2017年8月5日土曜日

リアリティを喪失した社会 ~成熟しない永遠のロリコン文化~

「日本に住んでいると、いったい何がリアルなのかよく解らない」最近よくこういった事を感じる。

 例えば日本における貧困者はそれなりに深刻だと考えているが、かといって普段街を歩いていて明らかに貧しいと分かるような人を見かける事は少ない。表通りを歩いているだけならホームレスすら見かける事は稀だし、それなりにみんな小ぎれいな格好はしている。もう少し注意深く見れば格安品を身に着けている人が大いとか見えてくるかもしれないが、ぱっと見た目ではあまり解らない。では本当に日本は豊かで貧困問題はないのかと言えば、もちろんそんな事はない。貧困問題は確かにあるし困っている人もいる。ただそれらがひじょうに見えにくくなっている。

 もしも私がテレビでずっとバラエティ番組だけを見ていたとしたら、おそらく貧困問題が日本にあるなんて夢にも思わないだろう。問題が実在しても、それを知る人がいなければ認識すらされない。だが認識されなかったとしても、問題そのものが消えて無くなるわけではない。

 最初に述べたリアルがよく解らないというのは、本来あるべきはずの問題が隠されているという感覚だ。しばらく前に「“日本すごい!”系バラエティ批判」という話題があったが、最近はメディアの偏りが酷くなってきて、徐々に現実感が無くなっていくように感じる事がある。うまく説明しずらいテーマなのだが今回はこの件について書いてみる。


1)誤りを受け入れない文化
 そう言えばずっと昔(おそらく80年代ぐらい)に友達が話した事がある。
「日本では死が表にでてこない。例えばアジアの街では道端に死体が転がっているが珍しくない場所もあるのに、日本では猫の死骸ですらすぐにかたずけて無かった事になる」つまりは、汚れ(穢れ)をすぐに隠そうとすることに異常なくらいに潔癖なのではないかという話題だった。
 あの時に友人と話したのは「死」というテーマだったが、今にして思うと『この異常なまでの潔癖さ』は習性といえるぐらい至る所にあるような気がする。

 例えば仕事上で課題が発生したときに現れる。何か問題があった場合、私の基本的なスタンスは『どこにだって課題はあるしあるのはしょうがないのだから、なるべくオープンにして早めに議論をするべき』というものだ。だがそうではなく『いやあそれはちょっとまずいから』あるいは『タイミングを考えて』とか言って、課題を隠すか後回しにしようとする人も多い。
 私にはこれは担当者個人の問題というよりも、そもそも日本には物事を隠そうとする(誤りが存在しなかったかのように振舞う)習慣というものがあるように思う。つまりはあって当たり前の問題を受け入れず、むしろ問題があれば直ちにそれで誰かを糾弾しようとするような行動だ。

 例えばイジメの問題で学校側の隠ぺいが暴露されて批判されるケースがよくある。これはおそらくイジメを公開して対処しようとしても、すぐに責任論になって肝心の対策の話がまともに出来ない事が多いからだろう。あるいは逆に何か改善案を出そうとすると言い出しっぺに押し付けようとするので、誰も言い出さないという事もよくある。
 これらは全て極めて幼稚な行為でまともな教養人からすると馬鹿げているのだろうが、わりと日本では普通にある。それどころか「誤りを認めない(受け入れられない)」だけではなく、「誤りがあってはならない(異様な潔癖さ)」という発展形だって珍しくはない。

 例えばここ数年の話だが、大手メーカーで古いソフトウェアの刷新検討で打ち合わせをした際に、IT部門のマネージャーから「うちはアジャイル開発的なものを認めず、ウォータフォール開発手法一本でやります」と言われてあっけにとられた事がある。
 少し解説すると「ウォーターフォール開発」とは最初に完璧な設計書をつくってあとはそれにしたがってプログラムを作るという考え方で1980年代はこれがメインだった。だがこの方法が成功するには『最初に完璧な設計書が作れる』というのが成り立つことが前提で、それゆえに複雑なシステムや多様な変化を受け入れざるを得ないソフトウェア開発には向かない。
 この為に最近の複雑なシステム開発では一気に完成品を設計するのではなくて、ラフスケッチのような設計+プログラムを作って事前に評価して再設計するなどの色々な工夫が行われるようになった。
 なので大手メーカーのマネージャーが旧式の開発方針(誤りゼロの設計ができる前提)が当たり前で、それしか認めないというのを聞いて私はとても驚いたし、同時にがっかりもした。
(大手メーカーですらこれだから日本がソフトウェア後進国になるんだよと心の中で思った)
 しかもこれが無学とか無教養な人が言うのではなく、高度な教育をされた人間が言うところに日本の特殊性があるような気がする。ひょっとすると高学歴の方が顕著かもしれない。
 誤りを減らそうとするのは美徳だが、誤りが存在しなかったかのように隠すのは悪徳(もはや病)である。

 この病はなかなかにやっかいで物事が上り調子の時には問題は見えてこないが、いったん落ち目になると歯止めが効かなくなるのでどうしようも無くなる。そもそも落ち目になってから復活するには問題に対処するしかないが、その前提としていま現実に起こっている問題をまず受け入れなければならない。なので問題の存在すら拒否(逃避)しているようではそもそも解決しようがないし、むしろ逆に妄想でさらに現実を覆い隠してゆく事になる。いわゆる「クロをシロ」と言いくるめる事だが、いったんこれを始めるたら嘘が破綻しないようにどんどんと拡張していっていずれわけが解らなくなる。


2)リアリティの喪失
 海外の事に詳しくないので比較はできないのだけども、それでも私は最近の日本社会はちょっと異常なのではないかと思う。嘘と虚構が蔓延しすぎてもはや何が現実なのかよく解らない。そしてその虚構の代表が安倍政権である。加計学園の問題は致命的な汚職問題だし、経済政策は外交政策などについても問題が多い。というかもはや問題を語る事につかれて、誰か評価する部分を教えて欲しいと思うぐらいだ。しかしこの歴代最悪ともいえる政権が長期政権であるというのがまさに日本がまともでない証だと考える。(いずれ歴史がどうしようもない結果を示すだろうが・・・)

 だが何よりも問題なのは政権ではなく、これだけデタラメ行動が正しくメディアで伝えられない事だ。それどころか大部分の主要メディアは忖度して、この政権を支えてすらきた。このためにテレビで伝えられる日本のニュースはあたかも、別世界の物語でも聞かされるかのようにリアリティがない。
 実のところ私はこのメディアを見るのに耐えられなくなって、ほとんどテレビを見なくなった。新聞すらあまり見なくなった。もちろんネットを通じて色々と意見や記事をみるので世間から隔絶されているわけではない。ただし結果として世間一般の世論とはだいぶかけ離れた視点や感覚で世の中を見ていると思う。
 これは自分でも過剰なメディア不信だと思う。だがある意味では合理的だ。スポンサーや政府に忖度して当たり障りのないニュースだけしか流さないメディアにはそもそも情報ソースとしての価値がない。例えばどうでもいいゴシップは幾らでも載せるが、重要な政策や危機については書かない新聞があったとする・・・そんな物を読んだところで何の役にも立ちはしない。
むしろ判断を誤らせる害となるだろう。しかしその結果、昔同様にテレビやニュースを見ている人たちとの現実認識でかなり差異が出ているようだ。

 それを実感したのは、この前に友達とオリンピックの話していた時だった。実のところ私自身は東京オリンピックはその始めの経緯からして問題が多く、オリンピックの名のもとに数々のデタラメや横暴が行われるのを見るに堪えなくて今でも中止して欲しいと思っている。だが友達はそんなオリンピックの負の側面などは考えた事がなくて、オリンピックで話題になるのは、見に行くかどうかとか、せっかくだから何かボランティアでもしようかという話ばかりだった。
 これは本当に分かり易くもの凄いギャップだった。とても同じ国に住んでいる人間同士と思えないぐらいだ。でもこれは今の時代では珍しい事では無く、当たり前のことなのだろう。どっちが正しいかよりも、それぐらいに情報が混線していて各自の考え方が分断されているという事にあらためて驚く。まるでパラレルワールドだ。そして次の疑問が頭をよぎる。

「誰が本当の事を言っているのか、あるいはどこを探せば正しい情報が手にはいるのか?」

 もう既にネットでさえもフェイクが至る所に溢れすぎていて訳が解らない。そう言えば誰かが製品の評価を知ろうとネットで検索したら、出てくるのはほとんど製品の宣伝記事ばかりでうんざりしたという話題があった。広告にカウンター記事、さらに攪乱を意図したフェイク、誤解で誤った情報をたれ流す人まで・・・あまりに情報が多すぎて、普通の人のまっとうな意見を探そうとするのは難しい。
 フェイクと言えば、この前にネットで日本が太平洋戦争で敗北した事を知らない学生がいるという話を聞いたが、それもあり得ない話ではないと思う。

 フェイク記事の問題は他国でもあるが日本の場合はなんだか「フェイクをフェイクと知りつつ受け入れてる」というような本音と建て前文化的な屈折もありそうで、もうちょっと歪だと思う。結果としては知識人までがフェイクを持ち上げたり流したりしている ~ さらにはそれが日常化していつしか「ミイラ取りがミイラになる」ような事が現実に起こっている気がする。つまりは「狂人のふりをしているうちに本当に狂人になった人達」が多いのではないかという疑念だ。

 そうでなければいくら右傾化したとしても、いま進めている自民党の憲法改正案のようなあまりに酷い野蛮な議論などは、まともな人間ではありえないと思う。彼らの人権を制約しようとか民主主義そのものを憎んでいるかのような発言は野蛮としか言いようがない。だがそんな意見が与党内で大した反論もなく進められているのが現実だ。まともな良識があれば共謀罪などのような国家的な汚点になるような法案を通すなどは本来ありえない。

 彼ら与党政治家の無責任さと幼稚さ、それに恥知らずさは度を越している。だがそれ以上に問題なのはやはりメディアだ。主要メディアの大部分は法案が通るまでは問題点についてあまり言及せず、法案が通ってからアリバイづくりのように問題点を報じ始めた。こんな変な国はさすがに他ではないんじゃないかと思う。


3)成熟しない文化
 リアリティの喪失は日本固有ではないが、それでも日本は一線を超えていてなんからの文化的な崩壊現象を引き起こすのではなないかと思う事がある。それぐらいにもの凄くアンバランスで嘘と現実が混在している。それを実感したのが最近話題となっている北朝鮮の核危機だ。
 北朝鮮問題で各国間に緊張が高まるなか、日本政府の対応はなんだかよく解らないチグハグなものだった。おそらく世界的に見れば浮いていたのだろうし、国内からすると酔っ払いが威勢のいいことを言うぐらいにいい加減なものだった。

 まず戦争発生を警戒して近隣の中国・韓国が慎重な対応を訴えるなか安倍総理だけが強硬な意見をだしていた。普通ならば韓国などと同様に、トランプ政権がアメリカ本土攻撃ができない今のうちにと強硬手段をとっていきなり北朝鮮を攻撃~反撃で自国の都市に大打撃~みたいな事を懸念するはずなのに、まるで安倍総理はトランプ大統領と同じ立場かむしろそれ以上に強硬な態度を見せていたように思う。(思わず、アメリカと日本じゃ危機の意味も立場も違うだろうと突っ込みたくなるぐらいに)

 さらに総理の危機対策やってます感をだす為の行動もよく解らないものだった。重要施設もなく最もミサイルが飛んでこないような地方の農村でミサイル避難訓練をやらせた。(都市での対策というのは聞いた事がないのに)かと思えばそうやって危機感をあおったうえで花見や外遊をしているという矛盾に満ちたものだった。
 真面目に攻撃に備えるならば、狙われる危険の無い地方での避難訓練などやらずにもっとすべきことがあるはずだ。例えば原子力施設破壊に備えて近隣にヨウ素剤を配布しておくとかなど。だがそういったたぐいの話題すら聞いた事が無い。

 でもこれに変じゃないかという壮大な突っ込みが無いところが日本人のおかしなところである。関連して思いだしたのが、前にフジロックフェスティバルにSEALDsが出た時に、音楽に政治を持ち込むなという声が多数あった件だ。だがこれは本来おかしな話だ。音楽に関わらず芸術などで何かをありのままに表現しようとすれば、そこで政治だけを避けて通るなどという事は本来できるはずがない。表現するテーマによっては政治、宗教、戦争、差別や貧困だのという諸々に向き合わなければならない事がある。なのにそれを避けてとか、それを入れないでとか言う事はおかしい。そもそもそのような反論は本来はとても恥ずかしい事なのだ。何故ならばそういうのは、あたかも自分は難しい事は解らないお子様だからと宣言するようなものだからだ。
 だがそれすら解らない程に日本の音楽カルチャーというのは未成熟なのだろう。新聞やテレビと同様に当たり障りのない口当たりの良いテーマばかりを選んでいる。またAKBなどのアイドルビジネスなどはもはや音楽などは二の次になっている。これでは文化として成熟しようがない。

 成熟のしない文化、それは言い換えれば永遠のロリコン文化なのかもしれない。もう私が物心ついた頃から、日本は当たり障りの無さを貴ぶみたいな国だった。例えば政治と宗教の話はタブーでかなり親しい間でもあまり話をしない。そんな風に議論をさけ成熟をさける社会のせいか文化や表現が古典を除いてどんどんと薄っぺらくなるような気がする。誰もがぶつかる深遠なテーマをずっとさけ続けていけば、作る物は必然的に子供向けにならざるを得ない。

 そう考えれば戦後の日本そのものがある意味では箱庭であり、子供が成長せずに永遠に素直である事を願って作られた社会なのかもしれない。ゆえに深遠なテーマを避け、ただ子供のように当たり障りのない遊びだけをしつづけている。

<参考資料>
東京は世界有数の安全都市→五輪「共謀罪」ないと開けぬ 首相の招致演説「ファクトチェック」

オリンピックはいつからそんなエラくなったの?~アスリートファーストではなく社会ファーストで

自民党の憲法改憲草案は一体何が問題?わかりやすく解説!

「フジロックに政治を持ち込むな」に、アジカンの後藤正文さんら反論

厚切りジェイソン、“日本すごい!”系バラエティ批判に賛否両論…真の問題点とは?

2017年7月25日火曜日

汚れちまった日本語で何を語ればいいのだろう

「言語としての日本語が壊れた・・・」

 ここ少し前に何度かTwitterでこんな事をつぶやいた。もちろんこれは比喩なのだが、それでも最近はときおりこんな感覚(直感)がある。この感覚を言葉で説明するのは難しいが、今しないと後からでは書けなくなりそうな気がする。なのでこの「日本語が壊れた」あるいは「破綻した」という漠然とした予感について色々と書いて置こうと思う。


1)日本語に失われた美しさ
 日本人の私にとって日本語は空気のようなものだ。日本語のテキストをみれば無意識に脳が反応して意味を読み解くし、日本語の歌詞があれば同様に聞く気がなくても頭に入る。それだけ馴染んだ言葉なのだが、それでもふと「今の日本語は美しくない」「美しさを失ったのではないか?」と漠然と感じる事がある。最初はこの思いは単なるノスタルジーなのだと思っていた。
 しかしTwitterなどで飛び交う罵倒や嫌味な当てこすりだの嘘を見るにつれ、この醜さは何か根本的な、まるで人が退化して類人猿にでもなったかのような喪失があるんじゃないかと感じるようになった。そしてこの美しくないのが、単に言葉が時代と共に変わったわけではなく、何かが変わったあるいは失われてしまったのではないかと思えてきた。

 思い返せば似たような感覚は過去にもある。最近では「学生との対話/小林秀雄」を読んだ時だった。この本は1961-1978の間に行われた文筆家(小林秀雄)の講義及び学生との対話を記録したもので、対話のテーマは小林が行っていた本居宣長研究からベルグソンなどの哲学や信仰も含めて実にさまざまだ。ちなみに私は小林秀雄は戦前戦後を通じて著名な批評家というぐらいの知識しかなく、この本はたまたま疲れている時に気分転換として手に取っただけだった。だが読んでみてとても衝撃をうけた。一言で言うならば文章を読んで感激(しびれた)のだ。

 「しびれた」という感覚、それは日常語での「面白かった」「良かった」というのとは異なる。まさに演劇ライブで素晴らしい演技に感銘を受けたのと同じ、あるいは列車旅行で疲れてぼんやりしているときに不意に目の前に現れた壮大な景色に圧倒されて言葉を失う、そういった感覚だった。本の内容はもちろん興味深いし面白かった。だが感激というのは、むしろそんな個々のテーマ云々というより、本物の高い教養(インテリジェンス)に触れたという純粋な喜びや爽快さだ。

 本物の教養に出会う感動というのは思えば長く忘れていたものだ。たまたま優れた書籍や文に出会えなかったからだけなのだろうか? でも思い返すと過去にも何度か同じような事を考えた事がある。

 その一つは、10年以上前だと思うが「武士道/新渡戸稲造」を読んだ時だった。当時の私は著名な書物である「武士道」を一度くらいは目を通しておいてもいいだろうと考え、気楽に本を手に取った。率直に言うと100年以上も前の日本で書かれた書物なので内容的にはたいした事ないのではないかと思っていた。だが読んでみて驚いたのはそこに書かれている教養の深さだった。読んでみて新渡戸の教養の深さに圧倒されると同時に、仮に現在にでもこのような本物の教養人というものがいるのだろうかと疑問を持ったぐらいだった。

 ちなみにここで少し補足すると、私が評価をした教養とは小林秀雄や新渡戸稲造の思想や考えが正しいとか共感するとかいうような話ではない。たとえば書籍に書かれた文章あるいは思想という結果だけをみて成否を問うならば、それはあたかも書籍を単なる解答集(トレビア)とい狭い枠だけで見るようなものだ。そうではなくて感銘したのは、答えにたどり着くまでの著者の様々な考えや悩みとそれに取り組む姿勢や優美さなどを含めたむしろ道のりだ。私は手に取った書籍を通じて、時代も場所も違う著者にあたかも時空を超えてよりそうように眺めるような感覚を得る事に感激したのである。だからこの思いはいくら丁寧な内容をWikipedeaに書いても実物の本を読まなければ説明できるものではない。

 そしてそういった本物の教養というものに触れる機会はだんだんと無くなってきたように思う。これは単に出会えないというより、そういった教養というものが日本では失われつつあるのではないかとう疑念だ。

 かなり前の話だが友達と話していたときに日本語についての話題となった事がある。確かどうして日本語は曖昧な言葉ばかりが多いのかといった雑談だった。その時に友人は次のような事を言った。
『本当に昔の日本人が同じ言葉を使っていたとは思えない。なぜならば戦国時代とかのシリアスな時代をくぐるのにそんな曖昧な言葉を侍が使うとは想像できない』
 そういえば私が初めて「もののけ姫」(ジブリ映画)を見た時に、主人公のアシタカが語る言葉のシンプルさと力強さに感動したのを覚えている。アシタカが語る言葉には偽りや迷いが全くない、それゆえにとても美しかった。もうかなり前の話だが、その時にも美しい言葉は失われてしまったのだろうかと考えた事がある。

 また少し違うがこんな古い感覚がある。1980年代頃にセックスピストルズにはまっていた時に「Bodies」の歌詞(和訳)を見てとても驚いた事がある。理由はその歌詞をみてそこに教養を感じとったからだ。
 でもこれは自分でもとても意外な驚きだった。なぜならセックスピストルズ(パンクロック)は当時のイギリスで言えばクソガキが演じる野蛮な音楽であって、教養や知性などというのとは本来最も縁遠いはずのものだったからだ。まともな教育を受けたかどうかも解らないイギリスのガキの歌詞、だがそれは言葉は荒いかが確かに教養を感じさせた。それは、そこに描かれた怒りや苦悩というものが、明らかに知性があるものが感じるはずの痛みや感情だったからだ。
 そして同時に私は当時流れていた日本のロックやポップスを聞きながら、圧倒的な文化の差のようなものに打ちのめされたような思いがした。正直言って日本の大学教育を受けたインテリがこれに勝るものが書けるとは思えなかったからだ。


2)何が日本語から失われたか
 日本語から美しさが失われたと先で述べたが、では「日本語はもうダメだ壊れてきた」という感覚はどこからくるのだろうか。そもそも言葉が壊れるとはどういう事なのだろう。それは「言葉その物の意味が失う事」だと思う。

 考えてみれば当たり前の話なのだが、言葉が価値を持つのはそこに真実(信頼)があるからだ。真実が失われれば言葉は意味を失う。そして嘘をつきつづければ言葉はどんどん力を失って、やがては発したと同時に空気のように消えてなくなるようなものになる。

 これをテーマとした小説が「1984/ジョージ・オーウェル」で、そこには『二重思考』という考えが登場する。二重思考とは1つの言葉が相反する2つの意味を持つということで本音と建て前というよりは、むしろ顕在意識と無意識で相反する意味を2つ抱えているような状態を指す。これは自分で自分に嘘をつくようなものだ。嘘は本来はどこにでもあるが、でも日本ではこれが少しどころじゃなく蔓延しているように思う。

 私がそれをリアルに実感したのは3.11(2011年の東北大震災~福島原発事故)だった。震災が引き起こした前例の無い原発事故、それが引き起こす放射能汚染という見えない恐怖。だが私が本当に恐怖を感じたのは、本当は大変な事が起こっている、あるいは起こりつつあるはずなのに、テレビはあたかも何事も無かったかのようにいつもどおりバラエティ番組を流しつづけていた事だ。
 別に大騒ぎしてくれと思っていたわけではない、ただ当時はまず真実を知りたかっただけだった。だがテレビのみならば、新聞ですらも想定される被爆の危険については沈黙し、学者や知識人は根拠もなく安全だと言い続けた。現実世界はあるいは破局の一歩手前まできているのかもしれない、なのにテレビはまるで事故が起こらなかったような世界を演じ続けている。ひょっとすると全員が死に絶えて滅んだとしてもテレビは無人の街に延々と録画した番組を流し続けるのかもしれない。
 私はこの沈黙が不気味で当時テレビを見ると吐きそうになるぐらい気分が悪くなった。おかげでいまでも日本のテレビ番組は好きではない。特にバラエティ番組は嘘で凝り固まった汚物でも見せられるように思えてあまり見ない。

 だが近年はもっと深刻だ。なぜならば安倍政権が誕生してからというもの、この政権は多くの誤魔化しや嘘をまきちらし、同時に社会全体のモラルすら破壊し続けているからだ。そして現在では政府による秘密主義と独裁を推し進めてまさにオーウェルの「1984」のような国に作り変えようとしている。
 現在も安倍政権は数々の疑惑を誤魔化し続けている。だが本当にそれらの疑惑が解明される見込みは立っていない。状況的には完全にクロと言える状況だが、メディアや知識人は疑惑を解明するどころかむしろ多くは政府の嘘に加担してきたと言われてもいいような状態である。私はこれこそが最も手ひどい日本語の破壊だと思う。
 政府の言葉、知識人の言葉、メディアの言葉、それらの信頼が失われ続ければいったいどうなるのだろうか。そんな中でどうやって生きれば良いというのだ。前に国会での総理答弁書き起こしを見た事があるが内容は本当に酷い。これはもはや人から類人猿への退化どころではない。だがこれまで新聞はフォトショップで美人に加工するかのように要約(意訳)をしてあたりさわりの無い物に総理答弁を置き換え続けてきた。これこそがまさに言葉の破壊である。


3)喪失すら忘れていたもの
 さきほど近年における嘘の蔓延といった事を書いたが、でも実は嘘はもっと以前からあって何かが大きく残絶しているのではないかと思う。1つは80年代のバブル、さらに遡ると太平洋戦争の敗戦(1945)ではないかと思う。理由は現在の日本の土台となっている最も大きな嘘(二重思考)、敗戦によるアメリカの日本占領が始まるからだ。

 そう考えるきっかけはネットで色々な人の意見を目にしているうち、だんだんと世界から見たら「日本は変な国なのだろうな」という感覚が理解できるようになったからだ。長くこういうのは国民性とか文化の違いだと思っていた。でも実は今住んでいるこの国こそがある意味では「1984」だったのではないかと思えてくる。それを具体的にまとめたのが「永続敗戦論/白井聡」だが、ここには「敗戦」を「終戦」と呼び変えるような大きな嘘(二重思考)について色々と述べられている。

 だが私が最もシンプルに実感したのは、いつからか日本は「何が正しいか」ではなく「何が得か」でまず考えるようになったという事の問題だ。おそらくここが見えにくいが最も根本的に社会を卑しめている部分であって、いつからか大きく歪めてしまったのだと思う。
 理由は永続敗戦論に書かれたように二重思考で「アメリカの属国という現実」を「経済大国」だと呼び変えたるような、日本人のコンプレックスを、自分で自分に嘘をつくように誤魔化し続けている事になるのだと思う。

 そう考えれば沖縄の米軍基地の問題はまさに二重思考である。長く与党として支配してきた自民党は沖縄に米軍基地をおしつけて問題を無視しつづけてきた。そしてそれは皮肉にも保守を自任する安倍政権がもっとも顕著である。
 本物の保守ならば同胞である沖縄に住む日本人の人権を回復する為に米軍を段階的にでも縮小する方向に考えそうなものだが、安倍政権は逆にアメリカに逆らうのはけしからんとでも言うかのように沖縄に対しては冷酷である。沖縄は日本にとってはれ物であり、地位協定によるアメリカ支配という屈辱を思いだせる証なのだろう。戦後の日本人はそれらをすべて忘れるようにした。豊かにはなったかもしれないがある意味では動物園の檻の中のような世界だったのではないだろうか。

 私はこの「何が正しいか」ではなく「何が得か」で考えるという事が、最大の日本社会の堕落であり残絶だと思う。それに気が付いたのはこの前ビデオニュースで宮台真司(社会学者)が政治を行う場合は、国民に対して損得で説得するしかないと発言するのを聞いた時だった。おそらくこの考えは西洋社会では受け入れられないものだろう。

 西洋のキリスト教社会はその哲学の基礎に神への信仰がある。例え誰も見ていなくても「神」が見ていると考える、ゆえにまず考えるのは「何が正しいか」となる。ところが日本はこの一神教の考え方が無い。でもこれこそが明治時代に新渡戸稲造が「武士道」を書かなければいけなかった最大の理由であり葛藤だ。
 国際社会に日本が踏み出したばかりのころ、新渡戸は西洋人から「神」の概念がなくて日本人は何をモラルとして生きるのかと問われた。これに対する答えとして、新渡戸は日本人には一神教のような神=モラルというのは無い、だが我々には自分たちなりの独自のモラル(武士道という概念)があり野蛮人ではないと伝えるが為に「武士道」という本を書いた。
 しかしこの前に見たビデオニュースでの宮台真司の発言を聞いて、実はもう日本には「何が得か」という価値基準しかないのだとつくづく思い知らされた。もしもそうならば現在の日本社会は明治時代の新渡戸がいた頃よりも劣化した世界だという事になる。損得だけで考えて何がおかしいのか、そう聞かれて何も感じないほどに日本にはモラルが無い。

 これは私にとってはちょっとした衝撃だった。今まで生きていると思っていた日本人(日本文化)というのは、実はとうの昔に死んでいたゾンビだったと知らされたようなものだ。

 だがなかには「損得だけで考えるのは正しいじゃないか」という人もいるだろう。だがそれは大きく異なる考えだ。これは何も青臭い正義感で言っているわけではなく、現実的に考えれば中長期的に社会を運営するにはこういった理念は必ず必要になるという当たり前の指摘だ。
 理念があるからこそ人は将来に対して一貫性がある計画や行動ができる。そしてその差は必ず至る所に現れる。乱暴な言い方をすれば、単純に損得で考えるだけでは「言葉をしゃべる犬」とどう違うかという事になる。そしてもしも犬でしかないならば、いつまでも目先の状況に振り回されて堂々巡りのような事を続けるしか出来ないだろう。(これはまさに現在の安倍政権がやっている一貫性の無さを表している気がする)


4)最後に
 こうして色々と書いていると、結局のところ日本とはなんだったのだろうかという事になる。憲法改正という問題が近年言われるようになったが、それ以前にそもそも日本はまともな理念を持った事が無かったのではないかという気すらしてくる。
 モラルを放棄して、個人の損得だけを価値判断の基準として、なおかつ長らく教育では「余計な事は考えるな」とずっと子供に教え続けてきた国だ。長い時間を使って育ててきたのは「空気を読む犬」や「数学が出来る犬」ばかりだったのだろうか。
 もちろん、そう言う人ばかりではないと思う。だが特に最近やっている教育改革はまるで「数学が出来る犬」や「パソコンが使える犬」だけを効率的に育てればいいと言っているかのように聞こえる。

 いったいなんだろうな・・・という感想しかないが、私はいまだに「Bodies / Sex Pistols」で感じた文明的な差が埋まったとは思えない。むしろこうして考えると広がったような気すらする。日本とか日本人はもっと根本的な部分から考え直して出直さないとダメなんじゃなかろうか。

 例えばそういった根本理念が無いからソフトウェアのような知的産業がずっと弱いのではないのか。いい加減に「ソフトウェアは犬には組めない」と気が付いて欲しいのだが・・・。


<参考リンク>
日本の新聞は、安倍首相答弁の一言一句までの書き起こしをたまには紙面に載せるべきだ。

国際社会から「共謀罪」の危険性を指摘する声が続々! 国連特別報告者は安倍官邸の反論のインチキを完全暴露

Do you speak Japanese?

中原中也「汚れっちまった悲しみに……」

内閣官房長官の権力 ビデオニュース・ドットコム

2017年6月13日火曜日

現実感を失った日常 ~極右化が描くパラレルワールド~

 私は元々漫画好きだが最近はなんだか疲れて読む作品が限られてきた。同様の事を漫画だけではなく、小説や音楽、さらには映画などについても感じるようになった。特に漫画は最も力(精神力)を使わずに気楽に楽しめていたし、広く読み親しんできたのに、それすらも疲れると感じるというのでは末期的だ。

 ちなみに私はかなり偏食するタイプで、音楽でも映画でも小説でも人間でも好き嫌いが激しく、ジャンルそのものは広いのだが実際に手に取る作品はかなり限られる。例えば音楽ならばパンクミュージック~テクノ~民族音楽~クラシックとわりとなんでもありなのだけど、実際に手を取るのはかなり限られる。例えばクラシックはサティ大好きでドビッシーやモーツアルトは肌に合わなくて聞かないといったぐあいだ。

 だが偏食家といっても、不思議なものでその時の体(あるいは精神)が必要とするものは本能的にわかるのか、半年まえはホルスト(クラシック曲Jupiter大好き)のような普段聞かない音楽が大好きになる事もある。なので実際は偏食というよりは、無意識的に自分に必要な栄養は解って受け入れているのかもしれない。
 なので好きな作品に出会えるとまだ自分の感性が完全に死んだわけではないのだと少し安心する。最近では映画「この世界の片隅に」、書籍「ヒルビリーエレジー/J・D・ヴァンス 」「学生との対話/小林秀雄」、漫画なら「宝石の国/市川春子」なんかがそうだ。


 少し長い前ふりだったが、ここまで私の偏食家ぶりを述べてきた理由は、偏食は私自身の問題ではなく世の中の方が相応に歪んできた影響ではないかと、ふと思ったからだ。
 もちろん私は自身を偏食家だと自覚している、例えば本屋で立ち並ぶ本の山を見ながら読みたい本がない事にため息をついたり、大量の音楽があるなかで何一つ心がときめかないのはは、だいたいにおいて自身が疲れているせいだと思っていた。鬱とまではいかなくても、人は心が疲れているとそういったものを受け入れたり楽しめないようになる。なので私も働きすぎとかの理由で心に余裕がなくなって娯楽を十分に楽しめなくなっているだけだと長く思っていた。

 だがここ2,3年の漫画やアニメの世界では、偏った同じような設定の作品が並んだり、同時に過剰な暴力や残虐行為をテーマにした作品が明らかに増えたように思う。私は表現規制反対派の人間なのでそういったテーマその物は否定しないが、あまりにも偏った作品が増えた背景としては社会そのものの歪みが背景にあるように思う。例えば、

・アニメの美少女キャラのさらに低年齢化
 なかでも「幼女戦記」というタイトルの作品は驚いた。そんなタイトルは無いだろうと初めてみた時は心のなかでツッコミをいれた。この作品は中身はまったく知らないが(見たら面白のかもしれないけど)、それでも私はわざわざ「幼女」とタイトルに付けるところは違和感を感じる。タイトルそのものではなく、「幼女」というロリタイトルをあえてつけないとヒットしないとか、何の躊躇もない人達の考えが正直言って気持ち悪い。

・新作漫画での残虐化表現の多さ
 日常的によく目にする漫画で残虐テーマを扱ったものがあきらかに増えた。さらには残虐さを競って読者を増やそうとしているような作品が増えたように思う。私はこういった作品も別に否定はしない、だが明らかに増えすぎて世の中どうなったんだと思う事がある。これを実感したのは最近のマンガボックスに連載されている漫画のタイトルだけを見ても、「皆様の玩具」「イジメの時間」「異常者の愛」とか・・・内容は詳しく見てないが拷問や虐待をテーマにする作品が徐々に増えてきた。


 特に残虐な作品が増えた事については、単なる偶然ではない社会の歪みを感じた。それはなぜかと言えば、そもそも「残酷なテーマを扱った作品に人が惹かれる理由」それは日常生活における現実感の欠如が原因だからだと思うからだ。

 今でこそ私は疲れるので残酷描写があるような作品はなるべく見ないようにしている。だがかなり前の若かった時はそういう作品をあえて探し出して見ていた時代があった。例えば有名なカルト映画「エル・トポ」「ソドムの市」「悪魔のいけにえ」や、漫画「少女椿/丸尾末広」などだ。
(実は「エル・トポ」は今でも見れそうな気がするが、他の作品は見る気がおきない)

 当時の私は小説家になりたいと思っていて、その為に人間の極限(リアル)を知ろうとあえてカルト的な作品を探しては目にしていた。だが同時に今になって思えば、生きているという生の実感を得ようと見ていたのではないかという気がする。
 残酷な作品、過激な作品、見ていて思わず気分が悪くなったり恐怖したり痛みを感じるような作品というのは、単なる毒薬にしか思えないかもしれないが、実は生きている実感が持てずに苦しむ人間にとっては必要なスパイスとなる。

 誰でも多少は似たような思いを感じた経験があるのではないだろうか。心が沈んで何もする気が起きない、何を食べても美味しくない、映画や音楽を観ても心が動かずに虚無感に沈んだような気分を。
 そしてその虚無に捕らわれて苦しむ人の一部が自傷やリストカットによる自殺を繰り返す者なのだろう。彼らは虚無という生きている実感を得られずに苦悩し、なんとか生きている事を確かめようと自分の肉体を傷つける。そして痛みや流れる血の鮮やかさを見る事でやっと自分がいるのが現実だと理解する。
 それは痛々しいが彼らにとっては痛みで正気を取り戻して自滅を回避する重要な行為である。でなければ現実感を失ったままでは本当に自分を殺してしまう危険があるからだ

 生きている実感(現実を理解できない)という問題は、人によっては色々な行為になって発現する。傷つける対象が他者になれば「秋葉原通り魔事件(2008年)」のような事件へとつながる。犯人の加藤は周りの世界から拒絶されたという絶望感に対して誰かを傷つける事で抗った。彼が名前も知らない人間を無差別に殺傷したのは、彼の敵は名前を持った特定の個人ではなく、周りにいる世界全てだったからだ。

 あるいはSM(サディズム・マゾヒズム)も方向性は違うが同じ原因から派生したと考えられる。サディズムは隷属する相手を見つけることで自身の尊厳回復(生の実感)を得ようとしおり、マゾヒズムは隷属する物(非人間)と化すことで生の重さから逃げようとする、もしくは役割を与えられる事で回復しようとする試みだと解釈できる。

 自殺する行為、殺す行為、隷属させたり傷つけたりという行為は、別に今に始まったわけではなく人の歴史としては普遍的なものだったのだろう。

 だが私の実感としては日本ではそれが明らかに加速しているような気がする。つまり日常に根差した生の実感を失って虚無に漂う人間が増えているのではないかという懸念だ。現在(2017/6/13時点)国会では共謀罪が採決されるかどうかの瀬戸際にある。これは一つの象徴だ。ここ数年の日本の極右化、ヘイトスピーチや沖縄で行われている人権抑圧、政治の私物化から、ブラック企業による搾取などの各種で増えたネガティブな事案。

 私は長らく極右化する人の考えが理解できなかったが、これらの原因も突き詰めれば生の実感を得られず、虚構と現実とに分かれた人間が辿り着いた一つの結果なのではないかと思えてきた。極右が描く世界感は現実離れしたものだが、例えばSF小説のように2つの平行世界がパラレルワールドとしてあると考えれば想像はできる。

 現実を冷静に見れば、はっきり言って日本は衰退するのみである。だがそれは盛者必衰が世の常なので必ずしも悲観する事では無い。だが、極右が想像で暮らす平行世界はそれをことごとく否定して成り立つ。
・アメリカの傀儡国家ではなく、独立して平和を先導してきたという世界
・バブル期のような経済力や豊かさが続いているかのような世界
・あたかも原発事故が無かったような世界
・技術と誠実さで各国から信頼されている世界
・安全で誰もが豊かに安心して暮らせる世界

 なかでも極め付けが、第二次世界大戦での歴史修正主義で慰安婦は無かった、南京虐殺もなかった・・・という世界だが、もうそろそろ日本は第二次大戦で実は負けていないと言い出す者が出てきそうだ。

 彼らは平行世界の夢にしがみつき、現実を告げて夢を覚まそうとする者をことごとく攻撃してきた。だがいくらしがみ付いても夢は夢でしかない。強引に現実を歪めて夢の続きを見ようとすれば、それは非現実的でグロテスクな悪夢へと変貌してゆくのだろう。

 私は現在(2017/06)の共謀罪が国会を通過するかどうかというのはそのグロテスクな悪夢が現実を塗り替えるかどうかの大きなターニングポイントだと思っている。この壁を超えれば悪夢が日本を覆うのを止められるものは実質無くなるだろう。そしてあたかも太平洋戦争前のような中世まがいの暗い時代の再現となる。

 そうならない事を祈って、ここにとりとめない連想を記載しておく。

2017年4月16日日曜日

芸術と救済

 「芸術と救済」というタイトルは仰々しいが、今回語るのはあくまでも私の個人的な経験に基づく経験や考えだ。私はここ数年ずっと創作(しかも作曲)に拘ってきた。そこに至る経緯と思いを節目として吐き出して置こうと思いこの記事を書いている。


 私がニコニコ動画とSoundCloudに投稿したオリジナル(14曲)、カバー(2曲)である。これらはここ3年ほどの間に投稿を続けてきたものだが、実際にはこれらの曲のほとんどは20年以上も前に作曲したものであり、実際に公開される間には長い年月が経過している。ゆえにこれらは新曲でありながら古くもあり、時代をへて考え方や生活もだいぶ変わったはずの「私」が作ったという少し奇妙な経緯を辿っている。


 20数年以上も前、私はローランドのD20という簡単なシーケンス機能付きのオールインワンタイプのシンセサイザーをつかってとにかく曲を作ろうと四苦八苦していた。そのころ私はフリーターで、自分に何ができるのか何をすればいいのかよくわからず、とにかく何か作品(創作)をやろうとやたらにいろんな事に手を出していた。漫画を描こうとしたり、小説や詩の記述、さらには作曲といったぐあいだ。

 ちなみに漫画は一作試しに書こうとしたが作画作業はとても地道で時間がかかり、また自作のあまりにもつまらなさにすぐ挫折した。小説は試しにいくつか短編と中編を書いたが投稿では引っかからず、ネットで少し公開したがあまりパットしなかった。だが音楽はなかなかうまくいかないにも関わらず中では一番時間をかけて続けていた。
 なぜに作曲にこだわったかというと、私は不器用で演奏がまったくうまくならず、また人混みが苦手でライブしたいという気もあまりなかったので、機械演奏を前提にとにかく新しい曲を音楽を作ろうと思いついたフレーズを片っ端からうちこんでいた。
 当時は友人とバンドを組んでいたのもあり、いくつかは友人の力で楽曲を完成させたものもある。だが大半は完成に至らなかった。大量に打ち込んだフレーズ、あるいは書きかけの歌詞はテープの中に保存されたが、いずれも片隅に追いやられていった。そしていつしか私も会社勤めをするようになったあたりから時間に終われるようになり、創作活動から遠ざかっていった。


 それから約20年が過ぎた。創作を辞めてからの間、それでも私はやはりいつかもう一度創作をする事を夢見るようになっていた。創作などしなくても日常で何も困らない。いまさらプロになって稼ぐというのも現実的ではない。では、どうして創作をもう一度やろうと思うようになったのか?
 その理由は「私が自分の人生を持て余していた」からだ。創作をしなくなって長い。だが創作をしない(しなくて良い)と決めたところで、結局のところ私は他に何をすればいいのかわからなかった。空いた時間、空いた目標をに何を埋めていいか解らず、結局のところは自分の人生をどう生きていいのか解らずに持て余して過ごしていたからだ。

 ちなみに私は過去にブログで書いたこともあるが、どちらかというと社会不適合者である。現在の時代に若い私がいたら必ずアスペルガーか何かの診断をされたことだろう。だが幸いなことに仕事は普通にできるのでいちおうは社会に溶け込んでは暮らせている。
 だがそれでも正直に言わせてもらえば、私にとっての社会は窮屈で退屈なだけの場所だった。長年生きていると学習するので他の人間の事も少しずつ理解できてくる。何が伝わって何が伝わらなかも解ってくる。でも私が誰からも理解されない、理解されない私の姿が残っていることには変わりはない。なので私は常にどこかで人間のフリをして過ごしているような居心地の悪さを感じていた。どうにかやってはいけている、だが世間とはどこかしっくりこず、正直に言うと生きる事が面倒でしょうがなかった。
 そんな私だからだろう。人生がつまらない、安住できる(私が理解されるような)居場所もない。何か人生の目標やテーマがどうしても必要だった。そしていつかもう一度創作を始める日々を夢見るようになった。いつか物語を書こう、新しい曲を作ろうと。だがそれを実際に始めるには長い年月ときっかけが必要だった。


 私がもう一度創作(楽曲)に取り組もうと思い腰をあげたのは、実は3.11大震災・原発災害が起きた事に影響されている。私にとっての3.11は何度かブログにも書いたが、それは平和な日常の終わりであり、リアルに自分が死ぬ、または滅んで逝く者である事を実感する体験となった。だからこそ、人生は有限であり、創作をするならば今やらねばできないと思い立つようになった。
 ではなぜ特に音楽に拘ったかというと、ずっと昔作ったフレーズの残片が20年以上たってもいまだに頭の中に残っていた。未完の作品たち、それらはあたかも亡霊のようだ。頭の片隅で常に微かな囁きを続ける。ゆえにいつしか私は、自分が救済される為にはこの頭に残った亡霊を一つ一つ供養するしかないのではないかと思うようになった。
 またボカロという存在も大きい。楽曲に歌(声)を入れるということが一人でコンピュータさえあれば可能になった。これは私にとってはワクワクすることで、自分の曲は初めて声として聞けるというのは考えるだけでたまらない魅力だった。なのでDTMまったく解ってないのにとにかくソフトを買い集めて作曲に打ち込んだ。
 しかし実際に本気でやって初めてわかったのは作曲とはものすごく奥が深くて難しい。特にアレンジは巨大な学問そのものである。膨大な音楽知識、楽典、楽器、音響、加えてソフトの操作やテクニックなどまであり気が遠くなるような思いだった。
 だが私はそれでも執念で取り組んだ。それは今度こそ本当に救われたい。頭の中の亡霊を一つ一つ供養することで初めて自分も解放(それは死かもしれない)にたどり着けるのではないかと考えたからだ。そして現在公開している16曲ができた。

 まだいくつか作りかけの曲がある、それに新たに作りたい曲やカバーしたい曲もある。時間ができればいずれそれにも取り組みたい。だがどうしても公開したいと願っていた曲はだいたい出来上がった。結果的にあまり再生伸びなかったし評価もされなかったが、それでも私にとっては多くの亡霊を供養できてかなり楽になった。

 ちなみに自作曲は自分ではよく聞いている。自分で作ったからなのか不思議と心が休まる気がする。そういう意味では自身の救いには役立っている気がする。このブログもいったん言葉にしてしまった事で安心する解放される事につながっているように思う。芸術には祈りや告解のような解放のような側面もあるのではないだろうか。時には創作(産む)というのはとても苦しい作業だ。だがそれでも祈りに近いその行為は、行為そのもには救いや解放の側面もある気がする。

<作品リンク>
SoundCloud

ニコニコ動画

<曲名リスト>
・【GUMI】もしも世界が【オリジナル】
・【GUMI】天使になろう【オリジナル】
・【初音ミク】存在しない僕らのイタミ【オリジナル】
・【GUMI】憂鬱の卵【オリジナル】
・【初音ミク】忘却のワルツ【オリジナル】
・【初音ミク】散歩 ~夏の終わり~【オリジナル】
・【GUMI】不思議の湖【オリジナル】
・【GUMI】Beutifull is Power【オリジナル】
・【GUMI】追憶【オリジナル】
・【初音ミク】桜舞い ~陽炎の中で~ 【オリジナル】
・【GUMI×MIKU】アジア黄河【オリジナル】
・【初音ミク】雨上がりの夕暮れ【オリジナル】
・【GUMI】何かが起こる!?【オリジナル】
・【GUMI】忘れ去られた死について【オリジナル】
・【MIKU】バッハ メヌエット ト長調<ロックアレンジ>【カバー】
・【GUMI】天には栄え(クリスマスソング)【ロック風カバー】

2017年1月21日土曜日

もしも世界がシム(シュミレーション)ならば

 しばらく前に「もしも世界が」という曲を作った。これはガラにもないメッセージソングのような曲だ。だが曲を作ってもまだモヤモヤして言い切れてない物が残っている気がする。なので余談的なものも含めて「もしも世界がシムならば」(原案の詩)というテーマで言いたかった事を少し書いてみようと思う。

 「もしも世界がシム(シュミレーション)ならば」というのは、もしもシムシティ(ゲーム)のように自分が神の目線に立ってこの世界を運営してる立場からみたら、今の世界はいったいどのように思うだろうという意味だ。
 もともと私はそう言った事を想像するのが好きなほうなのだけど、3.11そしてそれ以降にいろんな出来事を見てから、それらは単なる空想ゲームではなく、真面目にそう言った視点でいろんな物事を考え直すべき時期にきたのではないかと思うようになった。

 そう思う一つの理由が、あまりにも現在の政治家や経済人が目先の事柄だけを考えて問題を先送りしたり放置したりしすぎると感じるからだ。日本は特に酷くてオリンピックや海外にばら撒く金は惜しまないのに、その100分の1程度ですむ福祉や教育支援にすら金を渋るという意味不明なことばかりをやっている。そしてそんあ馬鹿げた事にたいしてすらも真っ向から否定しないマスメディアもしかり。おかげで今となっては日本の政治はあまりにも適当で乱暴で、あたかも思いつきで適当なことばかりやるようになった。
 それらは色んな原因があると思うが、ひとつには考え方の硬直、そして今の現実(目先)に適応する事に集中しすぎて、かえって問題を放置しすぎているような事が多いせいだと思う。でもそれは本当は危ういことで、昔から有名な生物学のセリフで「適応しすぎた種は滅ぶ」というのを思い出す。

 これは考え方の問題だけなのだけど、例として「ホリエモン」のエピソードをあげたいと思う。過去に「堀江貴文が保育士資格廃止・自由競争化を提案して賛否両論が巻き荒れる」というような話題があった。内容は民家の保育サービスが保育士の待遇が改善されない為に立ち行かなくなっている問題に対して、ホリエモンが自由化すればいいと発言して色々と反論が多かったという話題だ。
 最近こう言ったなんでもかんでも自由化すれば良いという物言いが多い、ホリエモンもそのひとつである。確かにそれも一つの解だ。だが自由化して貧乏な為にサービスを受けられない人が多く発生したらどうなるのだろうか? ホリエモンに代表されるような新自由主義はたいてい、それは自己責任だという。それは何を意味するのかと言うと、ようするにホリエモンに代表される考え方は「この世界に適応するのが賢い人間」で、かつ経済的なプラスかマイナスかだけであらゆる物事を評価しようする事だ。

 だがホリエモン的な考え方について、なんかうまく反論できないけどモヤモヤと「なんか違うのじゃないかな?」と思う人もいるのではなないだろうか? 私もその一人である。私はホリエモンの考え方はある意味で合理的で間違ってないとはおもうが、それでも考え方には賛同できない。それは問題があった場合にどう答えを模索するかの違いである。
1)「この世界(ゲーム)のルールに従って勝つ」       (自分だけが適応できれば良い)
2)「この世界(ゲーム)のルールに問題があるなら改変すべき」(自分だけではなくもっと快適なように改変すべき)

 ちなみにホリエモンは本当に解りやすい1)の人だ。確かにそれは事実として間違ってない、でも誰もがそうするだけではこの世は住みにくいし息苦しくなる一方だ。ならば理不尽なルールの方を正してちょっとでもよくしようと言うのが2)の思考である。

 この2つの思考のどちらを選ぶかは日常、例えば仕事なんかをしていてもわりとよく遭遇する。例えば仕事上での問題があった時に、とりあえず自分の目先だけを解決するか、あるいは他にも困っている奴がいるかを探して(だいたい同様の問題に悩んでいる者が一人はいるはず)共同で対処して解決する方を選ぶかと言う場面は度々ある。そして私は可能ならは共同で解決したい方なので、どうせ手間暇がいるならば2)の考えに従って世界を少しでもマシにする方を選ぶ。
(仮にホリエモン的な考え方をするならば、協力するより相手を出し抜けと言うかもしれない)
 
 だがこう言った話をすると、同時に決まって現実主義者を名乗る者が現れて「理想なぞを述べるのは甘いんじゃないか、世の中はもっと厳しいんだ」的な事を言い出す。私もさんざんそんな連中と付き合ってきた。でもそう言った事も結局は物の見方ひとつだけだと思う。
・叶わない理想を考えるのはエネルギーの浪費だ、だから最初から考えない方がいい
・理想を考えないのは闇雲に猪突猛進しているだけでそれこそ合理的でない、単なる想像力の欠如だ

 もともと人は自由に考えていいのだから、上記のどの考えを自分が選ぶかは勝手だ。でも近年の多くの問題を考えると、特に日本の政治なんかでは目先のことばかりを考えてダメになる事があまりにも多すぎる気がする。パイの取り合い四苦八苦して騙し騙されやるよりも、むしろ新しいパイでも作るとか、うまく分けるルールを作って無駄な争いなくす方がはるかに合理的だと思う。それに、そういう考え方は本来特殊なものでもなく、もうちょっとお互いが相手の顔を見て話すようにすれば本当は普通で身近なものだと思う。

 なので私は「もしも世界がシム(シュミレーション)ならば」、あるいは「もしもゼロからルールを再構築可能だとしたら」と考える事は、行き詰まった時にやってみる価値のある「思考実験」だと思っている。たまにはそうしないと、何が本当の問題かがよくわからなくなる。


 ちなみにこのような事を考えながら、グローバル化や新自由主義の問題を考えつつ、はたしてどういうモデルが良いのだろうかというのが最近よく頭に浮かぶテーマだ。私的には安定した世界をモデル化するには今の過剰に最適化されつつある世界より、むしろ多少は冗長性を保ったままで緩い壁のある「半自給自足型の都市や社会」を設計するしかないのではないかと思っている。暇があったらいずれはこのテーマも書いてみたいと思う。

<参考>
もしも世界がシムならば(詩)
もしも世界が(曲)
【炎上】堀江貴文が保育士資格廃止・自由競争化を提案して賛否両論が巻き荒れる結果に腹BLACK 2016年5月29日
「贈与経済」論(再録)

2017年1月3日火曜日

未来予測2017 ~歪みが深まる時代~

<はじめに>
 今年で5年目となる毎年恒例の未来予測を書く。なお2016年を振り返ると、本当の意味でのカタストロフ(大戦クラスの世界的な問題)は起らなかったものの、かなり一種触発で危ういタイミングはあったような気がする。アメリカとロシアの関係、およびイスラエルと周辺国の関係など、紛争の域をハミ出しかねない場面も私的にはあったように思う。
 ただし2016年予測に書いたような大きな事が起こる(又はその兆し)になるほどの事はまだ起こっておらず、ただ世界の歪みだけが弓を引き絞るようにさらく強くなっているように感じる。


<世界の行方 〜シリア内戦より〜>
 シリア内戦だが2016にはまったく収束する気配はなかった。2017年のポイントはトランプ大統領がどのように行動するかだろう。トランプ大統領はロシアよりをアピールしているために、あるいはアサド支援にまわって流れは変わるかもしれない。
 だが私は2016年予想に書いたように紛争あるいは形を変えた争いは終わらないと思う。

 正直いって私はこれらの争いが何の争いなのかが分からなくなってきた。言い換えるとこれから何の争いになるかが不確定だという状態だ。例えば今起こっていることは、いったい次のどの文脈で説明できるのだろうか?
・シリアのアサド体制に対する戦い
・イスラム教徒の宗派対立
・アラブ周辺国の権力闘争
・ロシアとアメリカの対立
・イスラム文化圏と西洋(キリスト)文化圏の戦い
・イスラム思想と資本主義的な世界観の戦い

 この争いの本質がこれからいったいどれに集約されてゆくのか、それによって争いの広がり方や内容も違うだろう。
だがむしろ私は「そもそも何の争いかが解らないままに」世界へと紛争が拡散されていくのではないかと思っている。規模は不明だがいままでノーマークだった場所へ思わぬ形で争いが飛び火するかもしれない。

 重要なのはこれらの争いに大してどのような発想をもって解決を探ろうとするかだが・・・それが結果的には過去に書いた「未来予測2016 ~世界3つのシナリオ~」の方向性を定めると思う。私は何か根元的に発想を変えないと、もはや文明的な争いに発展しかねないこの問題は収束できないと思う。 

 発想を変えるというのは小細工のレベルではなく、例えば過去に書いた記事「新しいパートナー(人口知能による政治参加)」ぐらい(これはあくまでも例だけど)大胆な発想転換をするべきではないかと思う。


<日本の未来>
 2016年、私は日本という国が死んだように思えた年だった。それは夏の参議院選挙で与党の圧勝する姿をみた時に感じた思いである。

 これは本来はあってはいけない出来事だった。与党側はそれまでに数々の不祥事や失策、民意を無視した政策、将来性の無い無謀な政策などを次々に実施し、民意だけではなく法制度そのものも毀損してきた。だがその法律を守らないゴロツキまがいの連中が何事もなかったかのように選挙で再び選ばれたのだ。これはいくらメディアがヨイショ記事を書き続けたからといっても本来はあり得ない結果である。まさに末世であり「狂人が盲人の手を引く」という図式を完成させてしまった。

 与党政府がこれまで一貫してやってきたのは自身と取り巻き連中の延命のみである。落ちぶれた三菱グループを救済する為に兵器産業にのめりこみ、東芝を救済する為に原子力政策をあと押しし、電力会社とその談合的な利権グループの世界を維持する為に全ての電気料金に原発廃炉費用を上乗せすると言いだした。
 採算がとれる見込みのないリニア着工もあえて実施する理由となれば土木利権へのバラマキとしか考えられない。そしてさらにカジノ利権という新たなものまで生み出した。逆に福祉や教育にかかる費用はとことん削られた。

 想像してみよう。仮に国家を人体のモデルとして例えたら経済活動は血液の流れに相当する。血液のようにお金が末端まで行きわたることでしか健康を維持できない。
 だが現在まで与党がやってきた政策は頭や肥大したガン細胞化した部分にのみ血液を集め、手足への血液循環を怠っているような事を突き進めている。だが頭やガン細胞だけで生命が生きられるわけではない。やせ衰えた手足は放っておけば壊死するし最終的には生命活動そのものが危うくなるだろう。
 つまりは彼らは国家を管理する立場にありながら、とっくにその役割を放棄しているのである。

 漠然とした私が想像する未来の日本のイメージは、実質的に世界(外資的なもの)に身売りをして細々と人が生きる姿だ。延命していた産業もいつかは滅び(外資に買い取られるとか)代わりの産業を育てる事はできず、人材育成も教育や貧困のせいで劣化を続けて、安い単価で酷使される人だけが大量に存在するような社会である。

 あるいはこの島国(場所)には外資が投資するだけの価値すら存在せず、日本人は過去のツケとしてもくもくと必要性のなくなった原子炉を運営、あるいは解体するだけの作業をする人たちだけが暮らすような寂れた場所になるかもしれない。

 上記に書いたのはあくまでも私の妄想である。だが2016年夏の参議院選挙で与党が圧勝し、もうだれも止められない状況になった今、だれもその悪夢のシナリオを止められないのではないかと思っている。


<参考リンク>
未来予測2016 ~世界3つのシナリオ~

未来予測2015 ~不安定化する世界~

未来予測2014 ~安倍政権という方向性~

未来予測2013 ~私的予言録~

新しいパートナー(人口知能の政治参加)



2016年10月16日日曜日

「妖(あやかし)」の思考、「人間」の思考

 最近ふと「夏目友人帳」を見ていてなんとなく納得した事があるのでブログを書くことにした。テーマは「妖(あやかし)の思考」で、つまりは人間以外、あるいは普段とは異なる思考方法について考えを述べたいと思う。

 少し補足すると「夏目友人帳」は日本で人気のある妖(妖怪とか物の怪など)をテーマにした漫画で、妖を見る力を持っている主人公の高校生が色んなトラブルや不思議な体験をする話である。
 ちなみに私はグロい話は好きではないけど「百鬼夜行抄/今市子」とか、あるいは神話をテーマにしたような話はわりと好きである。こういった物語はイマジネーションを書きたてるし、異なる文化を持った者との出会いを描いた体験談として読むと楽しいからだ。



 では話を戻すと、夏目友人帳を見ていて私がなるほどと思ったのは「妖って起承転結を求めないんだ」という事である。

 つまり彼ら(妖)は「物事に対して理由を求めない」。何故こんな事がおきたか、どうしてこうなったかと言った経緯や理由を考えるより先に、まず目の前に起きた出来事をそのまま受け入れる。そして理由を細かく詮索したりしようとはしない。おそらくこれは多くの昔話や神話で繰り返されるテーマなのだと思う。

 ここには「なんらかのルール」が存在しており、皆がそれを受け例れて暮らしている。けれどもルールを作ったのか誰か、どんな理由で作られたのかなどは解らない。そして意図がわからぬものであっても「ルール」を破れば何らかの報いを受ける。
 つまり彼ら(妖)は近代人のような論理的な思考をしないのである。私はここまで考えて、むしろ妖の思考は幼児や未開民族に近いのだと思った。



 ここまで書くと、すぐに「妖の思考というのは未熟な知性であって、成熟した現在人より劣るのではないか」というような事を言い出す人が出てくる。だが私はしたいのはそんな話ではなくむしろその逆である。

 私が「夏目友人帳」をみてちょっと感動したのは「彼ら(妖達)の起承転結(理由)が無くても良いのだ」というその自由さと大らかさについてである。そして、同時にいかに現在人は多くの理由(理屈)に縛られているだろうと思った。


 これを説明する為にあえて少しだけ話を飛躍させる。例えば「獣(動物)の思考」という物について考えてみたい。

 妖の思考と言うのはおそらく獣に近い。むしろ逆に獣が言葉を語れたならばきっと妖のような事を言いそうな気がする。

 では動物と人間の思考は何が一番違うのだろうか?

 私はその答えは「時間」だと思っている。地球上では人間だけが明確な時間の概念を持っている。これは一見なんでもないように思えるが、じつはこのちょっとした違いがとてつもなく大きな差異に繋がる。

 なぜならば時間を持つがゆえに、人は過去・現在・未来に自我を分断されている。そして過ぎた事に対する後悔や、まだ見ぬ未来に対して恐怖する。動物は人間ほど明確に過去と未来というような概念を持たない。彼らは常に目の前の現実に対して全力で取り組むのであって、手を抜いて余力を残そうなどとは考えない。そしてそうであるがゆえに後悔という概念も必然的に無いのだと思う。

 ちなみに今回のテーマである「妖」、あるいは神話に登場する神や悪魔というものは、基本的に永遠であって明確に寿命を持っていない。それはおそらく偶然ではなく、時間を持たない(あるいは縛られない)ゆえに、彼らは起承転結に縛られない存在となっているのだと思う。永遠という長い尺度で世界を見る者にとっては、世界は常に移ろいゆくものだからだ。

 私の考えでは人は時間を持つがゆえに論理を組み立てて文明を創り出した。だがその代償として後悔や恐怖に常に捕らわれる存在になった。過去・現在・未来に自我が分断されたがゆえに、より心は窮屈になり喜びも小さくなった。

 なので考えてみて欲しい、誰もが一度は「人間を辞めて動物になりたい」考えた事があるだろう。タカになって思う存分飛びたい、ライオンのごとく自由に平原を力の限り走りたい、クジラのように海の果てまでも泳ぎたい・・と。

 私も度々考えた事がある。もしも人間であるという制約(呪い)を捨てられたらどうなるかとか、獣のように生きられるヒーローにあこがれたりした。なので私は「人間の思考 > 妖(けもの)の思考」というような優劣関係があると考えるのは誤りだと思う。



 人間であるという制約(呪い)は多くの哲学者や宗教家などが取り組んできた永遠のテーマである。下記はあくまでも私見であるが・・・

・かつてキリストは唯一神(天国や地獄)という永遠をベースに人々に隣人愛を説いた。

・クリシュナムルティはその著書の中で分断された自我ではなく完全なる自我(例えば愛そのものに同化する)という境地があると説き、それが恐怖を克服する鍵であると述べた。

・いにしえの武人(伊藤一刀斎とか)が語った無の境地や無拍子という概念は時間という制約を超えて自由になる事を示唆している。


 おそらく多くの人がこの人間という制約(呪い)を超えようと、言葉や分野は違えど色々と語ってきたのだろう。例えばリチャードバックが書くのは、常に主人公(カモメのジョナサンなど)が自分の壁を乗り越える事を目指して足掻くストーリーである。私たちは人間的な思考を続けながらも、いつかは別のステージに上がる事ができるのではないかと夢想を続けている。これこそが人類の普遍的なテーマなのだろう・・・。



 おっと、どんどん話がデカくなって私の手に余るようになってきた。

 最後にだからどうだという話だけど、

 「私もいっそ妖になりたいな・・・」という話である。(だって楽しそうだもの)


<余談:密教戦線サンガース>
 私がよく思いだすヒーロー(獣のような生き方)は、漫画「密教戦線サンガース/笠原倫(1989年)」の主人公(W浅野)である。主人公は普段周囲にどうしようもない不良として腫物のように扱われているが、その行動にはまったく迷いや後悔がなくて本当に素晴らしい。自分自身に対してまったく嘘をつかないし葛藤など基本的にしない。
 そしてレイモンド・チャンドラーみたいなセリフを言うハードボイルドなキャラなのもいい。思ったままに怒るし行動するしだが、シンプルであるがゆえに肝心な時には間違えない。
 もう本当にこの作品は大好きで、マイナーなんだけど何かの拍子に復刻してヒットしたりしないかなと願っている。ちょっと古いけど次のような作品を連想するような渋い漫画なので、興味あれば是非一度読んでみてください。
・往年の日本ハードボイルドドラマ「探偵物語(松田優作)」「俺たちは天使だ(沖雅也)」
・映画「ブルースブラザース」

<参考>
密教戦線サンガース