2011年9月29日木曜日

左翼とか右翼というカテゴリ

 私自身は左翼とか右翼とかいうのはあまり考え方事がないが、これは興味が無いという意味ではなく、そもそもこのカテゴリ分けは変だし問題提起そのものに意味がないとずっと思っていたからだ。このカテゴリが変だという最も解りやすい説明はモジログ「世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼」の記事を見ていただければ良いと思う。これを読んだ時に私は「なるほどね」と長い間のもやもやがずいぶんすっきりした。 もう一点、今度は日本の右翼・左翼の歪んだ形を説明しているのに、内田樹「街場のアメリカ論(文集文庫)」という本があって、上記のブログとこの本を読むと、ほとんど完璧にこの辺りがすっきりすると思う。右翼・左翼というカテゴリ分けが、そもそもなんなのかが見えてくるだろう。




 前置きが長くなったが、私はそもそも右翼・左翼とかいうカテゴリ分けは意味がないというか、問題の提起の仕方がおかしいとおもっている。それでも、わざわざブログでこんなテーマを選んだかというと、福島原発事故に関するブログやTweetなどをみていると、たびたび事故と右翼的/左翼的といった話がごちゃごちゃになった発言をみつける事があって、「いったい何なんだこれは?」と考え込む事が多かったからだ。


 良く見かけるのは「反原発=左翼、原発推進=右翼」というような暗黙のカテゴリ分けをした上で、反原発や放射能汚染に対して警告する人々を、左翼のデマだとか、福島県民を差別している差別主義者だとかいうような発言だ。私自身は3.11から反原発という立場でブログを書いているので、こういった発言を見ると酷いとは思うが、あんまり気にしない事にしていた。


 しかし、たびたび似たような発言をみかけて、しかも内容があまりに滅茶苦茶なものが多いので、整理の為にまとめてみる。ちなみに反原発の人の発言は、怒っていて乱暴な言葉を使う人はいても、内容や意図が不明確なものはほぼないので、だいたい見て解らない訳ではない。しかし反・反原発で見かける最近の発言は、意図や背景が読めない「?」な物が多い。大まかにまとめると次のような発言を見かけた。

   * 左翼が本当は放射能汚染の被害など出てないのに、デモで反原発をあおって国情を不安定かさせている。
   * 反原発主義者が放射能汚染をさわぎたてて、福島県民を差別している。
   * 原発事故では死者はでてない。交通事故に比べてもずっと安全で、騒ぐ意味などない。
   * 放射能よりタバコの方が健康に悪い。
   * 国力を示すには原子力は必要。原発を止めると経済が停滞する。電気代があがるなど。
 上記は全て誤った知識による誤解、もしくは意図的なネガティブキャンペーンである。小出裕章氏の書籍がベストセラーになるような時期に、こんなネガティブキャンペーンに惑わされる人もいないだろう。しかし、最近の大手メディアの混乱報道と、政治の停滞など、なんとなく太平洋戦争前的な空気に似ているように思えて、あんがい油断できないのかもしれないなと思い始めた。

 放射能汚染に関する本がよく売れたり、食品の産地表示が細かくなり始めたり、ネットでの発言の多さであったり、いずれにしろ言えるのは、反原発派も推進派もやはり放射能を恐れているのではないかということだ。


 上記の誹謗的な発言なども、ある種のネガティブキャンペーンなのだが、怖いのはその行く先である。結局は全員が放射能を恐れてヒステリックになる人が増え、そして不安のあまり「単純な答え」(スケープゴート探し)に走って、誰彼かまわずインネンつけるような状況、これが最悪の事態である。


 私も最初はネガティブキャンペーン的なもので、特定業界人や右翼的?もしくは単にネットで祭りを楽しんでいるような人がいるだけだと思っていた。でも最近は不安から分けの解らない理屈をつけて、悪者探しをする人が出始めたように感じる。それは反原発か推進派だとかいう以前に、もっと最悪だ。杞憂に終わればいいが、この記事を読んだ人だけでも、冷静になる事を願っている。


 いちおう最後に、反原発という私の視点で、ネガティブキャンペーン的なデマゴーグに対して反論を記載しておく。


 反原発などのデモにもっとも素早く反応したのは確かに左翼系の人たちが多かったようだ。でも最近では右翼の人たちが参加する例も増えて、単純な左右のイデオロギーではない問題として、みんなの認識も変わってきている。放射能汚染の問題は、もはやイデオロギーではなく現実的で身近な問題である。なお日本国内より、海外の視点の方がはるかに厳しいらしい。日本からの旅行者が入国時に厳重なチェックに驚かされる事が多いとも聞いている。


 放射能汚染に対する危惧が差別に結びついているのかは、正直言ってわからない。身近でそんな例をみたことはない。しかし汚染食材を消費するかどうかの話は、差別とか風評被害とかの問題ではない。ちなみに私は外食が多いので、かなり諦めている部分もあるが、食材を買う時はいちおう確認をする習慣がついた。私は少なくとも汚染食材を食べる気はないし、そのような行動が被災地支援になるとも考えていない。
 汚染食材を流通させて被災地を支援しようなどという考えは、溺れている人を助ける為に周りの人も溺れさせようとしているようなものだ。結果的に共倒れや道連れになるなだけで、まったく解決には結びつかないと考えている。


 しかし最もデマゴーグとして議論をおかしくしているのは、原子力の必要性だ。私は色々と書籍やネットで調べた結果、原発を行うメリットは何もないと判断した。かろうじてメリットといえるのは、原爆の材料を作れることであるが、既に日本では処理できずに溜まった大量のプルトニウムがあって捨て場に困る状況であり、なおかつ原爆の材料作る為なら数機原子炉があればいいだけであって、こんなに全国に作る意味はない。
 また電気代は事故が起こる前でも原発はかなり高い方で、事故後で本来のリスク費用を正しく積めばとてつもない高額な電気となるだろう。原発を止めれば経済が停滞するのではなく、こんなハイリスクで巨大な施設を抱えて経済成長はどう考えても無理だ。なお今回の事故処理でもっとも問題なのは、国家と東京電力がほとんど責任を取ろうとしないところである。実質的には責任を放棄して被災者を見捨てた形となっている。ものすごいモラルハザードであり、以後も同様の事故がおきれば責任を取らないのは明白である。
 そうなれば誰も原発の近くには住みたがらないので、産業どころではなくなるはずだと思う。人がいなくなっても電気だけを作るなどというのは、本来ありえないはずなのだが。


 なお放射能に対する危機認識だが、放射能が問題なのは遺伝子に影響を与えて次の世代に問題を継続させることである。ここがタバコの問題などとは決定的に違う。タバコを吸いすぎたからといって、正常な子供が生まれなくなったり早死にが増えたりする事は無い。本当に恐ろしいのは、この世代を超えてどれだけの問題を及ぼすのかという点である。チェルノブイリの例から推測すると、今から生まれる子供たちにはかなり影響が出る事が危惧される。映画「チェルノブイリハート」でも生まれつき不具で親に捨てられた子供が大量に発生した例がでている。
 こんな事が日本で起きれば、もうそこは人の尊厳など微塵もない状況になるのではないかと思う。やはり汚染地帯には除染をさせるまえに、まず移住をさせるべきだと思う。


<参考>


・右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念ではなく、独立概念である
 http://mojix.org/2010/10/14/left-and-right
・世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼
 http://mojix.org/2010/10/15/matsuo-uyosayo
・妨害行為が現実におきています。法的措置なども含めて検討しています。
 http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/2a6dc849c0f6a7852172bf57bb51fdf1
・チェルノブイリハート 劇場情報
 http://www.gocinema.jp/c-heart/theater/theater.html

2011年9月10日土曜日

大都市不要論

 「はたして「大都市」は本当に必要なのか?」

 この疑問は私にとっては、何年か前から時折頭に浮かんでは消える問いである。なかでも今年は震災や原発事故など、従来の考え方に影響を与えるような出来事もあって、最近ではさらに具体的な疑問として考えるようになった。なかでも今年の震災&原発事故と、復興をめぐる歪んだ構図は、従来の考えを見直すには十分な出来事だったと思う。だから現時点での考えを整理する上でまとめてみる事にした。

 まず「大都市ってそもそも必要なの?」という疑問に対して、まず従来の日本メディアはこういった当たり前の事として、大都市が必要、東京がないと経済がまわらない、経済成長もできないといった論調をここ数十年繰り返してきたという現状がある。今まではこれは当たり前の事であり、アナリストや知識階層なども、この点に対して根本的な疑問を提示したような話は聞いた事がない。(少なくとも私はね)

 たまに地方分権、活性化などといった記事もみかけるが、これも東京に対してどうやって地方を持ち上げるかというような二次的な議論であり、そもそも東京のような大都市が必要なのかといった、話題がでる事はなかった。大都市は必要、これは長く当たり前の事として流布されてきた言説である。

 では、なぜ私はこのような疑問を持つようになったのか? それは自身の仕事上の経験によるものである。私自身はソフトウェアエンジニアだが、ずっと昔から東京で会社を経営している知人に、大阪では仕事がないから、東京に出て仕事をやらないかという話をよく聞かされてきた。現在は震災もあって経済的にもだいぶパラダイムシフトが起きる可能性があるので、以前と同じではないかもしれないが、数年前はソフト関係の仕事で言えば大阪での仕事は東京の1/5といった規模で、確かに東京が仕事の中心であって知人が言うのは最もな事だった。

 しかし私は個人的に、当時からどうもこの考えが気に食わなくてずっと引っかかっていた。東京で仕事をするのは別にいい、でもそもそも東京でないとソフトの仕事が出来ないというのはオカシイのではないか? 何故ならば、ソフト開発のような仕事はネットとコンピュータがあればいいだけであり、本来は場所をえらばずに、日本中、もしくは世界中のどこにいても仕事ができるのがあるべき姿だと考えていたからだ。

 ちなみにアメリカではこういった形態は別にめずらしくもなく、州をまたがるメンバーがネット上で会議をしながら一度も顔合わせを行わずにプロジェクトを実施する例は多くあるらしい。でも日本では、なんだか良くわからないが、まずは顔を合わせないと仕事ができない、といった雰囲気があるので、ずっと旧来のベタな仕事をしている。結果としてとにかく東京に集まらないといけないということになる。でも、それでいいのか? という疑問はずっとあって、どうにかして日本各地に点在するメンバーの在宅ワークみたいなもので、中規模程度のプロジェクトを運用する事はできないのだろうかと考えてきた。(まだこの問題をうまく解決する答えが出てないけど)

 まあ、とにかくこういった思いがあったので、私はずっと東京でないと仕事ができないという事実に対してはずっと根本的な疑問を感じていた。だが最近では、さらにソフトウェア以外のもっと色々な業種であっても、大都市に集中するのではなく、もっと日本全国に分散するべきだと思うようになった。いや、もっと正確に言えば、そういう方向に世界は進んでおり、いずれは日本でもその方向にシフトせざるを得ないと思う。それは様々な変化がここ十年程度の間に起きており、従来の常識を見直すべき時がきたと考えるからだ。

 1つは販売形態の変化で、ここ十年程度でコンビニエンスストアと通信販売は飛躍的に増えた。代わりに一般の商店街などはどんどん廃れるようになった。これが良いのか悪いのかは議論が分かれる所だと思うが、少なくとも今後の方向性を考えれば、将来の販売に対する究極の姿は、コンビニエンスストアと通信販売に集約されていくのは間違いないだろう。

 そして、今年の震災に関連して色々と問題点が明らかになったエネルギー(主に電力)政策についてだが、これも従来の考え方の妥当性を見直すべきがきたと思われる。原発事故の影響で、原子力の是非が問われるようになったが、少し視点を変えて考えるならば、これは次のような2つの思想の対立でもある。

   * 原子力や火力など、大規模設備による集中管理システム。
   * 風力、太陽光など、小規模設備による分散管理型システム。

 従来は大きいことは良いことで、それが低コストで安定だと長い間考えられてきた。しかし3.11の大震災では、その考えが大きく崩れることとなった。大規模設備による集中管理は、いったん設備にトラブルが発生すると、被害が甚大であり、なおかつ修復も困難である。むしろエネルギーのような安定供給を目指すものは、小規模設備を複数展開した分散型システムの方が理にかなっていると言えるだろう。

 もっと解りやすく言えば、インターネットが分散管理型システムの代表である。インターネットの起源はアメリカで考案された軍事技術だが、その基本思想は分散型にする事により、事故やトラブルが発生しても問題となった設備の役割を他の設備が自動的に代替えする事により、すみやかに復旧するという考えだ。これは確かに優れた先駆的な考え方であり、今ではインターネットは世界を結ぶようになった。

 ちなみに、政治や世の中の仕組みという点から考えれば、近代の日本は代表的な「集中管理システム」型の社会だと言えるだろう。それでも高度成長期の以前には、まだ地方分権というか、地方の特色や文化などがあって、分散管理システム的な要素もあったのだと思う。だが高度成長期の急激な変化と、政府や官僚による護送船団方式に代表されるような1極集中の方針により、今では世界で最も硬直した維持の困難な社会システムになってしまった。

 そして硬直して歪んだ社会システムの実態がもっとも顕著に現れたのが、大震災とそれにまつわる復興議論だ。私が気になったポイントとしては、次のようなものが挙げられる。

   * 東京石原都知事の、東京さえ無事ならば日本経済は大丈夫といった発言
   * 原発に代表される、あくまでも巨大設備による集中管理を進めようとするエネルギー政策
   * 縦割りや省庁権益などでがんじがらめになって何もできない硬直した官僚システム
   * 既存の体質や体系を維持するだけで、将来性の無い、まの抜けた提案を繰り返す、財界や政治家など

 私の目には、財界・官僚・政治家たちは、今までと同じように新たに巨大な箱物をたてることだけにやっきになっており、根本的な社会システムの問題や変化にはまるで気づいていないように見える。

 はっきりいって、今の日本は問題だらけだ。そして金も無い。彼らは金もないなかで、さらに無駄金投資となるような巨大設備による集中管理システムを続けようとしている。今まではできたかもしれない、でも将来はおそらく無理だ。私にはこれらが、倒産しかかっている会社の社長が、いままでさんざん赤字を作って衰退させてきた方針をかえずに繰り返そうとしているだけに見える。むしろ今こそいろんな社会システム全体を見直すべきがきたのではないだろうか?

 私は今こそは次のような従来の常識を見直すして、これからの社会システムを考え直すべきだと思う。

   * 東京がないと日本経済は沈むのか? 機能分散すればいいのではないか?
   * 大企業だけを支援するような政策で経済成長できるのか? 柔軟性や展望の無い旧体制の維持だけになってないか?
   * 原発のような巨大設備による集中エネルギー管理は、本当に安定供給につながるのか?
   * 今みたいな財界・官僚・政治のでかいだけで硬直したシステムでやっていけるのか?

 ちなみに最後に余談として書くが、自然界の仕組みというのは、よくよく考えれば分散型システムなのだと思う。生物はどこかに集まって偏っているわけではなく、それぞれがうまく棲み分けして衝突しないようになっている。これはおそらく長い歴史の中で結果としてそうなったのだろうが、長く続けようとすればおのずと、1極集中ではなく、ゆらぎをもった多様性のある形態を取るという一つの答えなのだと思う。