で実質ほとんど懐柔済みであり、マスコミを通じて一般人はほとんど洗脳(無知)に近い状態にある。さらに言えば、政治家や官僚を通じて司法や検察も資本家の意思で歪められていると思われる形跡がある。

 これはTPPの問題についても同じような構造である。グローバル資本(企業)は商売をしやすいようにする為に、ついには各国の文化や社会についても介入をし始め、これも発電利権と同様にマスコミや政治家などを懐柔すみなので、ずるずるとまずい方向に進みだしている。

 私が前に述べた「多様性を失った生態系は滅ぶしかない」と考えるようになった理由は、原発やTPPの問題を通じて、我々が暮らす社会は結局は全ての問題を先送りしながら目先の問題に終始するだけのもので、到底「継続可能な社会(文明)」ではないなと考えるようになったからである。そして継続可能なモデルとは何かと考えた時に、私には現在の自然界というモデルしか思いつかなかったからだ。

 現在ある自然界というのは数100万単位の年数を経て進化してきた最も安定したモデルである。このモデルを支えるのは、我々が普通にビジネスで目指すようなスピードと効率ではなく、ゆっくりとした変化と多様性である。このモデルから、私は継続可能なモデルにもっとも重要なのは多様性を担保する事だろうと考えた。
 これは現在のコンピュータシステムで言えばインターネットのような分散型システムであり、過去にコンピュータシステムがメインフレーム中心の中央集権的なモデルだったのが、柔軟さと安定性を求めてインターネットに代表されるような妥当な進化の方向性と言えるだろう。
 そして文化的に言えば、過去の王朝や独裁体制が徐々に廃れていって、民主主義のような分散型でありまた、ゆっくりと変わってゆく構造を選んだのとも同じものだとも読み取れる。
 ゆえに私は、大きな目でみた場合のモデルとして必ず必要になるのは「多様性」だと考えている。

 そこで冒頭に書いた「尊厳」というキーワードがどう関係するのかと言えば、「多様性」を支えるのがまさに「尊厳」ではないかと思いついたからだ。

 「大(だい)の虫を生かして小の虫を殺す」というのは古くからあることわざで、私達はビジネスの現場、もしくは家庭のなかでも、そして国家や会社という枠組みの中でも、少数者の声を採用せずに物事を進めてゆかなければならない時がある。それは必ずどこかで必要な事でもあるのだが、少数者を無視する事が良い=妥当で効率化などという考え方は、多くの誤りを産み出してしまう。
 それは短期的には良い方法に見えても、長期的に見た場合には幾つもある可能性を放棄して硬直した結果で衰退へと向かう道でもあるからだ。生物学の視点では「適応しすぎた種は滅ぶ」という言い方が昔からあったが、まさに効率化を最大で最優先にした組織や文化はゆえに滅ぶしかなくなるのだと思う。

 そして少数者(マイノリティ)をどう扱うかという為に必要となるのが「尊厳」というキーワードである。私達一人一人には尊厳がある。私の家族や文化、ひいては所属する会社や国家にだって、それぞれの尊厳がある。そう考える以外には、先ほどまで何度も述べてきた「多様性」を支える事ができない。
 おそらくは現在もっとも廃れて、忘れ去られているのは「尊厳」というキーワードだろう。実際に私も長い間、忘れていたような気がする。そして「尊厳」を最も著しく毀損しようとしているのが「グローバル化」である。

 例えば、「貴方が居なくなっても仕事のかわりは誰でもできる」「貴国と取引しなくても他国と取引するので問題ない」「単価があがるようならば他国へ製産ラインを移す」これらの言葉は個々の尊厳を考慮しておらず、この世のあらゆる価値は金銭にて代替え可能又は評価可能であるという前提にたったものだ。
 
 金銭にて統一された単純な狭い価値である為に、こうやって作られた世界や文化は多様性を持つ事はできない。やがてはコカコーラ・マックが世界を被い尽くすように、均質で平凡で、エントロピーの終焉のような未来を作り出すだろう。(それまでに世界が破綻しなければという事になるが)

 そもそもTPPとは何だ、自分たちの文化で自分たちが選択したものを、なぜ企業家の為に変える必要がある。 どうして自分たちが暮らす自分たちの国の事を、自分で決められなくなるのだ。そういった狭い価値にて凝り固まった文化は、やがては硬直化して衰退するしかないだろう。少なくとも、つまらない世の中にしかならないと思う。故に私は、これからの時代は個々の尊厳というものを、どうやって維持するか、守るかが重要なテーマになると考えている。

2013年5月3日金曜日

「COCOON(コクーン)/今日マチ子」を読んで


 ふと読んでみた今日マチ子のCOCOONが頭から離れなくなってしまった。仕方がないので、久しぶりにブログを書く事にした。

 「COCOON」とは繭のことで、この作品(漫画)は第二次大戦末期のひめゆりの塔をモチーフに、ごく普通の少女が残酷な戦争の現場で出会った出来事について書かれている。絵はどちらかというと、素朴な絵で残酷な場面でもさらったした感じなのだが、この素朴さゆえに、よけいに読み終わったあとでこの物語が頭から離れなくなった。

 ちなみに、いちおう誤解が無いように述べておくと、私は朝鮮半島の緊張や、ちょうど話題になった靖国や過去の戦争犯罪といった今風の流れでこの本を手に取ったのではない。何か読みたいなと思って本屋で物色していた際に、どこかで聞いたようなタイトルだなと思って手にとっただけだ。
 別にイデオロギーでもヒューマニズムでもなんでもない、ただの偶然としてこの作品を読んだ。

 そして読み終わってから、何とも言えないような気分になった。悲しみでも怒りでもなく、ただ脱力するような、あるいは切ないような、さみしいような気分だった。実際に私はこの気持ちはなんなのだろうと自問自答を繰り返しもした。

 この作品の最大の特徴は、きわめて少女の主観的な視点で、できごとや場面での感情が淡々と描き続けられていることだ。そこには第三者的な視点、つまり批判や評論、総括的なものはなく、読者はただ夢の中で遭遇した場面のように、目の前で起きる出来事を受け入れるしかない。
 そして主人公の少女(約70年前)の素朴な思考や感覚で語られる世界は、とても当たり前の事として残酷な現実が描かれている。悪夢のような世界を読者は追体験する。だからこそだろう、この作品はさらりと読めるが、読んだ後で何とも言えない気持ちとなった。
 
 ちなみに、これから読もうと考える人もいると思うので言っておく。これは良い作品であり、好き嫌いに関わらずいつか読んでみる価値はあるだろう。そして読み終わったあとで、やり場のない感情をただ受け入れれば良い。

 この作品がそうであったように、私はよくあるような「戦争の悲劇」や「残酷や悲惨さ」といった話をして、戦争や過去の善し悪しを語りはしない。この複雑な想いを、そんな簡単な言葉で片付けたくはない。急いで答えを求めるようなものでもない。
 だから私は、あえてここでは戦争の何なのだとヒューマニズム的な事は書きはしない。そんな安っぽいセリフは使いたくない。

 私はただ、この何とも言えない感情に戸惑い、そして同様の想いを感じさせてくれた他の作品(漫画)を思い出した。「EDEN/遠藤浩輝」という作品で、この物語はストーリや設定も良いのだけれども、それよりも「ただただ残酷な現実が何の解決もされずに続いてゆく」そこが好きだった。
 無理に、あるいは安易に答えを出すのではなく、悩み苦しみながらも世界は無情に動いてゆく、そこには善悪といった説明ではなく、ただただ「あるがままに」世界はあってそれを受け入れてゆく、そこが良い。
 でなくても、我々は普段、安易な答えを求めすぎているからだ。そうではなく、言葉で説明できるような答えは無く、悩み苦しみ、それゆえに成長の可能性が感じられる、そう言った物語である。

 ああそうだ、つまり言いたかったのは私は答えが聞きたいわけではなく、ただありのままを知りたいという事だったのかもしれない・・・。

2013年3月10日日曜日

完全に終わった日本の警察

 PC遠隔捜査事件については、私も興味があって関連記事にはだいたい読んでいるのだが、警察+検察の対応内容を知るたびに毎回暗い気分になる。その理由は過去に4人もの冤罪を産み出しておきながらも、どうやら警察は片山容疑者に大しても自白を強要して無理矢理に犯罪者に仕立て上げる事になりそうだからである。
 正直いって、もはや彼ら(警察+検察)が何をしたいのか意味不明だ。そして、もはや刑事組織が正しく機能しなくなったと認めるしかないようだ。

 私は片山容疑者が逮捕されてからずっと「もはや自白などでは納得できない」と思っていた。過去にあれだけ冤罪を産み出し、拘束した容疑者に洗脳のような捜査(脅迫?)を繰り返して、たいした物証はないのに、自白だけで犯人に仕立て上げてきた経緯がある。だからもしも片山容疑者が自白したとしても、それだけでは、当然の事ながら「また警察のでっちあげなのではないか?」という疑問を払拭する事はできない。

 なのに・・・それでも自白にこだわるの? 片山容疑者に執着するのか?(可視化すればいいじゃない)

 ぶっちゃけ言えば、私は警察が犯人を捕まえられなくても別に責める気持ちは何も無い。また片山容疑者が本当は犯人であって、起訴できなくて釈放でもかまわない。もっと大事なのは、本来の仕事を正しくして欲しい事であり、一般社会での信頼を取り戻す事だ。

 冷静に考えれば、ここは普通に本来の仕事をすればいいだけだったのだ。片山容疑者を逮捕したのはよしとして、もう十分にパソコンもアリバイも調査できただろう。その結果で、起訴相当ならばすればいいし、不十分なら釈放すればいい。だれも無理矢理犯罪者に仕立て上げろなどとは望んでいない。
 本来はプロとしてクールに結果を判断し、必要な仕事を淡々とつづければいいだけなのだ。

 なのに、彼らは固執した。クールさもなく、無様な仕事をつづけている。おそらく、やがては全てを失うのだろう。

1)PC遠隔捜査事件の解決が遠のく
 ・片山容疑者の冤罪の可能性は高いと思う
 (片山容疑者に拘って、本来の真犯人を逃しているのでは)

2)警察・検察の信頼喪失
 ・自白強要ではだれも信頼できない、また冤罪と思うだけ
 ・取調可視化への異様な拒否、ちゃんと捜査する能力ないのか?
 ・母親に縁切り状催促などの、もはや捜査とは呼べない対応など
 ・過剰なマスコミリーク、空気で犯罪者かどうか決まるわけではないだろうに?
 
3)警察・検察の能力低下の証明
 ・結局のところ、無理矢理自白取る以外の捜査能力ないんじゃないの?

4)警察・検察のメンツ喪失
 ・仮に片山容疑者を起訴しても、メンツ保てるわけじゃないだろう?
 (むしろ正しい捜査をして、それで信頼とメンツを回復して欲しかった)

 色々と思う事があるが、もう私には、彼らが何を守ろうとしているのか解らない。今のやり方ではメンツも信頼も全てを無くすだろう。

 そろそろ本格的に、第2警察的な新たな組織を作る必要があるのかもしれない。彼らに期待するのは、どうやら無駄なようだ。


 最後にもう一つ、心配なので念の為に書いておく。もっとも最悪で最終の手段は、片山容疑者が獄内で変死して事件が闇に葬られる事だ。これは馬鹿げた仮定だが、いまの警察の手段を選ばないところからすると、このような愚挙をしないとは言い切れない。
(それは絶対止めてね。もしも容疑者が変死したら、絶対に警察の暗殺だと疑う。むしろ絶対に死なないようにガードするべきだな)


<参考>
・八木啓代のひとりごと パソコン遠隔操作事件:真犯人はほくそ笑んでいることでしょう
 http://nobuyoyagi.blog16.fc2.com/blog-entry-678.html



2013年2月24日日曜日

右左というイデオロギーの無意味さについて


 安倍政権になってからネットを眺めていると、ネトウヨだと思われる書き込みで「このサヨクの売国奴が・・・」的な罵倒を見かける事が多くなった。
 なるほど、サヨクというのは、まるで一種の差別用語のようだ。しかも最近ではちょっと流行になっている感もあるようで、ときどき場違いなサヨク罵倒的な発言を見かけることがある。例えば「それって右とか左の問題じゃないでしょう?」というテーマなのに、サヨク野郎的な罵倒に出くわして、悪口にしてもちょっと的外れじゃないの・・・などと考える事があるからだ。

 これらの違和感の正体は、現在の社会は「右翼」「左翼」というカテゴリに分かれていないし、そのような道理でも動いておらず、そもそもそんな分け方にあまり意味がないからだ。
 例えば街頭で「あなたは左翼ですか、右翼ですか?」などと質問をされたら、きっと大抵の人は答えに困るだろう。だが、もしも質問内容が「あなたはマヨラーですか? Y/N」ならば誰もが悩まずに答えられるだろう。つまり、右とか左という分け方は、現在の政治なりし社会の分け方として、あまり意味がなく、ナンセンスだという事だ。そんな視点で政治を見てもあまり意味はないと思う。

 それよりも、むしろ今ならば、「あなたはグローバリストですか、国民国家主義者ですか?」と問う方がより明確にその人の立ち位置を示すのにいいし、今まさに岐路にたっている日本の進むべき方向を問う事になる。私の主観込みになるが、具体的に例をあげると、各主要政党のスタンスは概ね次のようになっていると思われる。

<グローバリスト/国家主義者>
 ※ちょっと強引にわけた結果
 ・自民党   →グローバリスト
 ・維新の会  →グローバリスト
 ・みんなの党 →グローバリスト
 ・民主党   →グローバリスト
 ・未来の党  →国民国家主義者
 ・社民党   →国民国家主義者
 ・共産党   →国民国家主義者

 そして、次のような特色を持っている。

 1)グローバリスト
  市場原理主義(小さな政府)
  格差肯定(トリクルダウン理論)、株主優先とした社会形成、TPP推進
  →はっきりいって、社会の1%側優先の政治

 2)国民国家主義者
  従来型の国家主体の社会政策(大きな政府)
  格差否定、労働者保護など、TPP反対
  →基本的には、社会の99%優先の政治
   (反TPP、反原発、反消費税増税も実質はこちら側になっていると思う)

 こっちの方がはるかに、重要なカテゴリわけを示している。そしてまさに今の日本の岐路を示している。
 つまりは、今の政治の岐路は、「1% 対 99%の対立の構図」を示しているのだ。

 だが、こっけいなのは、政治家・メディア・知識人達がそろってこれらのカテゴリを無視し、世論操作を繰り返しているおかげで、世間一般の人(99%側)は、自分の首をどんどん締めてゆく1%の政治に引きずられているという事だ。最初に違和感として話したテーマに戻ると、ネトウヨ(99%側)が、アベノミクスのような明らかに1%側を指示して、反対派をサヨクとして切り捨てている。
(まんまと政府やメディアに乗せられている。つまりは、1%側のロビイストの策にハマりまくり)
 
 ちなみに私は、反グローバリストであり、国民国家主義者という事になる。だが別に右でも左でもない。だからこそ選挙で困る。政策としては「反TPP、反原発、反消費税増税」なのだが、これを明確に政策としてやってくれるのは共産党、あとは未来の党や社会党ぐらいしかない。でも私は別に共産主義者でもないし、左翼的だと言われても正直困ってしまう・・・。そして、この困る加減が、現在はいかに国民(99%)側の利益を代弁してくれるものがないかという、この国の最大の問題である。


2013年2月10日日曜日

口を出すのが仕事だと誤解している人々

 このテーマは昔から度々考えていたことだが、たまたま最近ちまたで話題となっている体罰論と微妙に関係があるような気がしてきたので、改めて文章にしてみる。

「口を出すのが仕事だと誤解している人々」

 私が上記で訴えようとしているのは、世間一般に多い中間管理職や代表取り締まりなどの上級管理職についてである。ちなみにこういう人は大企業でも中小企業でも一定割合はいるようで、私の実際の仕事でも、「ああ、なんか勘違いしているんじゃないこの人」とたまに思う事がある。

 具体的に誰もが知っている例を挙げるのは難しいのだけど、最近でニュースを見ながらこれと同じ事を思ったのは「マクドナルド現社長の原田泳幸」についてだ。これを例題としてこのような人たちについて説明したいと思う。
 なお、いちおう誤解がないように説明しておくが、私はマクドナルドに対して特に好きでも嫌いでもなく、この幾つかの件をニュースで知った以外はあまり興味を持った事もない。だから今回記載するのは、あくまでも私が知り得た直近の事実による印象についてである。

 では、なぜマクドナルドに着目したかという所から説明すると、マクドナルドは前年から幾つかの業務改革を行っているが、それを批判する記事を多くネットで見かけてた事、そして記事をみるかぎり、批判されて当然と思われるからである。具体的には次のような改革だ。

<マクドナルドの直近業務改革>
1)店頭のメニュー廃止
2)ENJOY!60秒サービス(商品提供が60秒超えたら無料券提示というやつ)

 上記1)と2)はネットで色々と批判を浴びているので知っている人も多いと思う。細かい説明は省略するが、私がこの件で注目して、また疑問に思っていたのは「そもそもこの改革は誰のメリットになるの?」という事だ。
 上記の2つともユーザーには評価を得られていない。具体的には、メニューがなくて注文に困ったとか、60秒サービスで雜になった商品(例えばぐちゃぐちゃになったバーガ商品)が出てきたといった不満が多い。また同時に店舗側でも客の不満に対応せざるを得なくなり、また作業負荷が高まって大変だというのは容易に推測できる。

 ぶっちゃけ言うと「誰の得にもなってないような事をなんで始めたの?」とツッコミを入れたいことしきりだ。つまり、普通にうまく言っていた事に対して、上からよけいなチャチャを入れて駄目にしたもっとも解りやすい例なのだ。

 では何故に原田社長はこんなよけいな事をさせたのか?(あるいは管理職のだれが、こんなよけいな企画を提案したのか?)だが、なんとなく推測はつく。

 中級もしくは上級管理職というものは、はっきりいって普段下から見れば何をやっているか解らない人たちである。下っ端社員からすればあまり話をする機会もないして仕事している風景も見る事はない。そしてそういう人たちが陥りやすい過ちの一つが、「とにかく部下の仕事に口を挟む事が自分の役割である」という誤解を生むことである。おそらく原田社長はこういう、やってはいけない口を挟んでしまったのだと思う。

 もともと管理職というのは、多くの人からみて客観的に何やっているのか解らない仕事であり。問われるのは結果のみである。だがなんとなく仕事をしているように見せかけたい為に、なんかしないといけないと思い込み、結果としては部下によけいな口を挟んでしまうと言う事も多くあるのではないだろうか。

 もしもこの記事を見ている人がサラリーマンならば、容易にこのような人たちを思いつくのではないだろうか? 別に順風満帆にうまくいっているプロジェクトなのに、上司がつまらないチャチャをいれて困るという事が。例えば、次のようなものだ。
・とにかくどうでもいい事まで報告書を要求する
・うまくいっている事に口を挟んでやり方を変えさせる

 ちなみに私も中間管理職だったこともあるし、プロジェクトマネージャーをする事もあるのでこういった事を要求したくなる気持ちも少しだけわかる。ただ私の場合はだいたい、口を挟みたくなるのをぐっと我慢してすませる事にしている。
 問題が生じる、生じそうだというのならば、口を挟み一緒に問題解決をするのは当然である。だが、問題が起きてない事に口を挟んでよけいな報告をさせたり、手順を変えさせてよけいな負担を生じさせてはいけない。だからついつい口を挟んでしまいそうになるのを、ぐっと我慢して黙る事にしてきた事が多かった。そして概ねそう言ったプロジェクトは良い結果になった。
(口出さない方が、やっている部下とか本人も自分でやった事に自身を持ったりとかマインド面でも良かったしね)

 しかしこういった地味な問題が世間では多くて、けっこう無駄な労力を使っている事が多い。ちなみにマクドナルドは結構売上が下がったようなので、こういう口を挟みたいだけのよけいな改革のツケは大きかったと思う。

 もっと大きな目で見れば、似たような例はいくつも見つかる。例えば、教育委員会が学校によけいな口をだして、現場教師に読みもしないようなレポートを提出して疲弊させているとかもそうだ。そして最近問題になっている体罰教師も相当するかもしれない。
 現場の教師からすると体罰に効果があるかどうかは解らないが、回りから何か仕事しているように見せないといけない為に、あえて体罰をやってしまった的な部分もあるのではないだろうか?
(案外とそういう学校や教師は多いのではないかと思う)

 管理職(マネージャー)の本来の役割は、軍隊で言えば軍師や参謀にあたる事だと思う。作戦をたて、明確な指示をだし、そしてあとは見守る事である。軍師がのんびりしているのは良い事で、作戦が滞り無く行われているという事だ。
 本来はそうなのだが、多くの組織ではなんとなく、残業しているとか忙しそうにしているとか意味なく動き回っている事を仕事をしていると勘違いしている事があまりにも多いように思う。私の経験からすれば、そういう上司はだいたい無能だ、あるいは仕事をはき違えている。

 もっとシンプルにメッセージ化するならば、次のようになる。

「あなたの仕事はパフォーマンスをする事ではなく、結果を出す事だ」

 余計な誤解がなくなれば、本来のもっと適切な事が滞り無く行われて、WIN-WINな結果が出せる機会は多いと思う。

 以上、どうもうまくオチをまとめられないが、ふと思った事を書いてみました。


2013年2月2日土曜日

仮想経済と実態経済


 EUしかり、アメリカしかり、アベノミクスしかり。世界的な経済の問題のなかで、各国の対応や対象は細かい所では違いがあるものの、大きく見ればだいたい同じような事をしているような気がする。つまりは、対応方法は違っても前提となる現状認識が概ね同じだという事なのだろう。
 
 彼らが考える前提事項というものを言葉にするならば、概ね次のようになるだろう。
・我々は永遠に経済成長をし続ける義務がある。
・そして経済成長には終わりが無く、方法を選べば永遠に可能なはずだ。
・ただし実態経済を動かすのは困難な状況にある。
・だから金融パラメータを調整して、世界を思うままに誘導する。

 経済学者ならばもっと小難しい言葉と数字で同じ事を言うだろうが、やや乱暴に要約すると概ね上記と同じような事になるだろう。

 しかし私はこの前提事項について疑念がある。上記のような話を聞かされても、冷静に考えた世界の実態とはどうしても一致していないように感じる。私が感じる世界の現状は次のようなものだ。

・世界経済は飽和しつつある。成長しているように見えるのは金融などの仮想(バーチャル)な場所のみの話である。
・金融中心の経済政策を仮に「仮想経済」というならば、それはすでに実態経済と大きくかけ離れてしまった。
・飽和しつつある世界では先進国が永遠に経済成長する事はない。またする必要もない。
・貧富の差が拡大したおかげで、世界のマーケット全体が結果として縮小した。需要の無い世界では実態経済が成長しようがない。

 私の目には現在の経済政策というのは仮想経済(バーチャルゲーム)という空想と現実をごっちゃにした、ごまかしと妄想の産物にしか思えない。解らないのは、彼らが意図的に「それを行うのか」どうかという部分だ。全員がどうかは解らないが、意図的に行われている部分も多いと感じる。
 仮想経済をいかに進化させても、それで潤うのは仮想世界の住人だけである。一般人に富がおりてくる事もなければ、貧富の差が無くなる事はない。現在行われているのは「ただの仮想経済バブル」である。一般人は分け前には預かれないが、バブルが弾けたあとのツケは押し付けられる。

 もういい加減に、多くの人も気づくべきだと思う。そして自分の頭で考えるべきだ。

 アベノミクスを例にとれば、それはおそらく成功しない。最悪の場合はバブルとなっておおきく国家が弾けるだけとなるだろう。必要なのは、「円が安くなる事」ではなく「通貨があまりぶれずに安定する事である」。そしてGDPが上がる事ではなく、貧富の差が減少して1億人の国民をちゃんと食わせられるかどうかということである。

 彼らはバーチャルな数字に固執しつづけ、そして身近で死んでゆくであろう多くの人をただ見捨てている。しかし皮肉な事に、ネット上でも安倍総理を支持する声はおおく、批判的な意見は少数のようだ。テクノロジーがこれだけ進化しても、それでも多くの人は賢くはならなかったという事なのかもしれない。でも、それでは世の中は良くなりようがないな。

2013年1月27日日曜日

経済学者を信じるな!!(その3)何が正しい政策なのか?

 以前は別段、政治や経済政策などに興味はなかったのだが、TPPなどの問題をみるにつけて色々と私も考えるようになった。その問いは「そもそも、何が正しい経済政策なのか?」という事につきるのだが、これは当初考えていたよりも難しい課題なのだとしばらくして気がついた。ようするに色んな知識人が述べている事はほとんどバラバラであまりまとまった意見がないという事だ。

 これは日本の経済政策を見ると解りやすいのだが、緊縮財政なのか公共事業の投資なのか、円高なのか円安なのかとか、結論どころかあんまりまとまった意見(納得できそうな説明)すらほとんどない状況だ。私はこういうのを見ていて、ついに一つの結論に達した。
 「つまりは、誰もちゃんと解ってないんだ」

 あるいは深読みすると、一般人を煙にまいて一部利権者が甘い汁を吸う。その為に、多くの知識人は愚かな振りをしているのだと見る事もできる。おそらくは中にはそういう人もいるだろう。だが、それを差し引いても、やっぱいみんな良くわかってないのだと思う。
 そもそも解っていたら、EUやアメリカだって簡単に経済復活できているだろうし、おそらくは誰も解っていないのだろうと思う。以前にジョージ・ソロスは書籍で「金融工学は科学とはよべないデタラメなものだ」と言っていたが、現在の経済学そのものが、私から見るとデタラメに見える。

 現状では肩書きの立派な学者が、金利の上げ下げだので経済をコントロールできるかのように言っているが、そろそろ全員がこんな馬鹿話に付き合うのを止めるべきだと私は思う。経済学者がいうのは、賃金をもっと安く、イノベーションだ、金利だ・・・と色々な事をいうが、彼らはもっとも根源的な事を口にだしていない。

 もっと常識的にシンプルに考えれば、日本が経済成長しないこの状態は次のようにまず解釈するべきだ。
・需要がない。(十分に物が出回っている)
・成長がない。(GDPが上がった所で豊かにならない事をみんな知っている)
・金利の上げ下げ。(一般人にはどうでも良い。投資家だけの内輪の話だ)

 政府がやっているのは、既得権益である輸出産業や金融関係への利益を中心とした政策であり、GDPという国民からするとどうでもいい基準での政策ばかりだ。本当に国民が望んだ政策を実施している分けではない。
 大多数の国民が望んでいるのは一攫千金の金儲けではなく、安定した暮らしと未来である。40年前にあって今にない最大の物は、未来に対する信頼や希望である。希望がないから、多くの者は身近なものにしがみつくだろう。5年後にまだ飯が食えるかどうか解らないような、不安定社会で消費が向上するわけがない。またそれなりに豊かな物質があるので、そもそもたいした需要がない。

 経済学者しかり、金利の上げ下げだの小難しい理屈を話すまえに、彼らはもっと謙虚にシンプルにこの現状の問題を見るべきだと思う。問題なのは政治や金利などではなく、もっと大きな社会システムの課題だ。現在のバブルを繰り返し、常に経済破綻に怯えながら、バランスシートをごまかすようね政策や言い訳に終始しているこの世界の状況はあきらかに不自然であり、我々システム屋からすると、あきらかに設計ミスした世界であることは確かなのだから。


2013年1月20日日曜日

経済学者を信じるな!!(その2)グローバル化の到達点

 今回はグローバル化は必然なのか、そして何が問題なのかという事について考えてみたい。

1)そもそもグローバル化とは何か
 Wikipediaを見ると、グローバル化(グローバリゼーション)とは、

 「社会的あるいは経済的な関連が、旧来の国家や地域などの境界を越えて、地球規模に拡大して様々な変化を引き起こす現象である。」

 というように説明されている。もともとの語源としては、大航海時代から始まる世界交流のながれに経済的なつながりを指すという事のようだ。だが私が問題視してブログで記載している「グローバル化」というのは、東西冷戦後の多国籍企業が力を持ち、金融資本主義による投機マネーが実態経済を超えて世の中を動かすようになった現象を合わせた物という意図でこの言葉を使っている。あるいは「グローバル資本主義」という方がより適切なのかもしれない。

 だが社会および文化的問題としてとらえるならば、現状は「国民国家」VS「グローバル資本主義」というべき状況で、これらの状況をひっくるめて言うと「グローバル化」という言い方の方がしっくりする。


2)国民国家 VS グローバル資本主義
 数年前までは、私もあんまり深く考えずに「グローバル化」は必然だ、これからは「イノベーション」によって経済を活発化させるべきだなどと思っていた。だが3.11の原発事故とそのあとのTPP論争などを考えるつけて、これは駄目だと思うようになった。だが同時にグローバル化という言葉だけが一人歩きするこの流れの大きさについては、絶望的にすらなるようになった。

 それは「現在の社会を動かしているのは誰か?」という問いに対して、結局は巨大資本家、多国籍企業だという事に行き着いたからだ。3.11以降の原子力に対する欺瞞や巨大な問題、そして被災地復興よりも優先視されていたTPPなどと鑑みて、つくづく一般国民の声はもうどこにも届かなくなったのだなと思うようになった。つまり、誰も一般国民の意思を代弁する者がいないという事に決定的に気付かされた経験だった。

 「政府」は起業家や投資家に支配され「メディア」「司法」「学会」も同様だ。一般国民の利益を代弁する者はほとんどない。唯一それが可能なのは「インターネット」の世界であるが、そこも利権による支配化が進み始めており、油断はできない状況にある。

 私は3.11以降で「原子力」の問題について考えるようになり、それにまつわる記事などを色々と見て回っていたが、「原子力」はまさに利権の塊であり資本の力に支配された世界である。それはつまりは、資本家以外の声を届ける代弁者が無くなったという事を意味していた。その代表がグローバル企業を動かす巨大資本家達である。
 結局のところ、現在の多くの先進諸国を支配しているのは国民の意思ではなく、巨大資本家によって流され続けているメッセージなのだ。主役は既に国民ではなくなったというのは言い過ぎかもしれないが、ずっと「国民国家 VS グローバル資本主義」という戦いが繰り広げられており、私の見たてではグローバル資本主義にずっと軍配が上がっている。

3)グローバル化の問題とは何か?
 この問題は色々な所で論じられているが、シックリくる説明をみた事はあまりない。そして大抵の議論がうまく行っていないのは、グローバル化を経済だけの問題と考えて、損得だけで論じようとしているかだ。しかし私に言わせれば、グローバル化の問題は経済というよりは、むしろ世界のあり方などの文化的/社会的な問題として考えるべき事である。
 だから問題を解りやすくする為に、次のような思考実験形式でこのテーマについて考えてみたい。それは「グローバル化が究極に進んだ世界とはどのようなものか?」と問う事である。この事によって果たしてグローバル化とは何を目指しているのかが明確になってくる。

<グローバル化が究極に進んだ世界とは>
 グローバル資本主義が目指す世界像とは、私の独断と偏見も交えた意見として言えば「商売をするのに最適な世界」という事になる。具体的には下記のポイントを目指す世界の事だ。

・統一されたプラットフォーム
 法律や商業ルールが同じである。極限までに無駄が省かれた世界。

・国境が存在しない事
 物品が自由に行き来可能な事。これは労働者についても同様である。

・ルールを決めるのは資本
 発言権は資本によって定まる。正義は利益にありといったところだろう。

 自由にどこでも制約なしに金儲けがしやすい世界というのは、つまりは上記3つを満たした状態だ。そしてその帰結として次のような事が必然的に起こる。

・国家は不要となる
・文化的、宗教的な差異も不要

 これはあるいは、よく描かれる近未来の理想郷として見えるかもしれない。だが私はこのような世界というのは、多様性を失った貧しい世界だと考えている。

 私は3.11の原発問題を考えるにつけて、結果的に何が一番問題なのかというと「持続可能な社会ではない」という事に尽きると考えるようになった。つまり現在の社会というのは、近視眼的な利益やしがらみを優先し、課題をどんどん未来に積み残す(あるいは未来を先取りして食い尽くす)あやうい社会だという事だ。

 そして同時に「ではどのような社会が持続可能なのか?」という問いについて考えるようになった。これはとても難しい問いであり、この考えを進めるに至るヒントは自然界および過去の人間の歴史にしかない。中でも自然界のモデルについて考えるようになった。

 そこで導きだされるキーワードが次のようなポイントだ。
・多様性に満ちた世界
・変化の速度よりも、無駄をも含んだ実験的な世界

 思えば生物進化というのは、気の長い時間をかけた実験によるゆるやかな変化の積み重ねである。最適をめざさず、多様性を維持しているから、バランスが壊れても自動調整をするような安定した系を築けるのだ。これは現在の何度もバブル崩壊でピンチを迎える資本社会とはまさに対照的である。

4)結論
 上記のような考えを経て、私は結論として「いかにすれば多様性のある安定した持続可能な社会を構築できるか」という事を考えるようになった。そして同時にグローバル化とは進化の必然ではなく、むしろ進化の袋小路になりかねないものだと思うようになった。

 だが現在のメディアでは安易にグローバル化を進める声が多い。TPPについての議論がまさに示している。TPPは農業だけの問題ではない、これは国家主権や文化のあり方に対する重大の問題である。だがメディはそれを伝えない。そしてそれらの伝道師が多くの「経済学者」である。
 学者の仕事は本来は、色々な可能性を追求する事で、だれかに道を押し付けることではない。故に私は「経済学者を信用するな」と言い続けているのである。

<参考>
・国民国家とグローバル資本主義について
 http://blog.tatsuru.com/2012/12/19_1126.php


2013年1月16日水曜日

経済学者を信じるな!!(その1)

「経済学者を信じるな」

 最近はなんだかこの言葉が自分の合い言葉にでもなったように、時折頭に浮かんでくる。この想いを具体的に説明するのは困難だ。何度かこのブログではTPPとグローバル化に対して記事をかいてはきたが、それでもまだうまく説明できていない気がする。だから、初心に戻って私自身の頭の中身を整理しながら、もう一度この言葉の示す意味を書こうと思う。

 まずこの言葉に至る経緯を書こう。私はソフトウェア開発や設計に関わるものだが、元々は政治などにはあまり関心もなく、また投資だの経済なのにもほとんど関心はなかった。だがもともと科学技術などは好きだし、社会をシステム論としてどう見るかという点においては多少の興味はあった。

 その私がグローバル化や金融資本主義について考え、現在の主流を占めているこれらの潮流に対して、「やっぱりこれはオカシイのではないか」とか、「この現状はシステム設計として考えればバグに等しく、誤った状態なのではないか」と考えるに至ったのは、3.11の東北大震災および原発事故後における日本の不合理さを目の当たりにしたからだ。

 今回のテーマは原発ではないので、あまり詳しくこの問題について語らないが、原発事故とその後の政府やメディアの対応には私は強い衝撃を受けた。
 何よりも驚いたのは、あれだけの事故があっても、それでも原発を継続しよう、問題をごまかそうと考えている人々が多数あって、それにメディアも、また多くの人も追従している事である。私はそれらのメカニズムを理解しようと苦心したが、結果的にはあきらめて途方に暮れてしまった。
 簡単なたとえで言えば、パチンコで大損した人が、それでもパチンコ止められずに適当な理屈こねてやっているとでもいうような、理性的に考えればどうにもメリットがなく、また近い将来的には手ひどい破綻が解りきっている事にしがみつく人々が、権力層、知識人層も含めて多数いるという事には本当に驚かされた。(正直言えば、ここまで日本人がバカだとは思ってなかった・・・)

 そう言った不条理、例として原発であれば、どう考えても経済的な合理性がないはずなのにそれを進める愚行を目にしてから、やっぱり色んな事柄をもっと自分の頭で考えないといけないなと痛感させられた。そしてこの問題に目を向けると、どうしても近代の経済的な思想、TPPに代表されるグローバル化というものと、金融資本主義というものを避けては問題は考えられないと思うようになった。

 そして新自由主義を気取ったエリートの愚行ともいうべき現状について考えるようになった。私は科学者ではないので、イメージ的な説明になってしまうが、現在のグローバル化や金融資本主義が支配する社会は、ウロボロスの蛇のように自分自身の尾を食らうように見える。何度も世界経済を破綻させ、そして近々大破綻させる事が目の前にせまっても、彼らは反省もしないしゲームを止めようともしない。パチンコ中毒のジャンキーよりもたちが悪く、レートを上げる事しか彼らの頭にはないようだ。

 それらを冷静に考えた際に、今流行のグローバル化などで競争に慌てて参加してもみくちゃにされるより、そもそもこのゲームが妥当なのかゴールがあるかをシステムレベルで考え直すべきなのではないかと思うようになった。

 だがこの問題を説明するのはとても難しいことだ。理由はそもそも私が経済学者でも専門家でもないこと。そして現在は新自由主義者ばかりで、グローバル化以外の方法論を探そうとするものや示す学者がほとんどいない事がある。もしも経済学という言語でこれらを説明しようとすれば、これらの問題を指摘するのは困難だろう。
 では、なぜ私はこれに異論を挟むのかといえば、私は経済学的な視点ではなく、むしろシステム論や自然界における生物界と比較する事によってである。

 例えばグローバル化の究極の到達点というものを仮定して想像してみよう。私が推測するに、それは下記の状態へ辿り着くと思われる。
・世界中の国境がなくなる事
・言語や法律、社会ルールが統一される事
・文化的な差異が地域によってほとんどない事

 金融資本主義および経済最優先思想のグローバル化がゆきつく究極は、世界は統一されたプラットフォームとなり、商売をするのに最適な世界である事だ。そしてその障害となるような差異(例えば宗教、言語、文化)といったものは、巧みに弱められ、やがては消滅の危機に瀕するだろうと思う。
 
 これが彼らの示す未来の世界像である。無意識もしくは意識的に現在進められている進化の到達点はこの状態である。だからグローバル化が第一などと考える人はまずこの状態を想像して欲しい。この世界を良しとするならば、グローバル化もいいだろう。もちろんここに至るのは究極で困難な道のりである。そして経済危機を何度もおこしていることからも、ゴールに辿り着けるかどうかも不明である。あるいは何度か世界を滅ぼすだけのトラブルを引き起こした上で、到達できる極めて困難な道かもしれない。

 そして私はこの未来に対して「NO」である。それは経済がどうの豊かさがどうのという問題ではない。私は自然界の多様性に満ちた世界はある意味、非効率であっても理想的なシステム構造だと考えている。その考えからすれば、上記の究極の世界というのは、多様性が消失して、停滞した駄目なゴールにしか見えない。至れる可能性も少なければ、また継続可能性を持つ未来にも思えない。

 ゆえに私はグローバル化が示すような単純化された閉じられた未来図には反逆すべきと考える。これは経済の問題ではなく、文化や社会システム論としてとらえるべき問題だ。だから、私の目には「経済学者」は中世期に十字軍を率いて大量の無駄な血をながさせた宣教師達のごとく不毛でいかがわしい連中に見えてしまう。言葉足らずで自分でも歯がゆいが、これが私が経済学者を信じるなという理由である。


2013年1月13日日曜日

体罰顧問の問題は「体罰」にあるのではない


 大阪市立桜宮高校の男子バスケットボール部主将が自殺した問題で、部顧問教師の体罰についてのニュースが最近では話題となっているが、どうもメディアに取り上げられる議論がまたおかしな方向へ進んでいるような気がするので私も考えを整理する為にコメントしておく。

 まず生徒が自殺した原因は「体罰」によるという論調が多く、また各種の意見も体罰を容認/否認というような視点で書かれてるものを多く見かける。でも、もう少しこの部分の本質を考えて欲しい。

 私が考えるに生徒が自殺をしたのは、「体罰」による肉体的な痛みではなく、どこへも逃げ道がなくなって追いつめられた「精神的な絶望感」によるものである。だから問題は「体罰」の有無ではなく、いったいどのように生徒を追いつめていったのかという、学校社会や周りの人間によるコミュニケーションを調べて考えるべきである。

 なぜならば、仮にこの問題により学校で「体罰」が禁止されてゼロになったとする。ならば問題を起こした部門講師は体罰ではなく、代わりの問題へ生徒を脅迫するだろうと考えられるからだ。暴力を使わなくても人間を追いつめる方法は幾つでもある、教師と生徒の関係ならば、内申書で脅すとか、あるいはチームメイトに迷惑をかけるとか、両親や関係者を失望させるとか、いくらでも方法はある。
 そして私的な見解を言えば、こうやって言葉で脅される方が「体罰」などというものよりは、はるかにキツイ。だから問題は暴力部分よりも、むしろ生徒を脅して追いつめてゆくコミュニケーションにある。今回の問題では教師は「体罰+言葉による追いこみ」をかけ続けていたわけで、一歩誤れば相手を精神的においつめて崩壊させるような危うい関係だったのだと思う。

 ちなみにこの問題は内田樹の著書「呪いの時代」に、呪いのコミュニケーションとして書かれているものと同じである。大まかな抜粋であるが呪いのコミュニケーションとは何かを説明すると・・・
 例えば両親が子供に、おまえの為を思っているから厳しくする、お前に為にこうした、ああした、と言い続けるようなコミュニケーションの仕方である。こういう関係は学校でも会社でもよく見かけるものだ。ではどこが問題になるのかと言えば、「お前の為だ」という言葉で相手を支配し従属させようと縛り付ける所にある。そしてこの方法は旧日本帝国軍やナチス的な独裁世界で相手を縛りつけて従属させるのと、基本的には同じ手段である。
 ちなみに縛ろうとする側は、本当に善意からくる場合もあれば、ブラック企業的に戦略して行っているものまでさまざまであり、実際には善意からくるかどうかなどは良くわからない。実際には単に自身の支配欲を満足させる為に、相手を縛り付けている人も多く、それでも自分自身では善意からの行為であると勘違いしている例がある。だからこの問題は善意の有無では量れない。この問題について考える人は、この点を考慮して欲しい。

 なお私自身の意見としては、元巨人の「桑田」氏と同じで体罰は基本的に不要と考えている。例えばちょっと平手打ちを加えるぐらいを厳密にNGとするかなど細かい部分はいいのだが、体罰が無いと優秀な生徒を育てられないというのは馬鹿げた誤解である。
 そもそも一流の人間というのは定型の押しつけや強要では作れない。体罰的な強要と押しつけで作れるのは所詮は二流・三流の人間である。しかも高校生のように言葉で会話する能力がすでにあり、自分で考える事が出来るまでに育った人間に対して、体罰で縛ろうというのはコミュニケーションとしては「下」の手段だと思う。

 またこの問題を通じて思い出したのは、日本の自殺率が先進国のなかではずばぬけて高いという問題だ。今回の体罰の問題でネットの記事やニュースなどの反応を見て解ったのは、特に日本は「呪いのコミュニケーション」が多いという事だ。相手を支配する、縛らないといけないという、強迫観念がどうも日本社会では多いようだ。それは学校でも社会でも家庭でもあり、それが人を追いつめて死へと追いやっているのだと考えられる。
 

2013年1月6日日曜日

未来予測2013 ~私的予言録~


 何処かのブログで毎年恒例で未来予測を書いているという話を聞いて、これは面白いなあと思った。未来予測という言葉は大げさかもしれないが別に当たらなかったとしても、これは当時の自分の考えを知る非常に良い記録となる。だから私も大外れして笑われる事になる事を恐れずに思ったまま、なるべく大胆に書いてみる事にする。

1)世界及び日本の動向
 どうも私的には全体としてあまり良いイメージが想像できない。具体的には5年〜10年ぐらいのスパンで第三次金融危機とでも云うべき事態になると思う。現状では日本、アメリカ、ヨーロッパ、中国も含めて、先進諸国や大国で健全に成長できるような状態にはないと考えているからだ。
 これは各国個別の事情もあるが、おおきくは現在のグローバル化した金融経済の機能的な問題に起因する。私はずっと現在の金融至上主義的なシステムはうまくいかず、唯一可能性があるとすればそこから脱出することだと思っている。だが先進国でそれをやる動きはなく、ようやくヨーロッパでは金融を制御しようとする微かな動きが見え始めた程度である。よってあと10年ぐらいは改善されないだろうと思う。(あるいは世界恐慌的な事態が起こらない限りは変わらないと思う) だから紛争などの軍事衝突になる事態が起き無いことを祈るのみだと考えている。

2)日本の状況
 自民党の政治は失敗するだろう。何故ならば彼らは結局なにも学習していないし、少なくとも現在の問題が分かっていないと思われるからだ。私は今年の選挙の争点は下記だと考えていた。
 ・TPP反対
 ・原発停止、福島原発事故の収束
 ・消費税の増税禁止
 ・も一つつけるならば、福祉と社会保障の考え方を整理

 だからこれらのどれもまともに議論されず、自民党と維新が表を伸ばしたのは最悪だった。しかしこれらの上記の問題はすべて、一つの問いに集約される。

『国民国家の役割を放棄するのか、はたして国家をグローバル企業に売り渡しても良いのか ?』

 これはどの先進諸国でも共通の課題である。このどちらを私達は選択すべきかを迫られている。ちなみに私は国民国家を選ぶ、だから上記の4つのテーマをあげたのだ。国民国家は万能でもなく最上の手段ではないのかもしれない、だがグローバル化の行き過ぎはあまりにも問題が多すぎて世界そのものを壊す可能性がある。
 だが自民党や維新の政治は、グローバル化に単純に追従するだけのものでしかない。目先の利益追求に最適化する事が将来的に益になるとは限らないのだが、グローバル企業はとにかく直近の利益を最優先するものだから、そんな道理は通用しないし、一般国民の生活などを気にはしてくれない。結果としては世界中が貧しくなる結論しかないとおもうのだが、世界はその方向へ進んでいると思うし、日本はほとんどまともな議論もなしに追従しようとしている。

3)中国、アジア、軍事
 2012年の選挙で自民が勝利したのは、安倍総理の右寄り姿勢が評価されたという意見もあるが、正直言って私はアジアと軍事については、いちばん読めない部分で、もう一つ具体的なイメージが湧かない。だが、あえて大胆予測をするとすれば、10年ぐらいで中国の社会システムが壊れてなんらかの大きな変化を産むような気がする。だがそれが、さらなる独裁強化的な政治となるのか、複数国家に分裂するような状態になるのかはよく解らない。なおそのような状況で、おそらくアメリカにはアジアを軍事的に押さえるような力はないし、押さえる気も無くなっていると思う。
 ちなみに安部政権になって9条廃止で核武装という話がでていうが、これはおそらく無理だと思う。9条廃止は可能だ。だが核武装は普通に考えるとアメリカが許さない。物事の順序からするとまず日本がアメリカから全面的に独立をかちとるのが先なのだが、そんな事を真面目に選択肢として考えている政治家はいないように思う。(もちろん安倍総理も考えてないだろう)
 だから結果的には、日本の存在感はアメリカのプレゼンスが低下するのに合わせてどんどん落ちてゆき、フィリピンとか他のアジアがまとまってそれなりの発言権や主導を取る法が可能性あるような気がする。

4)原発および放射能汚染問題
 放射能汚染の問題はおそらくあと5年ほどで大問題になるだろう。福島近辺から甲状腺ガンなどの問題が顕在化すると思うし、東京などの汚染度が高い地位域などでも無視できないレベルの問題が出るだろう。そして、この問題が大きくなればリアルに遷都しようという話がまた出てくるかもしれない。
 あと大きな懸念なのは福島原発をうまく解体もしくは安全な状態まで移行できるかどうかだ。忘れっぽいメディアは報道しないが、福島原発はもう一度大地震などの災害や、解体にミスなどが発生すると致命的な大事故を発生させる可能性がある。この問題は意図的に過小評価されていると思うが、もっとも大きな懸念だ。
 ソビエトを崩壊させたのはチェルノブイリだという言葉もあるが、この問題はそれぐらい大きな問題で国家存亡を左右しかねる課題である。だがこの点については、運にも左右されるので予測のしようもない。日本政府が真剣に取り組んでくれるのを祈るのみである。


 とまあ、こんな具合に私が考える大きな問題について予測を書いてみた。もちょっと年初は明るい話題できればいいのだが、政治やメディアの劣化具合を見ていると、あまり明るい展望は見えない。